1.階段と部屋
僕らは螺旋階段をひたすらに登り続けていく。どこまで行っても、何処まで上っても果ての無い階段を、いつまでもいつまでも。
そんな事を考えていたせいだろうか。僕は気がつくと螺旋階段の上に立っていた。ここがどこなのか、何故僕がここにいるのか、そういったことはわからない。ただ、なんとなくなくだけど、僕はこれが夢ではないかと思っている。そしてそれと同時に、これは現実なのかもしれないと思ってもいた。
明り取りの窓から薄い光が差し込んでいる。その光が円形の塔の内側に作られた階段を、ぼんやりと照らしていた。石で作られた階段、ざらざらとした石壁、腰の高さほどの柵は木製で、しかししっかりとした作りではなくて、少し体重をかけるとぎしぎしと音を立てた。今にも崩れてしまいそうだ。
僕が立っているのは、どの位置になるのだろう。ふとそう思った僕は手すりに手をかけて、下を覗き込んだ。ぱらぱらと木屑が深奥の闇の中、細かな粒子になって消えていった。
底は見えない。ただ、ぽつりぽつりと明り取りの窓から入り込んだ光が、渦を巻くように、闇に集束するように切れ切れに差し込んでいる。光の渦を追っているうちに、意識が深い闇の底に引きずられていく気がする。転落すれば、どこまでも落ちていける気がした。
ふいに思うのはここから落ちれば死ぬと言う事。そして、ここから出る事はかなわないという漠然とした思いだけだった。
どうすればいいのだろう。それだけが胸に残った。階段に腰をかけ、頭上を見上げた。底を覗き込んだ時と変わらない光景がそこに映っていた。薄ぼんやりとした光の渦と、果ての無い闇。
どのぐらい見上げていたのだろうか? 上ばかり見上げていて首が疲れてきたのだろうか? ふいに視界に何かが映り込んだ。
「鳥?」
呟いた声とも響きともつかない音が僕の口から漏れ出た。
上ろう。ただそれだけを思って、僕は階段を上り始めた。何処へ続くのか、何処へ向かうのか、それは確かじゃない。
でも、一瞬だけ目に入り込んだあれだけは、恐らくこの夢とも現実ともつかない世界で、唯一つ本当のものだと思った。
真っ白な部屋に閉じ込められると、一日としないうちに気が狂うという話を聞いたことがあった。だから、私はきっと気が狂ってしまったのだろうと思う。心がいくら正常に動いているように思えても、私自身の感じることはいつだって間違いだから、正常な判断も、正常な思考も、全部、間違っている。昔からそうだった。私が左と言えば、他の人は右だと言い。私が黒だというと、必ず白だった。
お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも、私はおかしいと間違っていると言い続けてきたのだ。だから自然と私もそういうものだと思うようになっていった。
だから、自然と私は言葉を無くした。いつからだろう。言葉が声が別のものになったのは。思い返す時間はたくさんある。でも、私の思考も、思い出も全部間違っているから、本当の事なんて、何一つわからない。
私の見ている世界の事を考えよう。ここはとてもいい風が吹いている。緑の草原。抜けるような青空が、間切られた絵画から流れ込んでくる。
真っ白な部屋に真っ白な生活用具。真っ白な薄い布が、絵画の両端で風に揺れている。
白は好き。白は正しさの証拠だから。ぐちゃぐちゃになった私の色からはとても遠い色。これはきっと憧れ。求めて止まない、けして手に入らない色。白に包まれていれば、私はきっと正常になれる。
でも、なんでだろう。誰かから聞いた話では、真っ白な部屋は人を狂わせてしまうと言っていた。
ああ、違う。そうだ。私には何一つ正しい事なんて無いんだ。だから、この話もきっと私の聞き間違い。覚えている事も、全部が間違い。だから私は真っ白な部屋に閉じ込められている。そうでなければ、私がここにいる意味がわからない。そうだ。あの人はいつもそう言ってくれた。「お前は間違っているのだから、私のいう事を聞くしかないんだ」そうだ。意味も無く歩いたり、意味も無く言葉を発しなくなった。最初はとても不安だったけど、今はもう何も感じない。そう、このまま何も感じなくなれば、私はきっと普通になれる。
でも、どうしてこの部屋には、あんな絵画が飾ってあるんだろう。あの絵画はなんだろう。あの人は何処から来たのだろう。考えてはダメだ。考えてはダメだ。考えたら、私は普通でなくなる。
