苗木さんは、わかってほしい
図書室の雑誌コーナーでウロウロしていたあたしは、隣から射るような視線を感じ、訝しげに目をやった。
そこにはおどおどとした小動物のような男子生徒がこっちを窺うように見ていた。
「なに見てんだよ」
「な、苗木、さん?」
あん? なんだこいつ。あたしのこと知ってんのかよ。てか、
「なんか用かよ」
「あ、いえ、その」
あたしはずいっとそいつに自分の顔を寄せた。そいつは一歩後ずさる。瞳を潤ませて、今にも泣きそうな顔をしている。
あたしは無言のまま、じーっと睨みつける。
「な、苗木さんが、図書室にいるの、珍しいな、って」
ボソボソと今にも消え入りそうな声でそいつが呟く。
確かにあたしは高校に入学してから二年経ってるにも関わらず、ここを利用するのは初めてだ。友達に「なんか色んな雑誌置いてあるみたいよ、暇つぶしにはなるんじゃね?」と言われ、購読しているファッション誌の新刊でもあればめっけもんだなと思って、こうして足を運んでみたわけだ。
「まぁな。ここに入ったの初めてだしよ。ああ、てか、お前さ、ファッション誌ってどこにあるかわかるか?」
「ふぁ、ファッション?」
「ああ、ハイティーン向けのやつ。フェミとかガーリーじゃなくてさ、ストリート系のやつあればいいんだけど」
「……えと、ごめん、何言ってるか、ちょっと」
「だーかーら、ファッションだよ、ファッション雑誌」
「あの、多分だけど、この図書室にそういうのはないと思う、よ」
「はぁ?」
あたしは雑誌コーナーの端から端まで目を凝らして具に調べていく。なにやら小難しそうな科学の雑誌とか、ニュースなんとか雑誌とか、そんなんばっかりだった。ゆるくパーマのかかった髪をかきあげ「ちっ」舌打ちを一つ。ねーじゃねぇかよ、ファッション誌。何が『暇つぶしにはなるんじゃね?』だ。
「無駄足かよ……ったく。あとであいつ説教だな……あん?」
渋面を作っていたあたしから、何かがじりじりと距離を置こうとしていた。さっきのやつだった。
「おい」
「は、はひっ」
「なんで逃げようとしてんだよ」
胸元に少し厚みのある雑誌を抱き少しずつ後退していたそいつが「びくんっ」と立ち止まる。
そのひどく怯えた様子が少し嗜虐的なあたしの琴線に触れた。あたしはにやりと口の端を釣り上げた。
「お前、何読んでんの?」
「……え?」
「それ。その大事そうに抱えてるそれ、何の雑誌?」
「あ、こ、これは」
あたしは一歩詰め寄り、そいつからその雑誌を奪い取った。
「はぁん? 臨床心理学だ?」
「あ、返して」
そいつに背を向け、あたしはペラペラとその雑誌をめくる。なになに、アディクション領域への参入ニーズ? CBT・REBTと動機づけ面接の導入?
ポイッ、あたしはそいつに雑誌を投げ返した。
「わけわかんね。なんだそりゃ?」
「え、ええと、これは、心理学の一分野で」
あたしはポンッと一つ手を打った。
「ああ、心理テストか。無人島に一つだけ好きなものを持ってくやつとか、四つ葉のクローバー何個見つけたとか、そんなんだろ?」
「う、うん、当たらずといえども遠からずというか、なんというか」
「なんだ、お前、そういうの好きなのか。あたしも好きだぞ心理テスト。ちょっとあたしに出してみろよ、おい」
「え、えぇえ」
そうしてしばらく、あたしたちは図書室の静まり返った席で「あっは、当たってる! ウケるんですけど!」腹を抱えて笑い、注意した生徒を無視して、心理テストを楽しんだ。あたしの持っている挿絵のいっぱい入った心理テスト本のやつと違って、そいつの出したそれはなんだか細かい質問ばかりで辟易したけど、返ってきた答えは詳細に渡っていて、それがものの見事にあたしの心を捉えてるような気がして、大いに満喫することができた。いやー、心理学って面白いな。で、なんか別の本を見ながら必死にテストしてくれたそいつは、なんでかぐったりとしていた。「もう、図書室に来られない」なんて呟いていたけど、そんなわけないじゃん。さて帰るか。で、
「お前、誰?」
「え……同じクラスの、雨水、だけど」
