3.階段と青年
あいつは何をしているんだろう。僕は高校時代の友人を思い浮かべた。細いながらに満面の笑みを浮かべたあいつ。どうしてだろう。名前が思い出せなかった。小夜と会う前は、いつも来ていたあいつ。あいつの大学進学と共に一時は疎遠になったけど、ああやってまた僕の友人として戻ってきてくれたあいつを、僕は心なしか待ち望んでいた。大学時代友達とよく行ったという華やかな場所に僕を良く連れ出した。お互い独身だという事もあって、それなりに金はあった。毎日のように遊びに来てくれた。仕事の愚痴を、上司の悪口を面白おかしく話す彼といると、心が安らいだ。でも、その一方で、僕はそういった愚痴のはけ口が無い事を知った。
あいつの話は、いつも相手のミスを的確についていた。だから愚痴も悪口も、的を得ていたし、だからこそ、僕はあいつに対して何も言えなくなった。結局のところ、僕の愚痴とは、僕自身の間違いやミスの話に他ならない。出来なかった事を棚に上げて、相手を貶めるようなやり方でしか、僕の鬱積した気持ちは吐き出せなかった。
「何かあったら、何でも話してくれよ」
笑ってそういうあいつの表情は、本当に真剣そのもので、そう言ってくれるだけで心強かった。でも、結局は身から出た錆の僕の話は、話した瞬間から僕自身が嫌になるくらい最低のものだった。最低の自分に気がつくくらいなら、何も話さず、ただ話を聞いているほうが良かった。生きるっていう事はそういう事だ。出来る人間と出来ない人間がいて、出来ない人間は出来る人間のそばで笑うしかない。
そう思ったら、どんどん自分が嫌な人間に成り下がっていった。でも、不思議とあいつを憎んだり妬んだりはしなかった。そう、結局のところ、最低なのは僕だけで、あいつではないのだから。
螺旋階段は続いている。途中何度か休みを挟みながらひたすら上っているけれど、頂上にはまだ届きそうに無い。
生きるという事はきっとこういう事なんだと思う。平坦で景色も変わらない螺旋階段をひたすら上り続ける。そこにあるのは闇で、底にあるのも闇。そして、必死で登りきった先にしか、楽園は無い。そして、その楽園は死ととても近いところにある。
あの瞬間、小夜は何を思っていたのだろう。おぼろげに浮かぶのは、小夜が大声を上げて泣いている姿。天井が見えるから僕は眠っていたのだろう。小夜は僕の上に乗っていた。細い身体の線がはっきり見えて、陶器のような冷たい手が僕を抱きかかえていた。
小夜が泣いたのはあれが初めてだった。僕は小夜に聞かなくていけない。どうして泣いていたのかを。だから僕は階段を上り続けるしかないんだと思う。果ての無い闇だとしても、僕は小夜に会うために階段を昇る。
僕が変化に気がついたのは、しばらくしてからだった。今まで何もなかった手すりがその場所だけ崩れ落ちていた。物音一つしないこの塔で、こんな風に柵が壊れたとしたら、僕は目にするはずだし、その音も聞こえないはずは無かった。だとしたら、これが意味する事はなんだろう。見たところ明らかに壊れたようにしか見えない。自然に朽ちたものでなくて、誰かが壊したとしか思えない様相だった。だとしたら、僕が来るより前にこの場所に誰かがいたのだろうか? それともその誰かがいなくなったから僕が来たのだろうか? だとしたら、僕がここから出るには、前にいた誰かと同じように転落するしかないのだろうか?
