第197話 一歩、前へ (9)
自然災害の描写があります。
翌日、歩は、春海と共におおかみ町に向かった。
おおかみ町に向かう道路の両脇には、落ち葉や倒木、泥が散乱している。車道は辛うじて通行できるが、歩道や民家までは、まだ手が回らないらしい。大きな木が覆い被さった民家や、ビニールシートで覆われた屋根を見るたび、胸が痛む。あまりの惨状に、春海もずっと口を結んだままだ。やがて、見慣れた『HANA』の駐車場に入ると、入り口近くでスコップを持っていた花江が、顔を上げた。
「花ちゃん!」
「あら。本当に、春海と来たのね」
花江が驚きながら、出迎えてくれた。駐車場は押し流された泥で茶色に染まり、以前の面影がない。
「今日は、休みだったの?」
「うん、まあ、そんなところ。
それより、大変だったね」
「無事はなによりだけど、今回はさすがに参ったわ」
台風明け特有のぎらぎらとした日差しと、地面からの湿気に、立っているだけで汗が流れる。花江が疲れた笑顔で、歩の後ろに目を向けた。
「遠いのに、わざわざありがとう。何のお構いもできなくて悪いわね」
「手伝いに来るって言ったでしょう。そういうのは気にしないで。ところで、勇太は?」
「勇太くんなら、他の家の手伝いに行ってるわ。大きな物を運び出すのは大変だからって」
「そっか」
周りを見渡した春海が、一瞬、暗い表情になる。すぐに気合いを入れるように両手を叩いた。
「花江さん、何からすればいい? ばんばん使ってちょうだい」
「そうね。それなら、店の床を掃除したいから、中に入ってくれる?」
「私は、駐車場を片付けるから、スコップ借りるね」
「力仕事だけど、大丈夫?」
「力仕事なら慣れてる」
足下の泥を、軽く突いてみる。泥の厚みはそれほどではないが、駐車場は広い。少しでも花江の負担を減らすべく、早速泥をすくい始めた。
◇
「歩、休憩しましょう」
無心で手を動かしていると、いつの間にか、春海が隣に立っていた。「花江さんが、お茶の支度をしてくれてるから」と誘われ『HANA』の中に入る。動かせるテーブルと椅子は、全て移動したらしい。がらんとした店内は、ひどく物寂しい。
「お疲れさま。大変だったでしょう」
差し出された麦茶を一息で飲み干す。開け放した窓から、ゆっくり風が入ってきた。涼しさを感じた途端、全身から汗が吹き出してくる。
「歩、汗がすごいけど、体調悪い?」
「大丈夫です。自分のタオルありますから」
汚れた体と花江の視線を気にして、春海から距離を取る。ぐっと腕を引かれ、その近さに体を反らせた。
「なに遠慮してるのよ。
花江さん、向こうの扇風機、借りていい?」
「ええ、冷凍庫に保冷剤があったから、今持ってくるわ」
夏場の外仕事の時は、いつもこれくらいの汗をかく。大したことないと否定するが、「熱中症になったら大変」と二人がかりで押し切られてしまった。花江だけだと断れるのに、春海に言われては頷くしかない。まるで、昔に戻ったかのような気分で、扇風機の前に座らされる。春海と目が合うと、そっと目配せしてきた。花江に気づかれないよう、緩む顔を、扇風機に向ける。
「二人のおかげで、大分綺麗になったわ。本当にありがとう」
「まさか、こんなに大変だったとは思わなかったわよ。ニュースでも一部地域で浸水とだけしか報じてなかったから」
春海の言葉に花江が頷いた。
「浸水っていってもほんの数センチだったの。うちは、この通り、店だけで済んだし。停電も復旧してるもの、よかったと思わないとね」
隣に位置する北市で、大規模な土砂崩れや浸水が発生したこともあり、ニュースの映像は北市ばかりだった。これほどの災害だったにもかかわらず、けが人だけですんだのは、不幸中の幸いだろう。
「それは、そうだけど」
春海が、納得してない気持ちを飲みこむように、麦茶を飲み干した。
◇
夕方まで片付けを手伝ってから、『HANA』を出た。慣れない作業に、体中の筋肉が悲鳴を上げている。中途半端で終わってしまった心残りはあるが、今後の自分のことも考えなければならない。あれこれと思案していると、春海から名前を呼ばれた。
「あたし、しばらくおおかみ町に通おうかと思うの。花江さん家は一通り片付いたけど、勇太の話じゃ、まだ困ってる人がいるみたいだし。人手はいくらあっても、ありがたいって言ってたから」
春海が、手伝いから戻ってきた勇太に色々と訊ねていたのは知っている。幾人かの名前をあげていたが、共通の顔なじみだったのだろう。町がボランティアを募集するかもしれないと話していたので、春海の言葉に驚きはなかった。
「私も、行きましょうか」
「ううん。歩は自分のことを考えて。大変なのは、歩も同じだから」
重い雰囲気を振り払うように、明るい声で「まずは、悟さんに、了承もらわなくちゃ」と続ける。
淡いライトの光が、春海の横顔を照らしている。前を向く視線が、やけに力強く見えた。