あー、同じクラスだったのか。雨水ね、うん。えーと、誰だっけ。
◆
「はぁん? 引き篭もりねぇ?」
「うん、中学の時、僕は虐められててね、それで」
こいつは身長低いし、なよっとしていて女顔だからな。それに性格もおどおどしていて、見ていて苛つくときだってある。
「それで、その時、スクールカウンセラーの先生がね、とても親身になってくれて」
ああ、そう言えば、そんなのがいるなうちのガッコにも。生徒の相談とか乗ってくれんだっけか。ま、あたしには関係ねーけど。
「僕を、あの暗闇の中から、救ってくれた。僕は、本当に、心の底から、感謝したんだ。あの差し伸べてくれた手がなかったら、僕は今でも殻の中に、暗闇の中に閉じこもったままだったと思う」
そこから雨水の言葉が堰を切ったように溢れ出す。自分がどんなに辛かったか、自分がどんなふうに立ち直ったのか、自分がどうして臨床心理士を目指すようになったのか。あたしは雨水の話に相槌を打ちながら、得心がいった。あー、臨床心理士って心の問題とかを扱う専門家のことなのか、と。こいつが読んでいた雑誌はその専門家になるための勉強材料だったのか、と。
てかさ、かっけーじゃん、こいつ。辛いとこから這い上がってきて、夢を持って前を見てて。
雨水の眼差しは力強かった。見つめる先には光が溢れているように見えた。
あたしにはそれがとても眩しく映った。
クラスでその存在さえも認識していなかった影の薄いただのモブ。路傍の石。そんな気にもとめなかったやつが、実はこんな熱い男の子だったなんてさ。
熱く語り続けている雨水の横顔を見続けているうちに――あたしの心臓がドクドクと激しく脈打ち始めた。
◆
「いまなにしてんの、と」
あたしはスマホからSNSでメッセージを送る。相手は雨水だ。
……返事まだかよ、既読になんねぇし。イライラと画面をじーっと見つめる。あ、既読になった『本を読んでました』。
いつも通りだな。また心理学かなんかの本読んでたんだろうな。
「じゃ暇だな、と」
あたしは再度送信する。すぐに既読がついた『別に暇では……』。無視無視。さてと、今日も、
「なんか心理テスト出せ、と」
すぐに既読がついた。そして今度はすぐには返信が来なかった。きっと何にするか選んでんだろうな。
あたしと雨水が図書室で出会ってから、もう一月ほどその逢瀬を続けている。
SNSのIDも交換して、こうして毎日のようにメッセージのやり取りをしている。毎日がとても楽しかった。
もう、あたしは自分の気持ちに気づいていた。雨水のことが好きなんだと、しっかりと確信していた。そして雨水だってきっと――あたしは顔を火照らせる。
しばらくして、
『青色から連想する異性の名前を挙げてください』
雨水の、バカ。
これ、あたしだって知ってるような、すげぇ有名なやつじゃねぇかよ。
だからあたしは素直に答える。あたしの気持ちをその心理テストにのせて真剣に応える。
『雨水。青は雨水だ』
『そうなんだ。僕も青は苗木さんだったよ』
『そうか。それで、それは何が分かるんだ?』
『その人をどういう対象と考えているか、だよ』
『それで青はなんだ』
既読がついたのに返信はなかなか来なかった。やがて十分ほど経ち、ようやく返ってくる。
『恋人』
「~~~~~っ!」あたしはベッドの上で身悶えた。ゴロゴロと何度も転がり、バタバタと何回も足を跳ねさせた。
あたしも雨水も理解している。お互いが答えを知った上で『青』と答えていることを理解している。ピロン、続けざまに音がなった。
『僕は、苗木さんのことが好きです。僕と付き合ってくれませんか』
顔が真っ赤になっている、いや、全身も真っ赤に違いない。恥ずかしい。超恥ずかしい。でも嬉しい。超嬉しい。鼓動が早まる。ドキドキが止まらない。早く返事を返さなきゃ。答えは勿論オーケーだ。あたしも好きだって伝えたい。あ、でも、
SNSで告白ってのもなぁ、まぁ、あいつらしいけど。やっぱ直接会って応えたいよな。
あたしはごろんと仰向けに戻りにやにやと気味の悪いであろう笑みを浮かべる。うん、やっぱりあいつの口から『好きです』って直接聞きたい!