暗い誘惑が僕の足取りを止めた。柵が元々あった場所に腰掛けながら、僕は底を覗いた。深い闇と取り巻く淡い光。歌声すら聞こえそうな幻惑的な思いが胸を満たしていった。
僕は消えたかった。死にたかった。ずっとずっとそう思って生きてきた。周りの人間が楽しそうにすればするほど、僕の心はどんどん冷めていった。誰かのために生きることが生きがいだと思った時期もあった。でも、それは思春期の淡い情熱でしかなくて、就職した後、社会という場に出たとき、僕はそれを嫌というほど思い知った。誰かの利権を守る為に働き、その為に、誰かに苦汁をなめさせ、自分の快楽のために、または自身の強さを誇示する為に他者を蹴落とし、陥れる。今まで持っていた常識は音を立てるまでも無く瓦解し、知らないことばかりの世界がそこにあった。暗い渦が常に周りにあって、嘲笑と冷笑が周囲を包んだ。
もっとマシな世界だと思っていた。もっとまともな世界だと思っていた。そして、自分がいかにのうのうと安楽に生きてきたのかを思い知った。何も出来なくて当然だ。誰かを力でねじ伏せたり、引っ張りまわしたり、そういった当然の事をしてこなかったのだ。自分の意見よりも相手の心を重んじて生きてきた。それが初めから間違いだった。間違いを正そうにも、そうする事がもう出来ないところに僕はいた。出来ないままずるずるとただ痛みを抱えて生きてきた。
小夜を見つけた瞬間、あれは自分と同じだと思ったんだ。擦り切れて、擦り減らして、どこにもいけないまま、朽ちようとしている自分を僕は救い上げたんだ。
ああ、そう。僕は小夜を助けたかったんじゃない。小夜を助ける事で、自分を助けたかったんだ。嫌いな現実がある。毎日すり減らすばかりの日々を、小夜で補おうとした。実際、僕は小夜によって補えた部分もあった。でも、そうやって熱せられては冷まされ、また熱せられては冷まされてを繰り返しているうちに、僕の強度は粉々になっていた。
結局僕は、小夜すらも失ったんだ。そう。僕は小夜を愛してなどいなかったんだ。だから、小夜はそれに気がついて僕に涙を見せたんだ。
僕は出来ない人間だ。誰からも評価されず、誰からも認められず、認められようともしても出来ない、最低の人間。愛したつもりになって、それを知られて、全てを失った。
これは啓示だ。この柵がここで途絶えているのは、僕なんかが神のいる神殿に来ることがないように、地獄のそこで朽ちるようにと祈られて造られた啓示だ。
なら、何を迷う必要があるだろう。必要の無い僕は、ここから一歩を踏み出せばいい。そして、終わらせてしまえばいいんだ。
僕が望んだ事だ。これぐらいなら。僕にも出来る。螺旋階段から足を踏み外す事ぐらい。
俺の友人は、否定されながら育ってきた事を、俺は今の今まで知ることは無かった。自分の事を多く語らない奴だから、その内に潜む闇がどんなものだったのかを俺が知るには、こうやって真壁の日記をめくるしか方法は無かった。
日記の一ページ一ページをめくるたびに、俺の心臓は揺れに揺れた。人の日記など読んだ事は無いが、アンネの日記のようなモノローグ的なものかと思っていた。でも、実際に読んでいる日記は、感情だけで書かれたもはや日記とは呼べないものだった。
苦しい。助けて。ダメだ。最低だ。やることなすこと間違っている。様々な自己否定の言葉に呼んでいる俺自身が負けてしまいそうになる。日記は中学生ぐらいから始まり、三日続く日もあれば、一ヶ月、一年と飛ぶ時もあった。両親から言葉による暴力を受けてきた日々。それらは切々と書かれているのに、結論は自分が出来ない人間だからと繋がった。それはずっと変わる事は無い。存在の否定。言動の否定。行動の否定。否定ばかりが続く。そして、それは自分自身からも否定される事で、どこにもいけないやり場の無い感情が、日記に溢れていた。
一度でいいから、真壁にそんなに悪くないよ。お前は悪くないよといえなかった自分が、心底憎かった。あんなに一緒にいたのに、あいつの変化に気がついてやっていたのに、たった一言。真壁が欲しがった言葉をかけてやることが出来なかった。
「真壁。お前は悪くないよ。間違ってるのはお前の周りだよ」
日記を閉じても尚、俺の気持ちは晴れなかった。日記にあった小夜という女に会ってみようと思った。確か真壁が刺された時に一緒にいたはずの女だ。彼女が真壁を刺したのだろうか? だとしたら何のために? 真壁の日記は小夜を家に連れ込んだ辺りで止まっていた。俺は小夜に会わなくてならない。会って、あいつの身に何があったのかを聞かなくてはいけない。
俺は仕事を欠勤して、小春に連絡をした。
「ええ、それは無理だよ。真壁君の同棲相手でしょ?」
呼び出した小春は話を聞くなり、くりくりと目を回していた。
