エピローグ
小春は彼女のおじ様と一緒に馴染みの喫茶店にいた。僕が到着すると片手を挙げて僕を呼んだ。席について、コーヒーが運ばれると、ため息のような息を小春は吐いた。
「いや、しっかし私大活躍だね」
「そうだな」
相葉警部補はつまらなそうにコーヒーをすすった。
「結局のところ、これはどういう事件だったんですか?」
僕自身、この事件の全容がよくわかっていなかった。高校時代の友人、真壁雄也と木島俊樹が死んだという事ぐらいしかわかっていない。
「木島俊樹は真壁雄也になりたかったんだろうさ」
「どういう事?」
小春は興味津々といった風に身を乗り出した。
「これは木島の部屋に入ってわかったことだが、木島の部屋と真壁の部屋はまるきり同じだった。冷蔵庫の中身も、キッチン用品も」
「うわっ、それってストーカー?」
「それとは違うだろうな。人には誰しも変身願望がある。ああなりたい、こうなりたいといったものだ。アイドルに憧れるのはこういった衝動からだと聞いたことがある。だがな、それが変質的なまでに偏ると、そのものと同一でないと耐え切れなくなるといったことが起こるんだ」
「それが木島だった、か」
確かに木島はいつも明るい真壁を尊敬していた。ああなりたいと願ったいたことも知っていた。自分はあまりにも普通だから、あんな風に光と闇を併せ持つ人間になりたいのだと。
「しかし、真壁に変化が起きた。それが上山絵里だ。真壁と同一である事を望んだ木島は、上山という存在が邪魔だった。幸いかどうか知らんが、上山は口が利けなかった。それは彼女の両親から受けた精神的な虐待にあったこともわかっている」
「ああ、それで小夜さん入院してたんだ」
「そうだ。入院暦と脱走の経緯から、鹿島があれは狂人だから犯人に違いないと強く進言した」
「え、それだけで警察って動くの?」
「タイミングに因るな。どちらにしてもだ、異常者は極刑にしろとか、一生臭い飯を食わせればいいなど、そう言った類の言動はよく聞いた」
「おじ様、よく平気だったね」
「僕ならぶん殴ってますよ」
「まあ、言うな。故に捜査方針は状況証拠から、上山絵里が両名を殺傷したと固まってしまった。まあ、当の上山本人もまともに会話できる状態じゃなかったしな」
「しかし、事実は違ったわけですね」
「そうだ。本当は木島俊樹が真壁雄也を殺そうとし、もみ合いの末、真壁雄也は死亡した。木島俊樹も腹に包丁を刺され、意識不明の重態となったため、事情を聞くことすらできなかった」
「でも、なんで木島俊樹を真壁雄也と間違えたんですか?」
「昏睡前の木島がそう名乗ったんだ。二人とも顔写真のついたものなど一つも持っていなかった。免許証の一つでもあれば、すぐにわかったのだろうがな」
「おじ様、ちょっと待ってよ。真壁君のご両親は? 面会に来なかったの?」
「木島と真壁の親族はみんなに死んでいるよ。さて、そろそろいいかね。こう見えて俺は忙しい身なんだ」
夏生さんは席を立つと、千円札を二枚テーブルに置いた。
「いってらっしゃい」
僕と小春の声が重なった。夏生さんは片手をひらひらとさせながら、店を後にした。
それを見送った小春は、猫みたいな笑みを浮かべて僕を見つめた。
「で、木島俊樹を殺ったのは、師匠ですか?」
核心を突いた質問に僕は目を白黒させた。流石に相葉家の人間は鋭い。
「さあね。でもさ、雄也になりたかったんだろ、あいつ」
窓の外を見つめながら、僕はそう言った。
「息をするのは辛いんだ。ただ生きているだけでも、苦痛の連続が続く。でもさ、僕らはバベルの塔を作るのをやめることが出来ない。それが例え一瞬で壊されてしまうとしても、そこにある一瞬のきらめきに手を伸ばさざるを得ないんだ」
「何の話ですか?」
「手にした瞬間崩れ去るのが運命ならば、それはなんて儚いんだろうね」
窓の外には色素の薄い青が広がっている。こんな午後の日差しの中でも、誰かがもがき、苦しんでいる。それを誰もが知りながら、誰もが見ないふりをする。
「師匠。ケーキ食べましょう」
「ああ、好きにしろ」
目の前の春の日差しのように笑える人もいるのだと思うと、僕は少しだけ安心してしまうのも事実だった。
だから、真壁もこんな日差しを大切に抱きしめたのだろうと思う。たとえ一瞬のきらめきだったしても、伸ばした腕で掴んだものが一瞬で壊れてしまったとしても、真壁はきっと救われたんだと思う。
『なあ、真壁。息をすることは難しいけど、苦しいだけでもないよな』
窓の外で一羽の鳥がくるりと旋回した。