ああ、聞こえる。遠くから。私の名前を呼ぶ声が。
彼女にあったのは、秋の夜だった。その日はいやに寒くて、冬物のコートを着てこなかった事が悔やまれた。スーツの襟をきつく閉めて、身体を抱くようにして早足で帰路についていた。今日あった事を呪いのように反芻しながら、痛む胸と凍える胸の両方を震わせていた。
夜の闇が深まる中、そこだけがまるで浮かび上がるように、白いサマードレスを来た女がふらふらと歩いていた。それは夏に見たならば、風呂上りの火照った身体を夜風にさらしているように見えたかもしれない。軽い足取りは何故か心もとなく、肩をさらしたドレスは、彼女の体のラインをより美しく見せていた。ドラマで見る未亡人さながら、どこか儚く、そして心を引き付ける何かが彼女にはあった。
彼女を見つけた瞬間から僕の胸の奥にある震えは鳴り止み、彼女が僕を見つけた瞬間、僕は鋭い寒風を肌に感じた。紫に変色した彼女の唇を見るなり、僕は彼女に駆け寄って抱きしめた。何故、そうしたのかはわからない。でも、そうしなければいけないような、衝動だけが胸に溢れていた。細すぎる体は氷柱のように冷え切り、いくら強く抱きしめても、彼女の熱を取り戻す事は無い様に思えた。
「泣いているの?」
小鳥のようにか弱く、初秋の風のように切ない声が僕の耳元で鳴った。
彼女はそれきり言葉を発する事は無かった。僕が家に連れ込んでも、何も動じることなく、暖房で温められた部屋でコーヒーをすすっただけで、僕を見つめるだけだった。いや、見つめてすらいなかったのかもしれない。熱感知機のように、ただ温度の高いところだけを見ていたのかもしれない。
「僕は真壁雄也。君は?」
彼女は僕の問いに首をかしげた。肩まで伸ばした黒い髪が揺れる。白すぎるうなじが滑らかな陶器のように思えた。
言葉が通じないのだろうか? ふいに彼女から溢れる独特の空気に僕は身を固くした。もしかしたら、どこかの性を売る店から逃げ出してきたのかもしれない。だとすれば、僕はきっと商品を奪った事になるのではないだろうか? 不安が顔に出たのだろうか? 彼女はそっと微笑むと、マグカップから手を離して僕を細い腕で抱きしめた。甘い花のような香りがした。
「なあ、君。どこかから逃げてきたのか?」
花の香りに包まれながら、僕はそれだけを尋ねた。彼女は静かに首を横に振る。
「そうか。なら帰る場所があるんだね」
彼女は静かに首を振った。長い髪がふわりと揺れ、また花の香りが僕の心を揺らした。すっと僕の腕が彼女の背に回った。細い身体を今にも折れてしまいそうな身体をきつく抱きしめた。彼女の肩口に顔を押し当て、声も無くただ、ひたすら泣いた。
ずっと、ずっと、こうやって泣きたかった。
堰が壊れた僕の涙腺はひたすら涙を彼女の肌に零し、彼女は何も言わないまま、僕をずっと抱きしめてくれた。
夜が明けると、僕は螺旋階段にいた。
延々と続く階段は、酷いくらい同じ形をしていた。何処まで上っても果てが見えない。僕は彼女がこの先にいるような気がしてならない。この階段を上りきった先に、彼女がいて、また僕を抱きしめてくれるのではないだろうか? そんな気がしていた。一歩、また一歩と足を踏み出し、階段を上っていく。彼女の名前はなんと言うのだろう。そんな事を考えながら、ふいに「小夜」という名前が浮かんだ。細い小鳥のような声。聖母マリアのように僕を抱きしめてくれた彼女。それはナイチンゲールのようではないかと思った。和訳すれば、「小夜鳴き鳥」だ。だったら彼女を小夜と呼ぼう。僕は小夜に会うためにこの階段を昇り続ける。
これは夢だろうか? きっと夢だろう。しかし、ざらざらとして、しんと冷え切った石壁の感触はとても夢には思えない。だが、僕は部屋にいたはずだ。小夜に抱きしめられたまま、そのまま眠りに落ちたはずなのだから。
本当にそうだったのだろうか? 僕の胸に棘が刺さったように痛みが走った。これは仕事の時に感じる痛みと同種の痛みだった。
頭の中に職場の映像が流れ込んだ。ため息に次ぐため息。冷笑と怒声。お前は間違っているのだから。お前の仕事は間違いばかりだ。どうしてそうなるまで放っておいた。萎縮する心が言葉を無くし、平謝りを続ける日々。出口の無い迷路に放り出され、解答の無い解答を求められる日々。
