番台に座ったババア、いや女将さんはそいつの顔を見るなりぽっと頬を染めてあらお久しぶり、などと言うのであった。
まず何よりもタオルを二本も持参している、これがイケナイ。誰が言いだした訳でも無いがタオルは一本、これが暗黙の了解である。本来ならフランスに嫁入りした時のマリー・アントワネットのごとく裸一貫で勝負に臨むのがサウナ道の本懐ではあるが、最低限のマナーと羞恥心まで捨ててしまっては人としてちょっとまずい気がする上に、先程もいったように一本の濡れタオルの有無がこの「ゆっとり」地獄においては文字通り生死を分かつのだ。股間を覆うようにゆるやかに掛けたタオルから水分が蒸発する際に幾ばくかの熱を肌から奪い、ほんの気持ち程度の涼をもたらす。この「気持ち」が大事なのであり、謂わば戦場に赴く兵士の首に掛けられたロザリオのごとく心の支えとなってくれるのである。よって一本ならば必要最小限の装備として許容されるが、二本というのは明らかに過剰。民の血税を浪費して錦衣玉食にふける王侯貴族のごとき贅沢である。しかもこいつはそれを使って首を巻き頭を包み口元と鼻まで覆いつくしてどこまで楽がしたいんだ。
更にこいつはめちゃくちゃ大量の汗をかく。俺の段から見下ろすとよく分かるが、頭を包むターバンもどきから大粒の滴がひっきりなしにポタポタ落ち、肩には汗の粒がびっしり、肉のついた背中にはナイアガラのごとき奔流が筋を引く。たしかに汗をかけばその分涼しくなる道理ではあるが、汗をかくという行為自体がカロリーを消費するため、排出できる水分が底をつくと同時にどっと倦怠感と疲労に襲われ、途端にはね上がる体温と喉の渇きに耐えるスタミナも無く、がっくりと肩を落として退室の憂き目を見るのが汗かき野郎の宿命である。そんな風に脱落していった奴らを俺は何人も見てきたし、俺自身もこの半年試行錯誤を繰り返したあげく辿り着いた結論は、奇しくも雪山における行動規範に似てとにかく汗をかかないこと、余計なエネルギーを消費しないことであった。
よって日頃から汗腺が開かぬよう激しい運動や厚着を避けるのは当然、出征前夜は水分の摂取を控え当日の朝食は脂肪分を少な目に炭水化物を多めに(ご飯に焼き魚&納豆がベスト)、そしていざ出陣の際は決して走らず余裕を持った歩幅と速度で「ゆっとり」を目指す。入り口に長年吊り下げられて藍の染料もさめきった暖簾を常連の風格と余裕をみせつけるように片手でめくり、番台のババアもといお姐さんの面前にあらかじめ尻ポケットに移してあった税込864円をピシリと置いて脱衣所へ、手早く服を脱いだらチョコレートひとかけと水を一口含んで勝負に臨む。これが現時点での俺の万全のサウナ・スタイルである。