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息をすること  作者: 碧海昂冶
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2.青年と凶器

 俺はガラス張りの部屋の外から、友人の姿を眺めていた。友人は酷く安らかな笑みを浮かべて、ベッドで眠っている。どんな夢を見ているのか、本当に柔らかな表情を浮かべていた。しかし彼の腕や口元からはチューブが伸びていて、サイボーグに改造されるのではないか? という疑問すら浮かべそうになるほどの機械と繋がっていた。

「君は彼の友人なのかい?」

 いつの間にか隣にいた医者は落ち着いた、それでいて同情めいた声で俺に語りかけてきた。

「ええ」

 俺はそれだけを医者に返した。初老というには早く、中年というには年かさのある男の医者はこの病院の外科医だった。

「命は取り留めたんだけどね」

「わかっています」

 俺の視線は揺れることなく、友人の姿を見つめ続けた。彼がこの状態になって一週間が立っていた。いつかこうなる事がわかっていながらも、何も出来なかった自分に今更何が出来るわけでもなかった。

「もう少ししたら一般病棟に移れると思うんだ」

「そうですか」

「生返事だな。まあ無理も無いか。親しかったのかい?」

 医者にそう言われて、俺は言葉をつぐんだ。親しかったのか? 恐らくそうだと思う。親しかったのだと思う。彼の心の奥に潜む闇を俺は知っていた。そして、彼が遅かれ早かれこうなる事もわかっていた。わかっていながらも、何も出来なかった俺は、親しかったと軽々しく言っていいものかどうかわからなかった。

 医者は俺の沈黙を肯定に捕らえたのだろう。

「大丈夫だ。命さえあれば、やり直せる」

 やり直せる。その言葉に、俺の全身は燃えるように熱くなった。

「何をですか?」

 棘の含んだ言葉だった。一瞬、戸惑ったような様子を見せた医者はすぐに平静を取り戻して、言葉を返した。

「君らぐらいの年頃では、こういった事が酷く困難に思えるだろう。だが、命があればいくらでもやり直しは効くし、十分幸せに生きることも出来るんだよ」

 反吐が出そうだった。湧き上がる胸の熱さは、そのまま怒りの本流だった。何も知らないくせに、わかったような事を言いやがって。お前に一体、あいつの何がわかるんだ? 自分の生き方しか知らず、自分の手にした幸せを他人と同じと思うその心が、どれだけ人を苦しめると思っているんだ。

「そうですね。まだ彼はこれからですもんね」

 湧き上がる怒りを思い切り押し付けて、俺は静かにそう呟いた。医者は満足したように俺から離れていった。


 俺とあいつの付き合いは高校時代からになる。不思議とよく笑う奴で、多くの友人に囲まれていた。僕もその彼の友人の一人に過ぎなかったけど、彼の笑顔で周囲の人間が笑っているのを見ると、心が安らいだ。それだけ彼は人望があったのだ。リーダーとかそういう感じではなく、マスコット的なポジションで、おどけたりふざけたり、調子よく回りに気を使っていた奴だった。

「なあ、そんなに気使って疲れないか?」

 俺は以前そんな事を尋ねた事がある。

「まあ、性分だからね。それにさ、誰かが笑ってるのって気持ちいいじゃん」

 楽天的な彼をその時、とても羨ましく思ったけど、それと同時に彼の瞳の奥にある深い闇が垣間見えた気がした。

 そして、その闇は俺らが高校を卒業すると目に見えて深くなっていった。学校とは不思議なもので、その時たまたま近くにいた人間が友人になるのだが、一度学校という枠組みから外れてしまうと、まったくの他人になってしまう事が多々あった。俺自身も高校の友人は数えるほどしか残っていない。そしてその多くは、ほとんど会うことも無かった。それぞれの進んだ道で、新しい枠組みの中でまた新しい友人を作り、その枠組みの中で生きていく。そういうものなのだろうと、自然に思うようになったのは最近のことだ。

 でも、真壁(まかべ)は違った。真壁は卒業後、どこかの企業に就職し、そしてその枠組みの中で、新しい人間関係を作れなかった。

「うまくいかなくてさ。ホントに。ほら、高校のときはさもっと気楽に出来たじゃん。でも会社ってのは難しいよね」

 笑いながら漏らした言葉は恐らく真実だったに違いない。久しぶりに合った彼は酷く痩せていて、むしろやつれていた。食事に誘ったけれど、真壁が「食欲がないんだ」と儚げに笑ったのを覚えている。

