プロローグ
聖歴1041年〇月〇日、ディコニア王国は空に雲一つ無い程良い天気だった。
燦燦とした陽光の下で、学園の生徒達は魔法や武術の稽古に励んでいる。
魔法の練習をする者や、互いの武器を交えて練習する者、一人で黙々と運動をする者。
それぞれが、それぞれの特技を生かして腕を磨いている。
リキト・ウエルバは、同じクラスの生徒であるウェールと剣を交えていた。
勝負の内容は頭に取り付けた風船を先に割った方が勝ち、といった極めて単純なものだ。
勝敗の付き方が単純明快故に負けられない。それに、リキトは彼よりも剣の腕は上だと自負していた。
「行くぞ。」
リキトはギュッと剣を両手で握り、一気にウェールとの間合いを詰める。
お互いの射程圏内に入った瞬間、リキトは相手の頭上から剣を振り下ろす。先手はリキトだ。
「ぐ…。」
ウェールは、急いでガードする。歯を食いしばり、苦しそうな顔がリキトの瞳に映る。
剣を振るスピードも、読み合いの心理戦でも実力がリキトの方が上なのは、火を見るより明らかだった。
リキト達の戦いを見るギャラリーが増えてきた頃には、ウェールはスタミナ切れでリキトの剣筋を目で追って防ぐのがやっとといった感じだった。
「遅い。」
息が切れ、腕を上げるのが一手遅くなったウェールの隙を見逃さず、リキトは剣を突き風船を割ろうとした。
ギャラリーの熱は見る見るうちに上がっていく。
射程範囲。風船へ剣は、届く。集中力を最大限に高めているリキトには、ギャラリーの声や滝の様に流れる汗は全く気にならない。
風船へと伸ばした手が、スローモーションの様に動く。集中力が研ぎ澄まされ、1秒がこの時のリキトには長く感じた。
ウェールの頭上の風船に、リキトの剣先が触れる。リキトは勝利を確信した。
しかし、風船は割れなかった。リキトの剣に弾かれた風船は、激しく縦横に揺れる。
そこでリキトの集中力は途切れた。
(何故だ?確かに、手応えは有った。この風船は少しでも剣が触れれば割れる程の脆さだ。剣の当たり所が悪かったり、剣を突く強さは関係無い。まさか…。)
「魔法で、風船の強度を上げて…!?」
次の瞬間、リキトの風船は大きな音を出し破裂した。風船の音がリキトの鼓膜にツンと衝撃を与える。
リキトは驚きを隠せず、ウェールの顔を見た。先程までの余裕が無さそうな表情が演技だったのか、リキトをほくそ笑んでいる。
リキト達を囲う人集りも、この結果に意表を突かれたのか静まり返った。
「魔法を使っちゃいけないってルールは、無かったよな?リキト。」
そういうとウェールは、リキトの肩をポンと叩いた。
「くっ!!」
リキトは歯を食いしばった。確かに、剣の実力ではリキトの方が上だった。
魔法無しの真剣勝負だと思い込んでいた、リキトの負けだ。実践では敵が魔法を使うなんて事は安易に想像出来る。
「それに、お前はいつまでその錆びた剣を使っているんだ?ちゃんと研がれた剣なら、あの時風船に剣先でも当たれば割れているぞ。」
糸が切れた人形の様に、リキトの身体から力が抜ける。リキトは自分の剣を見つめた。
幾ら磨いても、錆が取れない程のボロボロの剣だ。周りからは、嘲笑の声が聞こえてくる。
「何ならリキト、この剣をやろうか?」
リキトはウェールの剣に目をやる。リキトの剣に比べると、比較的新しく作られた剣で、刃こぼれも一切無い。
その刃はまるで鏡の様に綺麗だ。
「要らない。」
リキトはウェールを睨み付けた。新しい剣は欲しいが、馬鹿にされて悔しいからから強がっているのではない。
奴の剣が要らないというのは本心だ。
「遠慮するなよ。ディコニア生まれ、ディコニア育ちの俺は剣術も魔法も興味ねぇ。将来は親と同じで、役場で働くんだよ。戦場へ出るなんて、まっぴら御免だね。」
やれやれ、とウェールは呟いた。大袈裟なジェスチャーもリキトを煽っている。
「リキトは14年前にこの国に来た移民で、今は孤児院で暮らしているんだってさ。」
「なるほど。新しい剣を買うお金が無いから、ずっとあんなに錆びた剣を使っているのか。ウェールから剣を貰えば良いのに。」
「幾ら強くなっても、どうせ将来は戦場に駆り出されるだろ。あんな鉄屑じゃあすぐに戦死だね。」
周囲の目は、期待の目から侮辱の目に変わった。リキトは、3歳の時にディコニア王国へ移った身だ。
ディコニア王国は戦争で居場所を無くした孤児や難民を受け入れる事によって発展した国で、人口の半数近くは移民だ。
しかし、一部の純ディコニア人からは差別的な目で見られる事も有る。リキトからすればもう、慣れっこだった。
「おい、もう辞めてやりなよ!」
リキトへの笑い声が止んだ。聞き慣れた声だった。この声を発したのは、同じ孤児院で生活をするピスタチオ・コロピコだ。
「リキトの剣は、親の形見なんだ。確かに新しい剣を買うお金は僕らには無いけど、リキトはそんな剣は欲しいとも思ってないよ。」
ピスタチオの小さな身体が、リキトには大きく見えた。ピスタチオの真っ直ぐな瞳は、ウェールを見詰めている。
「何だよ。折角、慈悲深い俺は善意でリキトに剣をやろうと思ったのになぁ。」