「何とかならないか?」
「いやー。流石に無理でしょ」
「無理を承知で! この通り!」
真昼間の公園で頭を下げる姿は、他の人から見たら、金でも借りに来ているように見えているかもしれないと思ったが、この際、周囲の目などどうでも良かった。
「んー。どうしっよかなぁ」
小春は困った表情をしていたが、ぱっと花が咲いたような表情をした。
「わかった。この小春様がなんとかしましょう」
「ホントか?」
「まあね。おじ様が本庁の刑事だって知って来てるんでしょ? それにそのヤマはおじ様も手を出してるし、無理が通らないわけでもない」
「よろしく頼みます」
「その代わり」
猫みたいな表情を浮かべた小春は、ある要求を押し付けて、俺の前から去って行った。
「マジかよ」
小春には敵わないと思った。でも、どこかで小春からそれを言われて良かったという気もしていた。そう。小春だから、きっと。
翌日、朝一番に連絡が来た。小春の言うおじ様はどうやら了承してくれたようで、俺ははやる気持ちを抑えて、小春を待った。
小春と共に江東区の病院へと向かった。開放的な雰囲気のある病院だったが、足を踏み入れると、そこは重苦しい雰囲気が詰まっていた。小春は慣れた手つきで受付を済ませると、俺の手を取って、足早に病室を目指した。
「なあ、ここって」
「ん? 精神病院だよ?」
あっけらかんと答えるので、玩具売り場にでも着たのかと錯覚しそうになった。
「だから、小夜って、もしかして」
「うん。重度の精神病患者。なんでも秋ぐらいに失踪してて、真壁君の所に厄介になってたみたい」
なんでもないように答える小春の言葉は、どうにも真実味が足りない気がするが、でもそれは事実なのだろうという事が、次第にわかってきた。
「ここね」
病室の前に立った小春はネームプレートを指差した。
「上山恵理」
「そう。それが小夜の本当の名前。でもなんで小夜なんだろう。彼女名乗らなかったのかしら?」
俺が曖昧な返事を返す前に、小春は病室のドアを開いた。清潔感漂う白一面の部屋。一切の小物は無く、部屋を見る限り色彩は、彼女自身と窓の外の景色だけだった。
「真っ白だ」
ふいに真壁が昔言っていた事を思い出した。人間は真っ白な部屋に閉じ込められると気が狂ってしまう。という話だ。
「こんにちは。小夜さん」
小春は周囲のものに動じずに、小夜、いや上山絵里に話しかけた。彼女は視線をこちらに向けた途端、びくりと肩を震わせた。その行動を見た瞬間、ああ、病的だ。と一瞬にして思い、そして、その感じがあいつにダブって見えた。
「こんにちは。小夜さん」
俺も小春に続いて挨拶をすると、彼女は何か見てはいけないものを見ているような表情を浮かべた。
「顔がある」
その言葉が意味する事はわからなかったが、そういった発言を繰り返すことこそ、彼女がここにいる意味なのではないかと思った。
「ああ、そういうこと」
小春はなにやら得心した表情で、ひとりでうんうん頷いていた。
「おい、小春」
「ああ、ごめんごめん。小夜さん。真壁さんのこと覚えてる?」
彼女は首をかしげた。
「マカベさん?」
「そうそう。私達、その事を聞きに来たの」
「ごめんなさい。私、その人の事をよく知らないの」
細い声で風が囁くように話す彼女は、絵里より小夜の方があっているような気がした。そして、彼女は小春が道々話してくれたように、真壁の事を完全に忘れ去っていた。
「じゃあ、質問を変えるわ。ユーヤの事だったらわかる?」
「ユーヤ」
彼女の瞳が大きく見開かれた。
「違う。違うの。私、違う。あれは間違いだった。私は正しくならなくちゃ。だから間違ってるの」
彼女は突然、うわごとのようにそれを繰り返した。その動揺ぶりはまるで真壁の日記と同じ匂いだった。
「そう。貴方は間違えてる。間違えてると思い込んでる。あの人が何を言ったかは知らない。でもね、小夜さん。貴方は病気でもなければ、間違った人間でもない。貴方の記憶は貴方のものだし、貴方の言葉は貴方のもの。そこに間違いなんてどこにもない。貴方は貴方としてここにいるのだから、貴方というあり方は、正しい姿だと思うわ」
小春が何を言っているのかわからなかったが、一息にそれだけ言うと、小夜の大きく見開かれた目は、静かに治まった。
「それは本当なの? だって私、正しくなる為にここにいるんじゃないの?」
咄嗟に目の前の女性は、真壁と同じ苦しみを抱いているとわかった。同じ苦しみを経て、この場所にいるんだとわかった。もしかしたら、ここにいるのは小夜ではなくて、真壁だったのかもしれない。
そう思ったら、身体が勝手に動いた。抱きしめていた。小柄な彼女は陶器のようでいて、あまりに細く、折れてしまいそうだった。
