第208話 一歩、前へ (20)
朝の気配に目を開ける。まだ日は出ていないが、室内はぼんやりと明るい。春海が軽く身じろぎをして、閉じた瞼がわずかに動いた。緩やかな息づかいを確認してから、肩の力を抜く。
セックスしたら、人生が変わると思っていた。
好きな人に肌をさらし、触れあえる日がくるなら、自分はきっと大人になる。そんな考えは、あっさり覆った。昨日は今日の続きであって、明日もきっと変わらない。自ら望んだのに、春海の声に応えることで精一杯で、体に触れるどころか、見る余裕さえなかった。初めて受けた愛撫は、気持ちいいという感覚を越えて、怖くもあった。最後の一線を越えなかったことへの申し訳なさも残っている。
──それでも
心の中は、穏やかで、温もりに満ちている。春海の気づかいに溢れた声や優しい仕草が、怖さを払拭してくれた。子供じみた不安に、笑顔で応じてくれた。初めて感じる劣情も、耳を塞ぎたくなった自分の声も、かわいいと受けとめてくれた。なによりも、好きな人と肌を触れあわせることは、言葉よりもずっと強く感情が伝わる行為だと教えてくれた。恥ずかしさも嬉しさも含めて、全てが大切な初体験だったといえる。
結局のところ、あれほど拒んでいたのは、春海に自分をさらけ出すのが怖かったからだろう。心のどこかで、春海を信じきれていなかったのかもしれない。自分の中の、高く、厚い壁を乗り越えられるのは、いつだって手を差し伸べてくれる春海のおかげだ。静かに眠る横顔を見つめる。
この人から愛されたい、と思う。
もっと近くで、ずっと隣で笑ってくれるなら、何もいらない。春海と出会って、灰色だった世界はたくさんの色で輝いている。春海と一緒なら、どんな辛いことがあっても前を向ける気がした。
一日が始まるまで、もう少し時間がある。繋いだ手にそっと唇を寄せ、再び目を閉じた。
◇
時計のアラームに叩き起こされ、いつもより支度に慌ただしい朝。ようやく笑いあう余裕ができたのは、春海の出勤時間ぎりぎりの頃だった。
「じゃあ、いってくるわね。
夜に電話するから」
「いってらっしゃい」
笑顔の下に名残惜しさを隠して、春海を玄関で見送る。勇気を出して、春海に自分から手を伸ばした。お揃いのボディソープの香りが、少しくすぐったい。
「あ~あ、仕事行きたくないなぁ」
肩に頭を預けた春海が、面倒くさそうに呟いた。寂しく思っているのは、自分だけではないらしい。一向に離れようとしない春海に、寂しささえ、愛情へと変換されてしまう。
「がんばりましょう、春海さん」
「そうね、がんばろうか」
軽く唇を触れあわせると、ようやくお互いの距離が開いた。もう一度、同じ挨拶を交わして、ドアが閉まった。
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