『返事は明日する』
送信を押すあたしの指は少し震えていた。
◆
「苗木ー、なんか面白いことない―?」
「あー? 別にーなんもねーけど」
放課後、悪友たちとあたしの机を囲みながら駄弁っている。でもあたしは友達の声はあまり耳に入ってこなかった。気もそぞろだった。
だって、今日は、うふふ。早く解散しねーかなぁ、今日は連れ立って遊びには行かねーよ。
あたしはソワソワと落ち着きなかった。気持ちがうずいていた。そんな中、
「……お?」
一瞬、空気が止まった。
うん? 頭の中お花畑だったあたしは、何事かと振り返る。悪友三人が一台のスマホを覗き込んでいた。爛々と目を輝かせて覗き込んでいた。彼女たちの手元には見覚えのあるスマホがあった。
「あっ」
それ、あたしのじゃねーか。何勝手に見てんだよ。ま、ロックかかってるから……あ、ヤバイ。
彼女たちがこちらに目を向けた。ニヤニヤととても嫌らしい笑みを浮かべていた。あたし、ロックかけ忘れてる。
「な、え、きぃ、随分面白そうなことしてんじゃん」
「か、勝手に人のスマホ見てんじゃねぇよ!」
「雨水ってあいつだろ? このクラスのいるかいないかわかんねー幽霊みたいなやつ」
友達の一人がバンバンとあたしの肩を叩く。
「つーか、苗木、一人でこんなおもしれーことしてんじゃねーよ。うちらも混ぜろっての」
は、はぁ?
「つか、通りで最近付き合い悪かったはずだよな。どんなサプライズよ」
「で、なに、今日? 今日が『ドッキリ大成功』の日なん? ぶはっ、ちょーウケる」
なに、言ってんだ、こいつら。
唖然とした顔で口をぽかんと開けるあたしを、彼女たちが訝しげに見つめる。
「え、なに、これそういうことじゃねーの?」
「なにその顔。あれー、ひょっとして、ホントに」
まずいまずいまずいまずい! こいつらに雨水とのことがバレた。
どうするどうするどうする? こいつらに雨水とのことなんて説明すればいい。
「おい、苗木、何とか言えよ。お前、まさか――本気であんな奴と付き合ったりすんのか?」
悪寒が走った。
あたしのことを誂うように呆れるように見つめていた三人からいつの間にか笑みがなくなっていた。無表情であたしを観察していた。
彼女たちの瞳孔が散大していた。その瞳の奥には濁った感情が見て取れた。それは誹りや呆れなどの嘲弄ではなかった。そこには純粋な嫌忌の感情があった。あたしの奥歯がカチカチと鳴る。
「そんな、わけ、ないじゃん。なんで、あたしが、あんな、やつと」
あたしたちはスクールカーストの上位集団だ。流行に敏感で、派手で、イケてる仲間が多くて、容姿だって平均以上。みんなから一目置かれている、そんな集まりだ。その中の中心にいるあたしが、クラスの最底辺、誰からも相手にされないような雨水と恋仲になるなんて、本来はあってはならないことなんだ。もし、そんなことがクラスに、学年に拡がったとしたら、
あたしは、死ぬ。
ハブられる。除外される。淘汰される。スクールカーストの上位というぬるま湯にいたあたしが地に落ちたら、みんなに殺される。栄華は反転し、その反動はおそらくあたしを容赦しない。あたしにはそんなの――きっと耐えられない。
「あっ、は。ちょっと、からかって、やろうと、思ったんよ。ほら、あたしって、ドS、じゃん? ああいうやつの、傷ついた顔、見たくて、よ」
まったく思っていない。雨水という存在を卑しめる辞書なんかあたしの中にはない。空虚で残酷で酷薄な言葉の羅列が、あたしの口から発せられる。
誰だ、お前。あいつにひどいことを言うお前は、一体誰だよ。
「あははは、ひでぇな、ホント。大概にしとけよー? ああいう陰気なやつって怖えんだぞ?」
「つか、早く返事してやれよー。ウチらにもオチ、特等席で見せてくれんだろ? 独り占めはずりぃぞ」
あははは、あたしたちの哄笑が教室に響き渡る。あははは、あたしは一緒に笑いながら目尻に浮かんだ涙を拭く。
