第215話 一歩、前へ (27)
「説明会でも話しましたが、うちの高校は、単位制となっています。三年以上在籍し、全日制と同じ数の単位を習得することが卒業の条件です。もちろん、以前通われていた高校の単位も引き継げます。例えば、前の高校で二年通われていた方の場合、ここで一年間学ぶ、といった感じですね」
メモをとりながら、頭の中で記憶をたどる。高校最後になったあの日は、いつだったろう。
「通信科の学習は、自宅学習とスクーリングが主です。自宅学習は、レポート、つまり、課題を提出してもらいます。評価の大半は、単元ごとのレポートで決まります。期末試験もありますが、期日までにレポートを提出し、合格すれば、ほぼ単位は習得できます」
「次に、スクーリングですが、前期、後期それぞれの毎週日曜日にあります。これは必ず受講しなければなりません。教科ごとに担任がつきますので、分からない箇所は質問してください。
生徒は、基本的に授業にあわせて教室を移動しますが、本多さんの場合は、少人数クラスでの受講をおすすめします。少人数クラスは、校舎に入らず教室に直接出入りできますし、大半の授業を同じ教室で受けることができます」
言葉を切った柳田が、歩を見た。
「よろしければ、ご覧になりますか?」
覚悟を決めるように黙る歩を、二人が待っている。ただ、向けてくる視線は優しくて「お願いします」と頷いた。
◇
タイルが敷きつめられた中庭は、色とりどりの鉢が並んでいる。渡り廊下を進む柳田が左に曲がり、一番端の部屋に向かった。靴箱が設置されたドアを開けると、明るい室内に淡いピンクのカーペットと天井につり下がるライトが見えた。唾をのみ込み、大きく息を吸う。
右足を、踏みだした。段差につま先が当たり、バランスを崩す。とっさに伸びてきた手が、体を支えてくれた。
「歩」
聞き慣れた声に、体の芯に力が戻る。前を向くと、差し出していた手を引っ込める柳田と、目が合った。
「あ、ごめんなさい」
「いえいえ、つまづかなくてよかったです。
こんなおじさんよりも、ご家族の方が安心するでしょう。私では、セクハラになりかねませんからな」
あっけらかんと笑う柳田に、緊張していた空気が和む。「入らなくとも構いませんよ」と気づかう言葉に、首を振って中へと入った。
──ここが、教室
教室は手前にカーペット、奥に畳が敷いてあり、ウッド調のローテーブルがある。黒板はなく、側面に木製の飾り棚が備えつけられているだけだ。教壇も机もないためか、目まいも息苦しさも起こらない。
「大丈夫そうですか?」
「はい」
周りを見渡す余裕ができた頃に、柳田が尋ねた。たかだか教室に入るくらいで、と情けなく思うも、全力疾走したように、心臓は音を立てていた。
◇
「それでは、また。
分からないことは、いつでも電話してください」
「ありがとうございました」
説明を終えた柳田に見送られ、校舎を出た。見上げた空は、やけに眩しい。
「歩、やったじゃない!」
「は、春海さん?」
校舎を離れた直後、春海がぱっと笑顔になる。両手を振り回すだけでは足りなかったらしく、ハグまでしてくる。
「えらい! よく、がんばったわね」
「がんばった?」
状況を飲み込めないで目を丸くする歩に、春海が力強く頷いた。
「そう、ちゃんと教室に入れたじゃない」
「でも、教室に入っただけですし」
「前より全然進歩してるわよ。
歩は、頑張ったの。だから、自分を褒めてあげて」
両肩に置かれた春海の言葉が、じわじわと染みこんでいく。
──そうだ、今までは、教室を見ることさえできなくて
ずっと支えてくれた手の存在を思いだすと、急に膝から力が抜ける。へなへなと地面に座りこんだ歩に、春海が慌てて駆けよった。
「どうしたの!?」
「なんだろう? 体に力が入らなくて」
「すごく緊張していたものね。立てる?
待ってて、車持ってきたほうがいいわ」
「あの、そんなに走らなくても、大丈夫ですから」
春海の手を借り、寄せてきた車に乗りこむ。体を支えていた春海が、なにかに気づいたような顔になった。
「歩、震えてるじゃない」
春海に指摘された両手を見ると、小刻みに震えている。頭を抱えるように抱きよせられて、たじろいだ。
「もう終わったから、安心して」
「春海さん」
「いいじゃない。誰にも見えないわよ」
抗議しようとした声まで、震えているのが悔しい。いたわるように撫でられた手に、抵抗するつもりだった気力がしぼんでいく。
「……本当は、すごく怖かったんです」
「うん」
「教室に……入れなかったら、どうしようって、ずっと、考えてて」
「うん」
「勉強も、全然覚えてないし、学校に、なじめなかったら……もし、途中で、やめちゃったら」
「うん」
「せっかく……せっかく、春海さんが、応援してくれてるのに」
隠していた言葉が、ぽとぽとと落ちていく。歩の耳元に、春海が顔を寄せた。
「学校に行けなくても、たとえ、辞めてしまっても、あたしは、嫌いになんてならないわよ。
さっきは信じてくれてたのに、忘れちゃったの?」
ふるふると首を動かすと、満足げな声が返ってくる。
「未来のことは分からないけど、可能性はあるのよ。焦らないでいいの。一緒に進んでいこう」
「そうですね」
袖で目元を拭う歩を、春海が優しく見つめる。
「さて、がんばった歩のごほうびに、おいしい物を食べに行くわよ。この間のデートの埋め合わせもする約束だしね」
ハンドルを握る春海が、元気よく声を上げる。相づちを打ちながら、帰り道を記憶に刻んだ。馴染みのないこの風景も、見慣れるようになるのだろうか。不安は尽きないけど、諦めたくないと思えるのは、隣に春海がいてくれるから。
「私、春海さんに甘えてばかりですね」
信号待ちの間こぼれた弱音に、春海が悪戯っぽく笑う。
「あたしの好きな人は、がんばり過ぎちゃうから。もっと、甘えてくれると嬉しいな」