第211話 一歩、前へ (23)
個別相談会は、各高校ごとに個室で行われるようだ。開いた扉に、高校名が大きく貼られてある。参加者の大部分が外へと向かう中、まっすぐ相談会へと向かう人の姿もいる。
──どうしよう
どの高校も長所ばかりを述べる中、唯一、通信制高校の現実を突きつけた男性は、厳しくも、信頼できそうな気がした。あの人になら、心の奥にくすぶる不安を打ち明けられるだろうか。
見えてきた出口に、向かう人の流れが緩やかになる。その直前で引き返すと、おおすみ高校の扉をくぐった。
室内はパーテーションで三つに仕切られ、既に三組の親子が座っていた。相談会は既に始まっているらしく、親子の前にはそれぞれ担当者がついている。待合用に並んだ背もたれに番号のある椅子に腰を下ろした。パーテーションと距離があるため、向こうでの声はこちらへ聞こえない仕組みになっている。
「あの、もしかして、入学を考えていらっしゃるのですか?」
身を硬くして待っていると、隣に座るスーツ姿の女性が、顔を寄せてきた。
「あ、いえ、まだ、はっきりとは決めてなくて」
「そうですか」
周囲を意識してのことだろうが、その距離感に思わず身を引く。離れた歩を気にすることなく、女性は、高い地声で話しかけてくる。
「実は、うちにも高校一年になる息子がいるのですが、先月から部屋にこもりきりでして」
「そうですか」
「様子を見てますけど、将来を考えると、転学とか早いうちに考えておいた方がいいと思うんです」
「はあ」
「だってねぇ、高卒でないとやっぱり色々大変じゃないですか?」
「確かに大変ですよね」
「そうでしょう」
ふと、女性が気の毒そうな視線を向けていたのに気づいた。言葉の裏に、自分の息子を同じ目に合わせたくないと言わんばかりの態度が透けて見える。自然と握りこぶしに力が入った。
「次の方、どうぞ」
「あら」と立ち上がった女性が、奥のブースに入った。すぐに甲高い声が聞こえてくる。怒りにも似た感情は一気にしぼみ、ひどく惨めな気持ちになった。二十歳を過ぎた大人が、今更高校へ通おうなんて、おかしいに違いない。
「三番の方、どうぞこちらへ」
顔を上げると、先程壇上にいた男性が目の前にいた。慌てて立ち上がり、パーテーションの椅子に移る。
「初めまして、柳田です。おおすみ高校で世界史を担当しています」
「あの、本多です。よろしくお願いします」
「本多さん、先程の説明会で、なにか分かりにくかった部分はありませんでしたか?」
「いえ、すごく分かりやすかったです」
心の準備ができないまま始まった面談に、焦りだけが増えていく。壇上とは違う穏やかな雰囲気に、励まされるように顔を上げた。
「私、高校を中退してて」
「はい」
「それで、もう一度通おうと思っているのですが……その、やっぱり遅いですよね」
「そんなことはありません」
柳田が、即座に首を振った。
「通信制高校の年齢層は、大抵広いのですよ。うちの高校の話ですが、去年の卒業生には、八十二才の女性もいらっしゃいました」
「八十二才ですか」
「ええ。若い子たちに混じって、熱心に勉強してましたよ」
「私たちが教えを乞いたいくらいでしたね」と続けた柳田が、いくつかのエピソードを教えてくれた。ようやく緊張の解けた歩の姿に、柳田がファイルを取り出した。
「さて、高校入学をお考え中ということですが、少し質問してもよろしいですか?」
「はい」
歩の現状についていくつか質問をしてから、柳田がペンを置いた。
「本多さんは、すごく頑張っていらっしゃいますね」
突然出てきた褒め言葉に、目を丸くする。
「いえ、全然……今は無職で、アルバイト暮らしですし」
「アルバイトでも、きちんと働いて生活しているじゃありませんか。本当に頑張っていますよ」
柳田の表情は真剣で、本心からのように思える。底辺を歩くような自分の生き方を肯定されたことは初めてで、胸がじんわりと温かくなる。わずかな対話ながら、この人なら信頼できると思えた。
「先生!」
「はい」
言葉に詰まる歩に「焦らなくても大丈夫ですよ」と、柳田が続ける。
「実は私、学校が苦手で……でも、どうしても卒業したいと思ってるんです。こんな私でも、大丈夫でしょうか?」
引っ張り出した不安を口にすると、あまりにも情けなくて、逃げだしたくなった。腕組みをしていた柳田が、椅子に座り直した。
「学校が苦手ということですが、具体的に話せますか?」
「……教室の雰囲気、だと思います」
以前の体験を、つっかえながら打ち明ける。しどろもどろな説明を急かすことなく、柳田が何度も頷いた後、傍らに置いてある袋に手を伸ばした。説明のあった私立の二校と、おおすみ高校のパンフレットを取り出して、それぞれを開く。
「こちらは、学校が苦手な方への対応がしっかりした高校です。この高校はスクールカウンセラーが常駐していますし、カーペット仕様で教室の雰囲気も明るく、授業を受けやすい環境となっています。こちらの学園は、スクーリングがオンラインでの受講なので、学校に通う必要がありません。うちの校舎の一階にも、外から直接入れる少人数対応の教室があります。一度、ご相談に行かれてはいかがでしょう」
「こんなにあるんですか?」
驚く歩に、柳田がゆっくりと頷いた。
「本多さんのように、学校が苦手な方はいらっしゃいます。無理をして教室に来なくてもいいんです。大丈夫です。皆さん、卒業されていますよ」
自分だけだと思っていた苦しさを、理解してくれる人がいる。柳田の言葉に、胸のつかえが、ゆっくりと消えていった。
◇
壁掛け時計とスマホを交互に眺めながら、春海は、歩の帰りを待っていた。説明会が終わったとの連絡があってから、ずいぶんと経つ。一度、歩から返ってきた『大丈夫』の言葉が、更に不安を大きくさせていた。
──全然、大丈夫じゃないくせに
不安を隠すように使う常套句は、無意識なのだろう。今朝の強ばった笑顔を思い出して、やはり、ついていけばよかったと悔やむ。
ドア越しに慌ただしい足音が聞こえ、すぐにインターフォンが鳴った。
「春海さん!」
「歩!?」
ドアを開けた途端、飛び込んできた歩を驚きながら受けとめる。続けようとした気づかいの言葉を飲みこんだ。ここまで駆け上がってきたらしく、息切れしながらも、歩の目が、きらきらと輝いている。
「私、高校決めました!」
「え、高校を? 決めたの?」
「はい! すごくいい先生に出会えて、それで!」
よほど嬉しかったのか、歩が、抱きついたまま次々と話し始める。どうやら、心配は杞憂であったらしい。話の続きを促しながら、ほっと胸をなで下ろした。