樹里ちゃんは、ゆらゆらゆれる
ソファに寝そべりながら、手を伸ばす。
袋に入ったスナック菓子を手にして口元へ。シャクシャク、ポリポリ、ゴクン。
汚れた指先はそのままに、間を置かずさらに手を――
「ちょっと、樹里。もうすぐ夕食よ?」
伸ばす。咀嚼し、母親に言葉を返す。
「分かってるってば。大丈夫大丈夫、わたし育ち盛りだし?」
「そう言って、この前もご飯残したじゃない。好きなものだけ食べてたら栄養だって――」
「あー、はいはい、分かってますぅ。ちゃんと食べますーぅ」
んもう、とこちらを一瞥した母親は、諦観した顔で夕食の支度を進めている。
この匂い、今夜は酢豚だな。黒酢をふんだんに使った母親自慢の一品。
パイナップルが入ってるのはご愛嬌だが、何でも含まれてる酵素がお肉を柔らかくするとかなんとか――まぁ、美味しいからいいんだけど。
大好物だし残さないもんね――そう思いながら、再び菓子袋に指を触れさせたとき、
「あ、そうだ」
「うん?」
母親が顔だけこっちに向けた。
「あんたインターネットで、あれ、ええと、なんてったっけ」
「うん?」
「ああ、フリ、マ? オク? とか言うの、やってなかった?」
なんでよく知らないのに二つとも略語なのよん、とくすりと笑う。
フリーマッケット、オークション。ネットの中でのそれは、もう黎明期をとうに超え、習熟している。巷のフリーマッケト宛らに様々な分野の商品がウェブと言う名の軒に並び、誰もがその膨大な商品を画面越しに物色している。そして、相場のわからないものや少しでも高く買い取ってほしいものは、オークションという形で不特定多数の売り手と買い手がせめぎ合っている。
今では当たり前の仕組み。誰もが気軽に使える社会に定着した優れたシステム。
「やってるけど。どしたの、なんか欲しいものでもあるの?」
「そうなの。ガーデニング用のハンギングスタンドが欲しくて。前の脆くて壊れちゃったから」
「ああ――」
母親はガーデニングが趣味だ。
母子家庭で、お金だって高校に通う私を養うのだって大変だとは思うのだろうけど、なんとかやり繰りしてその趣味を続けている。
その理由は――早世した父親が残したこの家、そこにあるこぢんまりとした庭。もともと夫婦でガーデニングが趣味だったそうだから、その思い出を消さないためにも、薄れさせないためにも無理をして――ううん、それは邪推。母親は今では、最愛の人の死から立ち直って、こうして気丈に生きている。
「なんか、適当なの探せばいいのね。ええと、ハンギングスタンド、だっけ」
「そうそう、小さな鉢を沢山吊るすことのできるやつね。庭先にあったでしょ、あれよ」
たしか、バッグスタンド、カバン掛けの植物版みたいなやつだ。たしかに、あった。季節ごとにそこに吊るされた鉢の中の花が綺麗で、見惚れた記憶がある。
「りょーかい。値段とかは――」
「あー、なるべく安いやつでお願い」
「えー、安物買いの銭失いにならない?」
「いいのよ。どうせ経年劣化してすぐに駄目になるんだから。そうなったらまた買い換えるわ」
経年、劣化。そう口にした母親の顔が一瞬寂しげに揺れた気がした。わたしはそれを見て見ぬ振りをした。
「んー、これ、かな」
オークションサイトから、条件を絞り、画面上に並んだ候補を目を皿のようにして眺める。
「でも、これ怪しいんだよな」
商品タイトル「ハンギングスタンド」。商品説明なし。
出品者情報、出品者「ななし」、評価「0」件に出品中商品「1」件。おそらくこれが初出品。
最安値は他を圧倒しての432円。適当につけられたであろう価格。他が大体1万円前後だから破格すぎる。しかも送料無料。
こんな怪しい商品に飛びつくのは誰もいるはずがなく、残り時間が10分になった今でも入札件数は「0」だ。
「ま、これだったら詐欺でもいっか」
わたしのバイト先の時給の約半分ワンコインで賄える。何が届いても、まぁ、諦めがつく。況や、届かなくても。
「はい、ポチッと」
スマホに表示されている『入札する』をタッチ。刹那、わたしが最高入札者、そして落札。あとは届くのを待つのみ、ね。
わたしと母親はテーブルを挟んで、お互いに腕を組んでいる。
「なんだろう、これ」
「なにかしら、これ」
テーブルに置かれているのは、届いたばかりの封筒からとりだした透明の小袋。その中に入っている一つの粒。
「……種、かなぁ」
「……種、かしら」
あの日、わたしがオークションで落札した商品が届いた。
ハンギングスタンドを頼んだはずなのに、何故か何かの植物の種子が届いていた。
「あんた、なに頼んだの?」
「……ハンギングスタンド、だけど」