胃から何かがせり上がってきた。うっぷ。それは食道を逆流して、あたしは嘔吐しそうになる。気持ち悪い。キモチ、ワルイ。
◆
それは最悪のタイミングだった。
なかなか図書室に現れないあたしを探しに来たのかもしれない。
告白の返事を待ちきれず、勇気を出して自分からもう一度告白をするつもりで来たのかもしれない。
わざわざあたしを探しに来てくれた。迎えに来てくれた。それだけははっきりとわかった。
でもそれは、最悪のタイミングだった。
雨水はいつからそこにいたんだろう。彼は教室の入口付近で固まっていた。あたしたち四人を見て、身体を硬直させていた。
あたしたちの醸す雰囲気に、悪意を、悪寒を感じたのかもしれない。引きつった表情のあたしと、あたしの後ろで笑っている彼女たちを怯えたように見つめている。
しばらく――あたしたちと雨水は睨み合うように対峙していた。
やがて――雨水は一歩足を前に踏み出した。
雨水は金縛りにあった身体を勇気を振り絞って前に動かし続けている。ぎこちなくあたしの側へとやってくる。そして、とうとうあたしたちの元へと辿り着いた。
「な、苗木さん、これ」
雨水が手に持っていた本をあたしに差し出した。その手にあったのは、いつも彼が持っている難しいことばかり書いてある専門書じゃなかった。あたしが読むような、イラスト付きのファンシーな表紙の本だった。『恋愛心理テスト』というタイトルだった。
「あの、苗木さんが好きそうなのが、沢山載ってるんだ。だから、一緒に、読もうかなって」
読みたい。雨水と一緒に、読みたいよ。
けれど、それはもう世界が許してくれなかった。
「きっもー! ナニソレ、苗木と一緒に恋愛心理テストしてーっての?」
「うわー、マジウケんだけど!」
雨水の顔から血の気が引いていた。
「ほら、苗木、もう言ってやれよ」
「そうそう、いつまでも夢見させんなって」
あたしは右肩を掴まれた。左肩も掴まれた。心を、雁字搦めに、された。
「昨日の返事……今から、するな」
「……えっ?」
蒼白になっていた雨水の顔に少し血色が戻ってきた。雨水の瞳が揺れている。
「あたしは……あたし、は」
痛っ、彼女たちに掴まれていた両肩に強い痛みが走った。
「あたしはっ! あたしはお前なんか好きでも何でもねぇよ! つーか、勘違いしてんじゃねーぞ、キモオタがっ。気持ちわりーんだよ!」
あたしの両肩の重みが消えた。ポンッ、三人のうちの誰かがあたしの背中を軽く叩いた。
「うはははは、なぁ、雨水くーん、今どんな気持ちー?」
「ウチらにハメられたってわかって、今どんな気持ち―?」
「苗木と付き合えるかもって夢見ちゃったぁ? あっは、苗木、マジでアカデミー主演女優賞もんだろ」
雨水を取り囲んだ彼女たちが、悪意を発露させた。悪の言の葉が溢れかえる。その波及は大音となり、教室中に響き渡る。
あたしは叫んですぐに閉じた目をゆっくりと開いていった。歪んだ視界が徐々に鮮明になる。あたしの目の前には、
口を薄く開け、感情を一切感じさせない能面のような表情をした雨水がいた。
あ、あ……あ。
人って本当に絶望したとき、こんな表情、する、んだ。
雨水の手に持っていた本が床に落ちた。その本の上に水が、ポツリ、ポツリと滴る。
「うわー、泣き出しちゃったよ、こいつ」
「大の男が泣くかふつー、ダッセーやつ」
ちが、う。さっき言ったのは、違うんだよ、雨水。あんなのは全部、嘘、なんだよ。
あたしの周りでゲラゲラと笑う悪意の塊たち。あたしも口の端を引き攣らせ「あ、はっ」と歪に嗤う。
わか、って。あたしの本音くらい、理解れって、雨水。
臨床心理士に、なりたいん、だろ。たくさん、たくさん、心理学の勉強、してるん、だろ。
「あ、あ、ああああああああっ!」
雨水は絶叫し、頭を抱えて蹲る。
彼が中学時代に必死に破った殻が逆再生を始める。
彼の世界が、閉じようとしている。
パタン。
あたしは彼の心が潰れる音を聞いた。