「お前は悪くないんだ。なにも間違ってなんかいない。間違ってるのは、お前の周りのほうだから。だから、変わらなくていいんだ」
「ユーヤ」
小夜は俺の胸の中で泣いた。何度も俺の名前を呼びながら。
その瞬間、俺の中で偽ってきた全てのことが明白にわかっていった。
「彼女を救ってあげて」
小春と約束した事が今果たされようとしている。螺旋階段の闇の果てに、俺はここまでやってきたのだから。
踏み出せば落ちる。後一歩のところで、僕は肩を掴まれた。
「危ないよ。そこから落ちたら死ぬよ。真壁雄也」
振り向いた先には、いつの間にいたのか、高校の同級生が立っていた。こいつだ。僕に神様の塔の話をしてくれたのは。
「ふーん。なかなか興味深いとは思ったけど、まさかバベルの塔の再現とはね。恐れ入ったよ」
「バベルの塔?」
「そう。神々に近づこうと神の国まで届く塔を作り上げた人間。塔の最上には神殿を立て、神を祭ろうと考えた。しかし、神は人間が神の領域に入ろうとしたと怒り、その塔を破壊し、二度とこんなことが出来ないように、言葉を粉々にした。だから僕らは伝えたい思いを言葉ではなかなか伝えられなくなったって、神話」
「塔は壊れたのか?」
「そうだよ。完成する事も無く粉々にね。真壁は人生をこの塔と同じに考えていたんじゃないかな?」
「何のことだ?」
「いつまでも続く無限の階段。その先に神の国があるなんて幻想もいいところだ」
「無いのか?」
「無いね。だって塔は完成しなかった。その話は真壁自身も知っていた。だから、真壁は有りもしない塔を作り上げ、そこに神の神殿を夢見た」
「これは夢なのか?」
「いや。幻実だ」
「幻実?」
「そう。現実ではないけど、夢でもない。ちょうど中間。まあ、そんな話はいいんだ。バベルの塔は崩れてこそ意味がある。あの話をしたとき、真壁はそこを嫌っていた。どれだけ努力を重ねようと、なにをしようと結局は全て無駄に壊されてしまう。そんなもの酷い話だと。俺なら絶対最後まで作ってみせるってさ」
「いや、僕はもう」
「そう。以前の真壁雄也ならね。いつから僕なんて使い始めたんだい? 僕の知ってる真壁雄也は、俺と言ってたはずだけど」
「なに言ってるんだ?」
こいつは何を言っているんだ? わからないわからない。わからない。わかりたくも無い。
「僕はどうにも腑に落ちないんだ。なんで君が真壁雄也なのか?」
トン、と石の階段を降りる音が鳴る。僕はそれに合わせて一歩下がろうとする。だが、下がろうとした瞬間、足場が無いことに気がついた。今まであったはずの階段が、ちょうど僕の後ろから無くなっている。その真下にあるのは深い闇だけ。深い闇だけ。そこに落ちれば、待っているのは死。死にたくない。その思いだけが強く残った。
「なあ、いつから君は真壁雄也になったんだ?」
こいつは僕を知っている。そうだ。こいつに名前を呼ばれたとき、振り返ってはいけなかったんだ。懐かしい声で、呼ぶから、僕は振り返ってしまったんだ。
「坂上……僕は、僕は、真壁、真壁雄也だ」
そうだ。疑う必要なんて無い。僕はずっと真壁雄也だった。真壁雄也だった。両親から嫌われ、人生の底に埋もれた。最低な生き方しか出来ない。
「そう。真壁雄也は、そういう人間だったかもしれない。でもな、お前みたいに全てをぶち壊すような男じゃなかったんだよ」
目の前に同級生が立っている。坂上啓冶。僕と同級生だった男。あいつと三人でいた高校時代の思い出が、走馬灯のように駆け巡る。一段、また一段と、死神の足音を立てている。
「違う。僕は、僕は」
「そう。お前、木島俊樹は真壁雄也になりたかった」
「僕は真壁雄也だ!」
「真壁の日記を読んだくらいで、真壁になりきれるとでも思ったのか? 真壁が抱えていた孤独を、痛みをお前は何もわかっちゃいない。真壁を殺す事で終わりにしたお前に、真壁の苦しみがなんだったのかをわかるはずも無いんだ」
「僕は、真壁の全てを知っている。あの孤独は絶対だった。孤独を無くしたあいつはあいつじゃないんだ。僕はそんなあいつに憧れ、真壁と同じように生きると決めた。それにはあの女は邪魔だった。邪魔だった。それだけだ。それなのに真壁はわかってくれなかった。僕がどれだけ真壁になりたかったか、僕がどれだけ真壁と同じ気持ちでいるか。それを真壁は何一つわかってくれなかったんだ。息をするだけでいいと言ったあいつは、美しかった。気高かった。真壁を刺し殺した時わかったんだ。真壁の孤独を生きることが出来るのはもう、僕しかいないと。だから、僕が真壁雄也だ。そう、これは絶対だ。間違いない。僕は間違っていない」
一息に言い切ると、静けさだけが残った。
「そうだな。なら真壁の望みどおり。息をするだけにしてやる」
坂上の無表情な顔が僕の胸を叩いた。