第218話 新たな年の始まり (3)
結局、昨夜はそのまま眠ってしまった。まぶしい朝日に目を細めると、ベッドの中で逃げるように体を反転させる。ここにいると、新年が始まったという実感すらわかない。
『あけましておめでとう』
日付が変わった頃に届いていたメッセージに頬が緩む。返事を打つと、すぐに既読がついた。
『おはよ』
寝起きと分かる掠れた声に、笑いながら新年のあいさつを返す。
『昨日は、兄貴たちに散々絡まれたの。酒が入ると、本当面倒くさいのよ』
うんざりした口調ながらも、声は明るい。両親と兄の家族も加わっての年越しと話していたから、きっとにぎやかだったのだろう。
『歩は、どうだった?』
「私は」
いつも通り、大丈夫と言いかけたのを止めた。春海には、できるかぎり正直でありたい。
「ご飯食べたら、すぐ寝ちゃいました」
『なにか、あったの?』
「いえ」
トーンの変わった真剣な声に、このまま話を続けるべきか悩んだが、勝手に口が動いた。
「両親には、よくしてもらってるんです。遅くなる私に合わせて、ご飯待っててくれたり、ちゃんと気にかけてくれるから」
言葉にすることで、自分の非が、改めて浮き彫りになってくる。ぎくしゃくした雰囲気を作っているのは紛れもなく自分なのに、変えることができない。無力さが、心を追いつめていく。
「でも、私には……居場所がなくて」
『そっか』
感情のない反応に、新年早々聞かせる話ではなかったと後悔する。春海が、重い沈黙を破った。
『やっぱり、今から迎えに行こうか?』
「だ、だめですよ!
ちゃんとそっちで過ごしてください」
『いいじゃない。特にやることないし』
「それでも、です」
春海の実家から、加田木市までは、ずいぶん離れている。明日からもバイトが詰まっている身では、一緒に過ごせる時間は少なく、余計な手間はかけさせたくない。気持ちだけ受けとるつもりで語気を強めると、笑い声だけが返ってきた。
「それに、今日は、花ちゃんが遊びに来ますし」
『そうだったわね。
花江さんに、よろしく伝えてて』
「はい。でも、明日会いますよね」
明日は花江の誘いで、勇太と三人で食事をするらしく、歩も誘われてはいた。
『歩も来ればいいのに。
帰りは、あたしが送るわよ?』
「せっかくですけど、遠慮します」
『もしかして、行きづらかったりする?』
きっぱり断ったことで、不安になったのか春海が声をひそめた。うまく説明できるか悩みながら、考えをまとめる。
「皆で食事するのが、嫌とかじゃないです。ただ、その、花ちゃんが……」
『花江さん? どうしたの?』
「花ちゃんって、春海さんには友人ですけど、私にとっては家族ですし、子どもの頃から色々知られてて……」
歩にとって、花江は保護者であり、勇太や春海とは異なる存在だ。花江は気にしないだろうが、子ども扱いされかねない立場では、歩が落ち着かない。
『あぁ、なんとなく分かる気がする』
頭をかきながらの説明に、明るい声が届いた。言いたかったことは、どうにか伝わったらしい。
──それに
年齢が近いためか、三人とも仲がいい。しかも、全員が年上で、一番近い勇太でさえ、六つ上だ。出会った頃から、話題も、雰囲気も、すでに大人だった輪の中に入るのは、まだ勇気が持てない。
「あ、でも、花ちゃんが嫌いとかでは、ないですから!」
『分かってるわよ』
「だから、私のことは気にしないで楽しんできてください」
『ん、了解。
あとで会いにいくから』
優しい声に、起きるのもつらかった体が、軽くなる。
「今年は、春海さんがいてくれるから、嬉しいです」
春海が、電話の向こうで小さく笑った声がした。一拍置いて、なにか思いついたようにトーンが上がる。
『ねぇ、来年は、一緒に過ごそう。
年越しは無理でも、初日の出を見て、初詣に行くのは、どう?』
「でも」
『歩と過ごしてから、実家に顔を出すから大丈夫よ。歩もよかったら、うちに来ない?』
自分を気づかっての言葉が嬉しくて、素直に頷いた。
「すごく、楽しそうですね」
『でしょう。
絶対楽しいわよ』
「初日の出に初詣って、初尽くしですね」
『そうね。あ、初売りもつけなきゃ』
いつしか気分は、すっかり晴れて、とりとめのない会話を楽しんだ。
◇
昼を過ぎた頃、階下がにぎやかになった。どうやら、花江が来たらしい。階段を下りていくと、スウェット姿の光とすれ違う。
「あゆちゃん、花江叔母さんが来てるよ」
「光は、どこ行くの?」
「あいさつしたから、出てきた」
あくびをしながら部屋に向かう光を見送って、リビングへと向かう。両親と談笑していた花江が、歩に気づいて手招きする。
「歩、この間は、ありがとう。
帰りは疲れたんじゃない?」
「ううん。大丈夫だった」
新年のあいさつを交わした後の会話に、里江が反応する。
「花江、何の話?」
「夏に大きな台風が来たでしょう。歩が片付けの手伝いに来てくれたの。駐車場を、一人で掃除してくれて。力仕事だったから、すごく助かっちゃった。そのお礼」
「……そうだったの」
「おおかみ町は、被害がひどかったんだって? 今は、落ち着いたかい?」
「ええ、なんとかね」
ショックを受けたような雰囲気が、里江から伝わる。責められているわけでもないのに、なぜか居たたまれない。俯いていると、忍び足で階段を下りる足音が聞こえる。ドアのガラスに映る人影に、花江が声をかけた。
「光、たまにはゆっくり話さない?」
「ごめーん、叔母さん。
さっき、同級生から連絡が入ったの。
あ、お年玉ありがと。
クルマ借りるね。夜ご飯は食べる。
あゆちゃん、あとよろしく!
いってきまーす」
いつの間にか身支度を整えた光が、玄関を飛びだしていく。
「……逃げたわね」
無念そうな一言に、思わず笑う。目が合った花江が、やれやれと肩をすくめた。