第203話 一歩、前へ (15)
口数の減った春海と対照的に、勇三が、リラックスした様子でペットボトルを開ける。しばらく無言の時間が流れた。勇三が、思い出したように背中を起こす。
「春海。おまえ、『HANA』で働いていた女の子を覚えているか?」
質問に驚きすぎて、手元のコーヒーを落としそうになった。
「はい。
彼女が、なにか?」
勇三の出方をうかがいながら、そっと身構える。記憶をたどっているのか、片手でボトルを振り回す勇三は、春海の硬くなった口調に気づいていないようだ。
「去年の冬だったか。身内の葬式で、ばったり会ったんだ。当たりさわりのない会話しかできなかったが、元気でやってるみたいだぞ」
勇三は、おおかみ町を去った歩を気にしてくれていたのだろう。歩を傷つける内容でなかったことに安心する。握り潰しかけたペットボトルに気づいて、手から解放した。
「彼女となら、高之山市のイベントで会いました。今でも、一緒に出かけたりしますよ」
付き合っているとまでは言い出さないが、離れた縁が再び繋がったことを告げると、勇三が「そうか」と穏やかに笑った。
「それは、よかった」
空を見上げながらのしみじみとした口調に、引っかかりを覚えた。思わず勇三を見つめる。
「俺たちはなぁ、これから様々な取り組みをしようと思ってる。政策の目玉の一つが、パートナーシップ制度の導入だ」
突然変わった話題に戸惑いながら、頷いた。この近隣でパートナーシップを導入している自治体はない。昔ながらの気風が強いおおかみ町の町長選挙で、現町長が町の人口減少への対策として掲げた公約は、何かと話題になっていた。「ニュースで見ました」と答えると、勇三が「まずは、役場職員の意識改革が先だがな」と続ける。
「おおかみ町は、二十年後には、今の三分の二程度の人口しか残らん。更に、高齢化率は四十パーセントを超える。もはや、町として存続すら危ういんだ」
言葉を切った勇三が、口を歪めて笑った。
「それなのに、隣の北市は、山を切り開いてまで新築が建つんだとよ。つまり、おおかみ町は、ベッドタウンになる価値すらない町だということだ」
「だから、マイノリティの人たちを呼び込みたい、と?」
極論にも思える内容に、眉をひそめる。勇三が、おかしそうに肩を揺らした。
「老いていく俺たちは、それでも構わんさ。ただ、この町にも、これからを生きる人たちはいる。彼らに、この町を足かせにしたくない。この町を選んで、ここがいいと暮らしてくれる人を、増やしたいんだ。金のない、小さな町ができるのは、政策を整えるくらいしかない。可能性があるなら、挑戦するまでだ」
春海の脳裏に、先日の女性の顔がよぎった。彼女は、彼女の息子は、この町をどう思っているのだろう。
「それに、若い世代といっても、一括りではないだろう。俺にとっては、年下なら何才でも若い世代だ。要は、求める人の幅を広げたということだ。まずは、この町を、選択肢に入れてもらわんといかんからな。
もちろん、新しい住人を受け入れるためには、俺たち自身が変わらなければならない。そのためのパートナーシップ制度は、始まりに過ぎん。
おおかみ町を、誰もが住みやすい町にするのが、俺たちの最終目標だ。こんな田舎に来てもらうからには、居心地よく暮らしてほしいじゃないか」
「と、いうのが、町長の言い分だ」
そう続けた一言に、積み上がった尊敬の念が崩れ落ちる。
「全て島村さんの受け売りですか! 尊敬して損したじゃないですか!」
「しかたないだろう。公約なんて、最もらしく取り繕わないと、すぐに横やりが入るんだよ。文句があるなら、あいつに言え」
「あいつに言えって、その町長を補佐するのが仕事でしょう」
「うるさい、仕事はちゃんとやってる」
心底面倒くさそうな表情に、町長の苦労を忍ぶ。
「まあ、それは表向きの理由だ。この先は、おまえだから、話すんだぞ」
「なんだか、誤魔化そうとしてません?」
疑いの目を向ける春海を無視して、勇三が続けた。
「あの日、あの子は死のうとしたんだってな」
「!」
腹に強烈な一撃を受けたように、胸が苦しくなる。顔色を変える春海に「そんなつもりで言ったんじゃない。すまんな」と勇三が謝った。
「いえ、大丈夫です」
残ったコーヒーに手を伸ばす。なんとか流し込んでから、続きを促した。
「俺たちは、目の前で一人の命を奪うところだったんだ。そのことで、あいつはひどくショックを受けてなぁ」
歩を追いかけて飛び出した後、『HANA』に残った人たちの動向までは聞かなかった。島村は、当時の教育長という立場上、全てを知ったのだろう。
「不用意な一言が、あの子の人生を狂わせた。あの子は、俺たちがこの町から追い出したようなもんだ。せっかく縁あって、この町に住んでくれた彼女に対して、あまりにひどい仕打ちじゃないか」
勇三は関係ない。そう言いたいのに、否定の言葉がでてこない。閉じこめていた、いくつもの後悔が溢れだす。あの時、歩を傷つけたのは、きっと彼だけではないから。
「制度を作ったからといって、あの子に戻ってきてもらおうなんて思っちゃいない。これは、俺たちから彼女への謝罪だ。こんな形でしか、誠意を見せれんからな」
勇三の言葉は、夢物語のようにしか思えなかった。おそらく、あの出来事で広がった、町のイメージダウンを払拭する狙いがあるのだろう。「まあ、道のりは遠いがな」と笑う姿から察しても、制定の可能性は低いように思える。
「本当に、するつもりですか?」
期待をこめない声を、勇三が鼻で笑った。
「なんとかして、やってみせるさ。
死のうとするまで追いつめられたあの子の痛みに比べれば、俺たちの苦労なんて、かわいいもんだ」
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