第204話 一歩、前へ (16)
本日は二話更新しています。
第203話からお読みください。
おおかみ町から戻り、数日が過ぎた。
溜まっていた発送作業も、明日からは、普段通りのペースに戻りそうだ。悟に挨拶をして、駐車場へと向かう。スマホにメッセージを入れると、足を早めた。
一ヶ月も経っていないのに、タイヤが砂利を踏みしめる振動すら懐かしい。車の施錠をしながら、歩のアパートの窓を見上げた。いつの間にか、日の落ちる時間が早くなっている。薄暗い空に、二階の窓からこぼれる光が、温かく見えた。おおかみ町から帰ってきて以来、ずっと、さ迷っていた心が、ようやく落ち着いた気がした。
「おかえりなさい」
インターフォンを押すと、すぐに歩が出迎えてくれた。温かい言葉と歩の笑顔に、足が止まる。
「あ、ごめんなさい。春海さんの家じゃないのに、変ですよね」
「ううん……ただいま」
少し遅れた返事に、満面の笑みが応えてくれる。あれほど重かった気分が、晴れていく。微笑んで、中へと入った。
◇
互いが互いの近況を聞きあうため、話題は尽きない。ようやく笑い声が落ち着いたのは、夜が更ける頃だった。頭の片隅で、勇三との話を打ち明けなければ、と思うも、いまだ切り出せない。
ふと、歩の雰囲気が、変わったように思えた。
「春海さん、聞いてほしいことがあるんです」
「なに?」
改まった態度に、心臓が音を立てる。悪い知らせではないはず、と自分に言い聞かせるも、落ち着かない。
「私、高校に通おうと思います」
「高校?」
「はい。通信制なんですけど、いくつか候補があって」
「だめよ!」
真っ先に浮かんだのは、過去の歩の姿だった。強い否定の言葉に、何よりも自分自身が驚く。
「ち、違うの」
目を丸くする歩に、必死で首を振った。猛烈な自己嫌悪に堪えきれず、両手で顔を覆う。
「春海さん?」
「ごめん。あたし、混乱してて。歩のこと、否定するつもりじゃなかったの。本当に、ごめん」
「分かりました。私も、少し驚いただけです。大丈夫ですよ」
優しい声と、背中を撫でる手に勇気をもらう。なんとか平静を取り戻すと、歩が、安心したように立ち上がる。
「さっきの話は、気にしないでください。お茶、いれてきますね」
「待って」
うやむやにする気配を察して、歩を引き留める。
「続きを聞きたい。それと、あたしも、歩に聞いてほしいことがあるの」
◇
お湯が沸く間、経緯を聞きながら、差し出されたパンフレットをめくる。取り寄せた高校のパンフレットは、何冊もあって、歩の真剣さがうかがえた。
「高校によっては、色々な資格が取れるコースもあるみたいなんです」
両手にカップを持った歩が、キッチンから戻ってきた。テーブルに広げたパンフレットを寄せて、隣に座る。
「まだ何も、決まってないんですけど。とにかく、もう一度やり直そうと思ったんです」
「そうなんだ」
穏やかな表情に、迷う素振りはない。歩を支えたいという気持ちの一方で、その決断を素直に喜べない自分の弱さが、嫌になる。
「……歩と離れたくない」
「私は、どこにも行きませんよ?」
不思議そうな歩に、ゆっくり首を振った。
「あたし、もう一度、おおかみ町で働こうと思ってる」
「そうですか」
「驚かないの?」
「驚きましたよ」
苦笑した歩が「でも」と続ける。
「なんとなく、いつか、そんな日が来ると思ってましたから」
以前、おおかみ町に戻らないのかと問いかけられたことを思い出す。あの時はきっぱり否定したはずだが、歩には何かしらの予感があったのかもしれない。
「歩は、あたしが向こうに行ってもいいの?」
おおかみ町に生活の拠点を移すだけでなく、今度こそ、仕事を辞めるつもりはない。おのずと高之山市に住む歩とは、この先ずっと離ればなれとなる。春海の説明に、歩が何度も頷いた。
「それでも、私は、春海さんの意思を尊重します。勘違いかもしれませんけど、春海さんは、ずっと望んでいたんじゃないですか?」
歩からの問いかけに、観念したよう首肯する。
「でも、あたしのために、歩に負担をかけるようなことはしたくないの」
遠距離恋愛の大変さは、身に染みて分かっている。自分が経験したからこそ、歩に同じ気持ちは味わってほしくない。もちろん、させるつもりもないが、いつか歩だけでなく、自分の負担となってしまうかもしれない。それこそが、決断に踏み切れない最大の理由だった。春海の手に、歩の手が重なる。
「私も、できることなら離れたくないです。だから、二人のことを、二人で考えませんか。
一人で、お互いのことを思いあうより、もっといい方法が思い浮かぶかもしれません」
歩の言葉を、目が覚める思いで聞いた。「私じゃ、全然頼りないですけど」と卑下する歩の手を強く握り返す。
「そんなことない!
あたしも、二人で話し合いたい」
すぐに決まらなくても、うまくいかなくても、何度も話し合えばいい。歩と選んだ未来なら、きっと後悔はない。急に輝きを増した未来に、今までの悩みがちっぽけなものに思えてきた。