そうだ。僕は小夜と暮らしていた。あの日の朝目覚めて、僕と小夜は二人で生活を始めた。僕は仕事へ行き、彼女は僕の部屋を片付けたり、帰れば暖かい夕食を一緒に取った。言葉を交し合う事は無かった。でも、僕の話を穏やかに聞いてくれて、頷いてくれる彼女は僕の目の前にいた。言葉でなく、心を交し合っていた。
「どうして、こんな大切な事を忘れていたんだろう」
僕は螺旋階段の上を眺めた。そこには変わらない闇があるだけだったけど、あの時見えた鳥は、小夜だ。そう確信めいた何かが僕の胸を打った。
彼女を救い出さなくてはいけない。彼女ともう一度あの暖かな日々を過ごさなくてはならない。そうする事でしか、僕の痛みも、小夜の痛みも打ち消す事は出来ないのだから。
夜はいつになったら来るのだろう。この白い部屋に夜はやってこない。だから朝もやってこない。時間の止まった部屋に時計が不要なように、真っ白なこの部屋には一枚の絵画以外色が無かった。これが本当に正しい姿なのだと思う。あの絵画はきっと世界の醜さや間違いを集めたものに違いなかった。そしてあの絵画を美しいと思えてしまう以上、私はまだ正しい姿になれていない。
一日という単位は、二十四の時間で区切られている。そしてその二十四の時間は、六十という時間で区切られる。だから心の中で静かに数を数えていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「数を数えているんですか?」
先生が来た。私は指を折るのをやめて、先生をじっと見つめた。顔の無い人。声が何処から漏れているのかはわからないけど、きっと普通の人は口が無くても言葉を発する事が出来るに違いない。いや、口や目や耳がある私の方がおかしいのだから、そんな事を考える事自体が間違いなんだと思う。
「先生。どうして口があるんでしょうか?」
久しぶりに声を出した気がした。私の言葉はいつも間違いばかりだから、声を出した瞬間に全てが嘘になってしまう。でも、今日の質問はずっと考えてきた事だから、本当に近い言葉だと思う。
「どうして、そう思うんですか?」
ああ、また間違えてしまった。私の耳に届いた言葉は私の間違いを示す言葉だった。考えてみれば当然だ。先生には口が無い。きっと私の顔についているこの口も、先生には見えていないのかもしれない。いや、私があると思い込んでいるだけなんだと思う。なら、どうして私は「口」という言葉を知っているのだろう。
知っている。そもそも、その考え自体が間違いだ。私は口という言葉を知っているように感じているだけで、本当は口という言葉自体、存在しないのかもしれない。先生は私にそれを教えてくれるんだ。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。ベッドの上に座ったままお礼をするのは無礼だけど、いきなり立ってしまうと、先生は驚いてしまうのかもしれない。
先生は何も言わないまま、顔のない顔を私に向けていた。
顔の無い顔? おかしな言葉に私は微笑んだ。顔が無いってどう言う事だろう。だって私が発明した「口」は顔と言うパーツの一つとして私は覚えているけど、本当はそんなものは無いのだ。だから、この先生の顔が本当の顔。だったら顔には何もなくて当然のはずだ。
「どうしましたか?」
「なんでもありません」
「そうですか。なんだかとても楽しそうな顔をしていたので。ああ、そうですか。私をからかったのですね。いきなり口の話なんてするから、何のことかと思いましたよ」
「すみません。私、なに言ってるんでしょうね」
「大丈夫ですよ。貴方は日に日に良くなっているのですから」
「はい」
そう。先生の言う事は正しい。だってこんなに真っ白な人が間違っているわけ無いもの。私は少しずつ正しくなっていく。きっと、そのうち口や目の事なんて忘れてしまう。
「忘れてしまう?」
なんだろう。とても嫌な響きだ。何処で聞いたんだろう。思い出してはいけないような気がするけれど、でも無くしていけない響きのようにも感じる。感じると言う事はいけないことなのに、私はそれを求めている。何故、どうして。私は正しくならなくちゃいけない。正しくなって、普通になって、普通になって……それからどうすればいいの?
