第19話 町民体育祭 (2)
その日の営業を終えた後、いつもは部屋に籠りきりの歩が玄関に向かう姿に花江が声を掛ける。
「あら、どこか出掛けるの?」
「あ、うん。
一応、身体を動かしておこうと思って……長いこと運動なんてしてなかったから」
「そうね。たまには身体を動かしてらっしゃい」
歩の心配性の性格を知っている花江がくすくす笑いながら「気をつけて」と送り出してくれた。玄関を出れば、夕焼けが辺りを包んでいるにも関わらず立っているだけでじわりと汗が滲んできた。
「あっつい……」
手足の筋を伸ばし、軽くストレッチをしながら頭の中で走るコースを考える。一番無難なのはこのまま中学校に向かいグランドを回るというコースだが、夕方とはいえ外はまだ明るく、走っている姿を春海に見られるのは気恥ずかしい。
市街地に向かう道路という選択肢もあったが、交通量の多い時間帯を初心者の自分が走るにはハードルが高すぎると、悩んだ末に中学校の敷地周りを道路に沿って走ることに決め、スタートを切った。
◇
走り始めこそ順調だったペースは道路をぐるりと回ったところであっという間に失速していく。脇腹に痛みを感じて遂に走るのを止めると、荒くなった呼吸を何とか整えようとゆっくり歩いていく。運動はそれなりに得意だったはずなのに随分と体力が落ちていることを実感した。
フェンス越しに見える中学校の校舎に目を向ければ、一階に灯りが煌々とともっている。先程通りかかった駐車場には見覚えある車ともう一台軽自動車が残っていたから、中ではまだ春海が仕事をしているのだろう。
「もしかして、春海さんが見えるかな……」
省エネの為か冷房が切ってあるらしく、開けっ放しの窓を見つけると、垣根越しに灯りの方へ近づきそっと中を覗いた。
「!」
廊下越しの窓を挟んだ向こう側に春海と思われる背中を見つけて思わず息を止めた。慌てて周りを見回し、誰もいないことを確認してからもう一度中を見ると、春海が横を向きながら誰かと話をしている。やがてガラガラとドアが開く音が聞こえ、人影が現れる。その場から逃げるように走り出していくと、グラウンド側に回ったところで中学校の駐車場から先程見た車が出て行くのが分かった。どうやら春海が一人残って仕事をしているらしいと、再び同じ場所まで走っていくと、わざとスピードを落として視線を向けた。
十メートル程離れた灯りの下に見える春海はこちらに背を向けたまま机に向かっている。ふと、横に置かれた何冊もの本から一つを取り出すとぱらぱらと捲り、また顔を戻す。
一瞬見えたその真剣な横顔は歩の知っている春海のどの表情とも違っていてただずっと見つめていた。
近づいてきた車のエンジン音にはっとして再び走り始めたものの何だか見てはいけないものを見てしまったような罪悪感に囚われていた。その後遅いペースながら三周走ったが、部屋の電気は点いたままで消える気配はなかった。
春海がどんな事情で一人残っているのかは分からない。もしかすると、今日中に終わらせなければならない仕事かもしれないし、単に調べものをしているだけかもしれない。だけど、すぐ近くで春海が真剣な表情で仕事をしているのを見ると、自分でも何か頑張りたくてパンパンに張った足を進める。
本番ではほんの数百メートル走るだけだし、練習しなくとも、例え手を抜いて走ったとしても、誰も責めはしないだろう。自分のしていることなんてただの自己満足でしかなくて、運動不足の身体はとっくに限界を訴えている。それでも……
あと少しだけ、走ってみよう。
心にそう決めると、止まりがちになる足に力を入れのろのろと走り出した。