 俺が彼に出来る事は何もなかった。何も出来ないまま、俺は彼の家に遊びに行き、無駄な時間を彼と共有した。カラオケに連れ出し、夕食を一緒に取り、出来るだけ彼を家から連れ出した。楽しい事をすれば、彼の心が少しでも救われるとそう信じていた。

 俺自身、そうする事で明日から頑張ろうとか、この日の為に生きてるとか、そういう実感を持てたからだ。でも、真壁は違った。

 あの医者の言葉は正しい。俺だってそう思っていたし。そうする事で真壁も以前の真壁のように笑えるのだと思っていた。

 でも所詮、俺と真壁は同じではない。俺が真壁と過ごす時間は、真壁の笑顔を引き出したけど、彼の瞳の闇を振り払う事は出来なかった。正直な話、俺はそんな真壁に焦れていた。何をうじうじ悩んでるんだと。悩む必要なんて無いじゃないかと。あの日、俺はそんな心無い言葉を真壁にぶつけてしまった。

「そうだよな。そんな風に思えたら楽なのにな」

 俺がこれになんて答えたかわからないけど、酷い言葉をぶつけたに違いなかった。

「全部捨てて、楽になりたい。息をしてるだけでいい。何も考えずに、じっとしているだけでいい」

 真壁はそう言った。

「そんなの生きてるって言わないだろ?」

「いいじゃないか。それでも。息をすることすら辛いんだ。でも死ぬ事も出来ない。このまま死んだら悲しむ人がいるだろ? だから死ぬ事すら選べないんだ」

「だったら」

「だからさ、息をするだけで何も感じなければ幸せなのにね」

 真壁は涙を目じりに溜めながら、その雫の代わりに言葉を零した。

 何も言えなかった。何が真壁をそこまで追い詰めたのかはわからない。でも、真壁は生きていたくないのだという事だけはわかった。死ぬ事すら選べない。そう言った真壁に生きろとは言えなかった。

「来るの邪魔か?」

「わかんない。でも、もう来ないで欲しい。君が来なければ、君が忘れてくれれば、きっと死ぬ事に一歩近づくから」

 深すぎる沼に肩まで浸かった友人の姿があった。引き上げる事も出来ず、ただひたすら苦しみ続ける真壁を、早く沈めてやりたかった。



「ふーん。それで真壁君の自殺に手を貸したんだ」

 小春(こはる)は小銭でも貸したのだというように言った。その言い草にカチンと来た俺は必死で反論の材料を探すけど、何も浮かばなかった。

「やっぱ、シェイクは夏場に飲むからおいしいんだね」

 小春はイチゴ味のシェイクをずるずる音を立てて飲み終えると、そのままゴミ箱に放った。

「ナイッシュ!」

 名は体を現すとか言うけれど、小春はまさにまさにその典型だと思った。小春日和の朗らかさで、それでいて心浮き立つ情景が目に浮かぶ。たぶん小春の瞳が明るいからだと俺は思った。

「でもさ、俺にはそれしか出来なかったんだ」

 自分の声が言い訳のように聞こえた。いや、実際ただのいい訳だ。

「まあ、仕方ないよ。トンちゃんはやれるだけのことはやったみたいだし。まあ、正直言わせてもらえば、トンちゃんが追い詰めたようなもんだけどね」

 小春の言葉に俺は怒りを感じた。

「普通は気がつかないと思うけどさ、トンちゃんは善意で真壁君を助けようって思ったんでしょ? 色々連れまわして、元気にしたかった。間違いない?」

「ああ」

「でもさ、真壁君は元気になりたかったのかな?」

「どう言う事だよ?」

「質問を質問で返すのは良くないよ。まあ、しいて言うならトンちゃんが明るすぎたんだよ」

「はあ?」

「心に闇を持った人って言うのはね、光を求めるものなの。だからトンちゃんが近くにいたことは正解」

 正解だったら、今頃真壁は笑っているんじゃないだろうか?

