仕方なく隣のロッカーに100円玉(戻らない)を投げ込み脱いだものをババッと投げ入れるとタオル片手に意気揚々と風呂場を目指した。
というわけで、遂にとうとう最下段に居座る黙示録の獣こと山羊男の出番となったのである。これまで折に触れて述べてきた通り、こいつの恐るべき腋臭こそが「ゆっとり」を単なる古汚い蒸し風呂から人間の忍耐と意志力を試すオリンピアの園へと昇華させた要因なのであるが、山羊男という渾名(ちなみにヤギオトコではなくヤギオと読む)の由縁はそれとは関係なく妙に生白い体と気の弱そうな細面、そして熱さに堪え難くなると喉の奥から絞り出す何とも形容しがたい鳴き声からである。
こいつはいつも午後3時きっかりに入室してくるのだが、15分を過ぎた頃から「あへえ」と情けない声を漏らし始め、30分を回ると「ずびぃ、ふみぃ」と鼻声になり、45分からは「あぁへおうぅ、おふうぅん」と感極まった鳴き声を出し、55分ともなると「べぇ、べぇ」と荒い息をつくばかり、そうして針が4時を指すとふらぁりと立ち上がって出てゆくのである。目を閉じていても時刻が分かる、という点では大変便利なのだが男のあえぎ声を密室で小一時間ノンストップで聞かされるというのは一種の精神的拷問というか新境地への誘いというか腰骨の辺りがむず痒くて堪らんのだが、俺が思うに恐らくこいつは我々の苦行を更に深めるべく天から下された試練なのであり、謂わば俺らの心身を研ぎ澄ますための砥石なのであろう。奴が常に最下段に腰を下ろすのも、何とも形容しがたい鳴き声で気色悪く鼓膜をくすぐるのも、我々全員に等しくプレッシャーを与えんという心遣いなのであるのだよきっと、うん。
さてこれでようやく「ゆっとり」に集いし6人の勇者を紹介し終えた俺は、幾ばくかの達成感に酔いしれつつこの峻厳たる山壁を上から順に眺めおろすのだったが、最上段:永久欠番、二段目:ヨガ行者、三段目:俺と総務部長、四段目:テロ男とプリンじじい、そして最下段に山羊男といずれも濃ゆいツラ構え。赤く照らされた熱気立ちこもる密室で全員が一様に同じ方角を向いてだんまり座っている光景をもしもサウナ文化を知らない奴が見たならただの暗黒雛祭りだが、俺達にしてみればこの約3メートル四方の空間こそが己の魂を燃焼させる聖地、登山家にとってのヒマラヤ、レーサーにとってのル・マン、サーファーにとっての沖縄なのであり、今日も今日とて1秒でも自己記録を伸ばさんと心頭滅却に励んでいたところにいきなり「そいつ」が現れ、おかげで俺の平和なる日常はあっけなくも圧倒的に壊されたのであった。