そう言うとウェールは大きな歩幅でゆっくりと、ピスタチオに近付いた。
背丈はピスタチオよりもウェールの方が一回り上だ。ウェールはピスタチオを見下ろすと、胸倉を掴んだ。
黒いフードを被っているピスタチオの、頭が見える。
「ぐ…!!」
「ただ、移民の分際で俺に意見するのはムカつくなぁ。ディコニア人の生き血を啜ってのうのうと暮らしているお前等が俺に何言ってんだ!」
「おい、やめろ…。」
リキトは慌てて二人の仲裁に入るべく、ウェールに手を伸ばした。しかし、お祭り好きな周囲の人間によってここぞとばかりに阻まれる。傍から見れば見れば、面白いイベント事に見えるのだろう。冗談じゃない。
ピスタチオは苦しそうに片目を閉じながらも、ウェールから視線を外さなかった。
「しかもお前みたいなろくに魔法も使えない、逃げるだけが取り柄の雑魚に言われると普段は温厚な俺もむかっ腹が立っちまうよなぁ。」
「な、なら…。次は俺が相手をしてやろうか…?」
「はぁ?」
ピスタチオは、にやりとウェールに向かって笑った。リキトは、ピスタチオがウェールに勝てない事は知っている。
「舐めた事を抜かしてんじゃねぇ。お前が得意なテレポートは、身体の一部にでも触れられると使えないだろ。」
そうだ。ピスタチオはマーキングした場所へ瞬間移動する事が出来るテレポートの魔法を使う事が出来る。
しかし、ウェールに胸倉を掴まれているピスタチオにはテレポートは使えない。圧倒的に不利な状況なのだ。
ピスタチオにとっては危機的状況だというのに、周りに居る者達は楽しそうに見ている。
「退け。」
リキトは風の魔法で、風圧を起こして目の前に立ち塞がる者達を吹き飛ばした。
大した魔法では無いので、殺傷能力は無い。あくまでも邪魔だったので通り道を作っただけだ。
「そこまでだ。」
リキトは間一髪で、ピスタチオを殴り掛かろうとしたウェールの腕を掴んだ。
ピスタチオはその隙に、力が緩まったウェールの腕を振り解いて尻餅を付いた。呼吸器官が苦しかったのか、けほけほとピスタチオは咳き込んでいる。
「負け犬は引っ込んでろよ。」
ウェールはリキトの腕を払い除けようとするが、リキトはがっしりとウェールの腕を掴んでいる。
「この錆びた剣なら、どれだけ切り刻んでも致命傷にはならないよな…。」
低い声で、ゆっくりとリキトは発声した。ウェールの額から冷や汗が滴る。
魔法を使われてリキトの風船は割られてしまったが、剣術の腕ではリキトの方がウェールよりも上な事には変わりはない。
「おいおい、冗談に決まってるだろ。」
リキトの一言が効力を発揮して、ウェールの顔色が変わった。周りを囲っていた連中も、ぶつぶつ言いながらも散らばっていく。
周りに人が居なくなれば、ウェールはただの粋がっているお坊ちゃまでしかなかった。
「俺はさっきも言った通り、将来は役所に就きたいと思っているから強くなろうとは思っていないんだ。ピスタチオとは仲良くなりたくて遊んでいるつもりが、ついエスカレートしちまったよ。」
そう言うと、ウェールはそそくさとその場を去っていった。戦意を失った彼に、リキトは興味を失っていた。
「助かったよ、リキト。」
尻に付いた砂埃を払いながら、ピスタチオリキトを見て微笑んだ。
「ピスタチオ、何でウェールの誘いに乗った?」
「だって、僕はリキトや孤児院の皆が馬鹿にされているのを許せなくてさ。」
ピスタチオの気持ちは、リキトには良く分かる。確かに、ウェールに散々言われて悔しい想いをした。
「その剣だって、リキトの親の形見だって事をウェールは知っている癖に…。」
「分かっている。だけど俺達は移民だ。問題を起こせば、孤児院の皆に迷惑が掛かる。」
そう、リキト達は移民だ。純血のディコニア人と喧嘩をしても、勝てる筈も無い。悪者にされるのはリキトや、仲間だ。
国からの少ない支援金で遣り繰りしている中で、退学者を出すなど以ての外だ。
だからリキトは、何を言われても歯を食いしばって耐えてきた。剣を握る握力に、指の骨が軋む音が聞こえる程に。
「それもそうだね。まぁ、あれ位なら大丈夫だと思うけど。」
「それに、俺がウェールに負けたのが悪いんだ。」
ウェールのプライドが高いという性格を考えれば、この程度の事で大きな騒ぎにはならないだろう。
それは、リキトも認識していた。過去の前例に鑑みても、問題は無いだろう。
だから、ピスタチオもけろっとした顔で居られるのだろう。ピスタチオはリキトよりも一つ年下だが、肝は座っている。
「なぁ、ピスタチオ…。」
「どうしたの、リキト?」
「俺達、強くなってあいつ等を見返そう。」
リキトは剣を握り締め、見詰めた。相も変わらず刃はボロボロで、錆びついている。
ウェールの持っていた剣とは大違いだ。
「うん、そうだね。僕達には、その道しか無い。」
そう、リキト達は強くなるしか無いのだ。
自分の身も、仲間の身も、強くなければ守れない。
それを強く認識しているリキトは、日々の修行を毎日怠らずに行っているのだ。
リキトは錆びた剣を、そっと鞘に戻した。