「でも、連れまわした事は不正解」

「だよな。俺の事邪魔だったみたいだし」

「いやいや、それは間違い。いてくれるだけで、心の安定を図ってたんだよ。彼を追い詰めたのはトンちゃんが直接の原因じゃなかったとは思う。でも、最後の一手を押したのはトンちゃん」

「小春、話が長い。俺にわかるように説明してくれ」

 小春はくるりと目を回し、ミツバチのような愛らしい笑顔をした。一瞬どぎまぎしたが、その笑顔に針のようなものも感じて、俺は居住まいを正した。

「あのね。トンちゃんは普通の人だから気がつかないだろうけど――普通の人が悪いってわけじゃないよ――その真壁君って、ずっと闇を抱えてた人なんだよ。なりたい自分があって、でもそうなれない自分があった。それがどれだけあがいても、けっして手の届かない場所にある。どこを目指せばいいのかわからない。トンちゃんは彼の求める姿に近かったのかもしれない。だから一緒にいれば、自然と自分もそうなれるって信じた。でも、現実は違った。そういう意味で、トンちゃんは真壁君を追い詰めちゃったのよ」

「じゃあ、どうすればよかったんだよ」

「いるだけでよかったんだよ。ただいるだけで」

 結局、そのいるだけすら放棄してしまったんだ。今更何が出来るって言うのだろう。こんなに、こんなに悔やんでも悔やみきれない。漠然とした、それでいて確かな深い痛みだけが、俺の中に残った。



「あの子は昔から頭がおかしかったんです」

 髪を振り乱し、荒い息を吐く獣のような相手が、他者を「頭がおかしかった」と言うのはどうなのだろうと、私は思った。目はランランと異様な光を浮かべ、首筋には血管が浮き出ている。

 まあ、もっとも警察署内の取調室に警官と一緒にいる時点で取り乱さないわけも無いのだろうが、この取り乱しぶりは異常だ。娘を異常者と呼ぶならば、この母から異常者の遺伝子を分け与えられたのではないだろうか? と思ってしまう。

「娘さんは今、病院で治療を受けています」

 病院という単語に過剰に反応した彼女は、あの子は頭がおかしかったと何度も繰り返した。だから、あの子に罪は無い。無罪ですよね? と何度も言い続けた。いい加減この女の相手をするのに飽きてきた頃、相葉(あいば)警部補は母親に帰宅を促した。

「まったく、何を考えているんだか」

「人の親などあんなものだ」

 これまでどれくらいの犯罪を抱えたのかわからないが、相葉警部補はつまらなそうに言った。それだけで、この人が本庁の人間なんだと思うことが出来た。葛飾で起きた殺人未遂事件の調査は今も続いている。被害者は真壁(まかべ)雄也(ゆうや)。24歳。地元企業勤務のごく普通のサラリーマンだ。容疑者は上山(かみやま)恵理(えり)。23歳。精神科に通院暦があり、現在警察病院にて保護されている。

 現場の状況証拠から、上山恵理が真壁雄也を刺した事は間違いないのだが、肝心の上山恵理が事件当日の記憶を失っている為、状況証拠のみの立件になりそうだった。しかし、立件しても相手が精神異常者(マルセイ)だとわかれば、起訴しても責任能力を問われ、有罪には出来ないだろう。結局、こういった異常者は野に放たれ、同じ犯罪が繰り返される。精神異常者(マルセイ)は一生牢屋に閉じ込めておけばいいのに。

「容疑者は精神異常者(マルセイ)のようですね」

 私はイライラした気持ちをなだめる為に、それを口にした。きっとこの本庁の警部補も気持ちを汲んでくれるはずだ。

「そうらしいな」

 からりと乾いた答えだった。そんなことはどうでもいい。暗にそう言われた気がした。押し付けがましい本庁の人間とは違い、物静かな好人物かと思っていたが、単にやる気の無い窓際刑事に過ぎないのではないか? という疑問が浮かんだ。そうだ。そうでなければ、こんなほぼ解決した事件に呼び出されるわけが無い。

「ホシのところですか?」

 私は足早に署の外に向かう相葉――窓際なら肩書きなど不要――に尋ねた。本庁の人間と組むのは初めてじゃないが、本庁の人間はこうやっていつも人の前を歩きたがる。所轄の人間がいなければ現場までの道筋だってわからないくせに、さも自分がリーダーだと言わんばかりに革靴を鳴らす。

「いや、現場に行く」

「へえ、現場ですか? あそこはもう調べつくしましたよ」

 嫌味を込めて言ってみたが、相葉はちらりと私を見ただけで、車に乗り込んだ。運転席に座る辺りは本庁の人間よりマシだと思った。やつらは私達をタクシーの運転手と間違えているから。

 柴又街道を南下し、住宅地の中にある古びたアパートに到着したのは昼をまたいだ時刻だった。現場は事件発生から三日が過ぎていたが、周囲に人気は無く、あるべき日常に戻ろうとしているように見えた。