母親が小袋を開け、その中に入っていた種を指先で摘む。指の節二つ分はある大きな種。わたしには、これが何の植物のものなのか分からない。目の前で小首を傾げながら渋面を作っている母親にもおそらくは分かっていないのだろう。植物に関して造形の深い母親が分からないということは、よほど珍しい類のものなのだろう。
「……ごめん、母さん。今度はちゃんとしたやつ頼むから――」
「これ」
「え?」
「植えてみましょうか」
その種をじぃっと見つめ、大きく目を見開いたまま、母親は口元に薄く笑みを浮かべていた、
「大きく、なったわね」
「だねぇ、まさかこんな大きくなるとは思わなかった」
「違うわよ、あんたのことよ」
「え、わたし?」
庭の軒先で脚をブラブラさせながら、わたしと母親は目の前の低木――と呼ぶものよりも遥かに幹は太く枝ぶりも良い樹木を見詰めていた。
「もう、大学も卒業ね」
「……うん、就職先も決まったし、これからはわたしが母さんを楽させてあげられる」
「何言ってんの、馬鹿ね」
「今までさ、母さん、わたしの為にずっと休み無く働いてきてさ、すごく大変だったと思う。すごく、感謝してるんだ」
「……馬鹿ねぇ」
「だからさ、これからは、わたしを――頼ってよ。今はまだ頼りないけどさ、社会人になって、働いて、お金を稼いで、いずれはさ」
「無理することは」
「無理じゃないっ。わたし、本当に感謝してるんだ。母さんのこと、尊敬してるんだ。大好き、なんだ。だから――」
母親はわたしに視線を向けた。疲れたように、笑った。
「ふふっ、大きく、なったわね」
「そうか、な」
「ええ、本当に頼もしい。もう、立派に成長したのね」
母親はわたしから視線を外した。目を爛々と輝かせて、笑った。
わたしはその瞳を見て思わず目を伏せてしまった。何か得体の知れない不安が心を渦巻いていた。だから、わたしも恐る恐る、目の前の――あのとき、オークションで買った種子から芽生え、成長を遂げた樹木を見つめる。
未だに何の植物なのかも分からない。ネットや図鑑を調べても何の解答も得られなかったその樹木は、今は太い幹と、真横に数本の大ぶりの枝が伸長している。もう春だというのに葉の一枚もつけていない。
わたしが高校の頃に落札したあの種。土に落とし、異常な速さで芽吹いたその植物は、なぜだか四季折々、どんなときでも葉をつけることはなかった。それで植物として成立するのかわたしにはわからなかったが、あれから七年、この樹は枯れることなく、今は立派に我家の庭に鎮座ましましている。
「母さん、ただいま」
扉を開けても返事がない。あれ、部屋が真っ暗。
スマホの時計を見ると、22時過ぎ。ちょっと残業で遅くなっちゃったかしら。母親もすでに寝てしまったのかも知れない。
電灯を点けダイニングに入ると、テーブルの上にはわたしの大好物の黒酢の酢豚がラップされていた。もちろんパイナップルてんこ盛りのスペシャルなものだ。こうして仕事の残業で遅くなったとしても、いつもテーブルには変わりなく食事が置かれている。母親が起きているときには一緒に食卓を囲み、すでに休んでいるときには一人寂しくその夕食を口に運ぶ。
今日はその冷めた夕食をレンチンして、一人寂しく食事をするパターン。うーん。あ、そうだ。
わたしは温めたその酢豚と、冷蔵庫に冷やしてあった発泡酒を持って、庭の軒先に足を運ぶ。今日は入社してからちょうど半年くらい。そう、10月1日だった。十五夜だ。雲ひとつない夜空には満月が輝いている。その月を眺めながら晩酌をするのも乙に違いない。月見団子の代わりに母親の酢豚。月見酒には発泡酒。
そして、わたしは、軋む廊下を、楽しげに、踏みしめた。
言葉を失った。
きれいな、とてもキレイな、とっても綺麗な月だった。
この小さな庭に、今ではあまり手入れもしていないこの庭園に、月光が降り注いでいた。
その光は、大樹を照らしていた。綺羅綺羅、綺羅綺羅と照らしていた。
光り輝くその大樹には、鉢がぶら下がっていた。
あの大振りな幹に対して真横に伸長していた枝に、ゆらゆら、ゆらゆらと鉢がぶら下がっていた。
そのプラントポットの花は、月光を浴びてとても美しく見えた。
わたしは、思う。
ああ、何年も、葉すらもつけなかったこの樹が、花をつけたんだ。
わたしは手に持っていた酢豚を皿のまま地面に落とし、手に持っていた缶をそのまま地面に落とし、立ち尽くす。
身体の震えが止まらない。流れる涙が止まらない。
きれい。とても、きれい。
わたしは咲いたその花を見て、そして、その横の、反対側の太い枝を見つめる。
ああ、あそこには、咲いてないじゃない。それじゃあ――寂しいよね。