 私達がやっているのも単に裏づけ捜査に過ぎない。状況証拠から、容疑者は上山恵理に間違いないと本部も認めている。しかし、相葉はそうではないようだった。

「凶器が発見されていません」

 その一言のために私達は意味も無くぐだぐだと捜査を続けている。これでは税金の無駄遣いといわれても仕方が無い。

 事件現場はすでに黄色のテープを外されていたが、物々しさは残っていた。床にばら撒かれた血痕の後、すでに黒く変色しているが、これは真壁雄也が刺された時に流した血液である事は明らかだった。

 近隣の証言に寄れば、隣の部屋で女性の悲鳴のような声が聞こえ、被害者の家に押し入ると、血を流した真壁にかぶさるようにして上山恵理が首を絞めていたという。上山を振り払い、すぐさま警察に通報したとのことだ。

 その惨劇を思い返すたび、私は「異常者が」と罵りたくなる。刺しただけでは飽き足りず、首まで絞めたというのだ。真壁が上山を恋人として扱っていたなら、それは酷い裏切りに違いない。昏睡状態から目覚めないのも納得がいった。

「相場警部補」

 相葉は真壁の部屋に入ると、キッチンを見たり、冷蔵庫を覗いたりと意味の無い事を続けていた。それに嫌気もさした私は相葉を呼んだが、彼は一向にこちらの声など聞こえないふりをしていた。

「相葉警部補」

 私は彼の肩に手をやると、可愛げの無い犬でも見るような目でちらりと見ると、また自分の作業に戻った。その態度に私はまた苛立ちを覚えた。こいつは馬鹿で無能だ。現場の状況から間違いなくあの異常者は、殺意を持って真壁を殺そうとしたに決まっている。それを教えてやら無ければならない。

「警部補が何を思っているのかは知りませんが、凶器なんてどうでもいいんですよ。証言によると、上山は真壁の首を絞めていた。これは殺意以外のなにものでもない。しかも上山は精神異常者(マルセイ)です。刺しただけでは飽き足りず、首を絞めて、その感触を楽しんでいたのでしょう。上山が真壁を殺そうとした。それが真実です」

 相葉の動きが止まった。私はようやく彼が気がついてくれたのだと胸をなでおろしたが、振り向いた彼の表情は、能面のように表情が無かった。

「真実など、都合のいいように捻じ曲げた出来事に他ならない。俺らは事実だけを集めて、そこから事実を突き止めるのが仕事だ」

 なにを偉そうな事を。反感がそのまま顔に出ていたが、気にしなかった。

「帰りたいなら帰れ」

 相葉はそれだけ言うと、背を向けて家捜しを始めた。相葉の言うとおり、帰ってしまおうと思ったが、ここで帰れば相葉は私を職務規定違反で上に言うつもりだろう。捜査は二人一組が基本だ。それがわかっていてやっているのだ。四十がらみの窓際のクセに、そういう事に気が回る相葉を憎らしく思った。

 意地でもいてやる。

 その思いだけが私の胸の中にあった。



 小春はあの後、バイトがあると言って俺と別れた。大学四年にもなるのに、バイトばかりしていて大丈夫なのだろうかと俺は心配になる。小春は能天気なところがあって、就職難のこの時代に「なるようなる」とか気楽に言ってのけている。俺自身も今の職場にありつくのに何十社と履歴書を送り、その見返りに何十社からも不採用の通知を受けたのだ。大卒なんて今じゃ、なんのステータスにもならない。

 そう。真壁だって同じだったはずだ。俺が大学で遊びまわっていた時期に、革靴をすり減らして、心をすり減らして働いていたんだ。俺は大学進学と共に真壁と疎遠になった。大学の仲間とバカ騒ぎするのが楽しい時期だったから。毎晩のように酒を飲んだり、バイトに精を出したりしながら、その日その日をおき楽に過ごしていた。大学四年になって、ようやく就職活動をし始めたとき、周りにいた仲間達はすでにいなくなっていて、ふっと真壁の事を思い出した。もう何台も携帯を変えている人もいるから、彼も高校のときの番号とは違う電話番号なっているかもしれないと思った。だから、あの時は、本当に繋がったらいいやとか、そんな投げやりな気持ちだった。正直、寂しかったのもある。あいつの笑顔を見ればなんとなく、寂しさがまぎれる気がした。

 再会した時のあいつは、あの頃のままのあいつだった。笑顔を振りまいて、でも瞳の奥は寂しげで、そんな真壁を見ていたら、昔みたいにまた笑えた。でも、あいつは違った。

 俺はその後就職が決まり、職場の愚痴を言いに真壁のところに良く行った。真壁は俺の不満も出来事も楽しそうに聞いていた。そして暗い話題をよく笑い話に変えてくれた。

 小春の言葉を借りるなら、俺にとっての光は真壁だったのかもしれない。入社したての不安な状況を救ってくれたのは真壁だった。俺は職場に馴染み、順調に仕事を続けている。俺が順風満帆に行く一方で、真壁は泥沼に落ちていった。

 ただいるだけでよかった。本当にそれだけでよかったのだろうか? 俺は真壁から貰う一方で、何も返せてやいない。大学にいたお気楽連中といた時は楽しかったけど、実のない話や、不毛な行為の繰り返しだった。そして、楽しむだけ楽しんだら「はい、さよなら」そんな連中だった。いや、俺もその中の一人だった。

 眠り続ける真壁。病室でチューブに繋がれ、安らかな笑顔を浮かべる真壁。息をしているだけの真壁。

「本当に、それでいいのかよ」

 誰もいない部屋はぽつんと声を消した。



 相葉に付き従うのもこれで最後だ。事件はほぼ上山恵理の殺人未遂で固まっていた。凶器に関しては、上山が何らかの形で隠滅したと見て、捜査は終了の体を見せていた。あれから相葉は何も見つけられないまま、私を散々振り回した。地元の公園で聞き込み、何を聞いていたかは知らないが、主婦から話を聞いている時点で、素人らしさが際立った。

 容疑者の上山は依然、何も語らないらしく、語ったとしても意味不明な問いかけをするだけだった。異常者は異常者だ。さっさと病院でもなんでも詰め込めばいい。

「ああ、君」

 相葉が呼んでいた。

「なんですか?」

「捜査本部に連絡を入れてくれないか?」

 一体この期に及んで何を連絡させる気なのだろうか? まあ、窓際のいう事だ。たいした用でもあるまい。

「わかりました。で、何を?」

「ホシがわかった。凶器も見つかった」

 意味がわからない。ホシとは犯人の事で、容疑者は一人。上山恵理を除いて他にいない。ならば、この男は何を言っているのだろう。まさか、ドラマのように真犯人が別にいるとでも言うのだろうか? 馬鹿げている。英雄気取りもいい加減にしてほしい。異常者の犯罪を健常者に擦り付けるつもりだろうか?

「お言葉ですが、相葉警部補」

「なんだね?」

 無表情がいちいち癪に障る男だ。

「容疑者は上山恵理一人です。当の上山は現在警察病院にいます」

「そんなことは言われんでも知っている。ああ、いい。自分で連絡を入れる」

 相葉がめんどくさそうに携帯を取り出したのを見た瞬間、途方も無い怒りがこみ上げてきた。

 携帯電話がアスファルトに転がった。相葉は虫でも見るようにそれを見つめていた。その表情が私の神経を過剰に逆撫でした。

「容疑者はあの異常者だ! 違うか? お前が捜査を引き伸ばし、無意味に革靴をすり減らせてきたのをわかってるのか? 本庁の人間だかなんだか知らんが、現場の判断を無視し、無意味な捜査をして、おまけに誤認逮捕か? いい加減に」

 ふいに、殺気を感じた私は目の前の男が誰だかわからなかった。表情を一切見せず、淡々と仕事をこなす刑事の姿がそこに無かった。熊という単語が頭に浮かんだのは間違いじゃない。殺される。瞬間的にそう感じた。

「黙ってろ」

 容赦ない一言だった。何も言えないまま、立ち尽くした。心の奥にあった何かが、音を立てて折れたのは確かだった。


 数日後、私は辞表を提出した。人手不足の署内だったが、辞表はあっさりと認められた。事件の事などもうどうでもよかった。今は、ただ実家に戻って、のんびり過ごしたい。

 署を後にするとき、ふいに視線を感じた。振り返るとそこには誰もいなかったが、それが誰の視線であるかはわかっている。

相葉だ。相葉(あいば)夏生(なつお)

 私はあの視線からきっと逃れられない。

「真実など、都合のいいように捻じ曲げた出来事に他ならない」

 あの言葉が事実だとしたなら、私の作り出した相葉夏生の視線は、真実に他なならないはずだ。だとすれば、だとすれば。

 私は足早にその場から逃げ出した。逃げても逃げても視線からは逃れられない。ならば、私はもう……。

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