遠くで私を呼ぶ声が聞こえる。声は何処から響いてくるのだろう。ああ、また黒い色が私を巡ってくる。身体中に黒いものが、回ってくる。黒はダメ。黒はいけない。黒は間違い。間違いはダメ。
私はまた、暗闇に落ちていった。あの人の声が聞こえる。
「いろんな事をすぐに忘れてしまうんだ。大切な事ほどより簡単に」
彼は私に同じ話を何度も聞かせてくれた。彼がとても苦しそうだから、私は彼をいつも抱きしめた。そうすると彼は私に身体を預けて、静かに呼吸を繰り返した。子供が甘えるように、私を抱きしめた。彼はとても弱い人。私はちっとも正しくなんて無かったけど、彼のそばにいる時は、私は正しくなれた気がした。
こんな私でも彼にとっては、とても心安らぐ場所なのかもしれない。そう思うと言葉を交わさなくても、彼を待っていられた。でも、きっとあの場所は正しい場所じゃなかった。様々な雑多な色がごちゃごちゃと混ざっていたし、私の作る料理はどれも色鮮やかなものばかりだった。あの色とりどりの食卓を見つめる彼の顔は、今でも思いだせる。泣きそうなくらいに微笑む顔。私を抱きしめる汗ばんだ手。
布団は一組しかなかったから、私と彼はいつも同じ布団で眠った。でも、体の繋がりは無かった。そう、ああいう繋がりは間違い。あの絵画と同じで、見せ掛けだけの美しさだ。そしてそれを美しいと感じてしまえば、私も彼も、ただの狂人になってしまう。
きっと彼もわかっていた。だから、私と眠りはしても、身体を求めてこなかったに違いない。それに、そんな繋がりなど無くても、私と彼の心は、抱きしめあうだけで、繋がっていた。これ以上の繋がりを何処に求めるというのだろう。
ああ、そう。そうだ。だからだ。正しい人は、繋がりを持ってはいけないのかもしれない。私の考えは間違っているのだから、心の繋がりなど持ってはいけなかったのだ。これは私の大きな間違いだ。だから、私はここにいて、私は彼と離れる事に。
「起きてください」
また、朝が来たのだろうか? 時間の止まった部屋に朝が来ること自体、おかしなことなのに、朝はやってくる。もしかしたら、時間が止まっていると思っているのは私だけかもしれない。先生に聞かなくちゃ。
「先生」
「なんですか?」
とても穏やかな声だ。先生はいつも私にこういう声をかけてくれる。でも、先生と心を繋げてはいけない。それはいけないこと。
私は今思いついた質問を口に出そうとした瞬間、それを止めた。朝はきっと来るもの。時間はきっと止まっていない。それが確かなものか確認したいのに、確認する事は出来ない。だって私は正しい姿に近づいている。それを口にすれば、私はきっと正しい姿から遠のいてしまう。先生は言っていた。日に日に良くなっている。大丈夫だと。ならば私はこういった質問を口にしてはいけない。
「大丈夫です。私」
「そうですか」
穏やかな声。低く落ち着いた声。彼とは正反対の心の奥に響かない声。正しい声を先生は発している。彼の声はいつも私の心の奥にあるドアを叩いていた。その扉を開けてしまえば、私は正しくなれないのだ。
彼は、私にとってなんだったのだろう。
口の中はからからに渇いていた。どのくらい上り続けたのか、何処まであるのか、疲れているのか、それともまだ平気なのか。ずっと同じ風景を見つめ続け、ひたすらに階段を上る作業は、それだけで僕の心を灰色に染めていく。頭が重かった。鈍い痛みも感じていた。でも息はしていた。
「お前は心が弱いのよ」
母はよく僕にそう言った。そんなことじゃ生きていけない。弱いままではダメだと。でも、僕は強くなれなかった。どれだけあがいても、どれだけ望んでも、怒声を聞けば萎縮し、心無い言葉を聞くたびに、胸の奥がぎりぎりと万力で締め付けられる痛みを感じた。
こんな痛みを感じなくなれば強くなれると思っていた。だから痛みの中に身をおいて、その痛みに慣れるように生きてきた。なのに、これっぽっちも心は鍛えられなかった。痛いばかりで、それを気にしないような素振りだけはうまくなった。出来るだけ表情に出ないように取り繕う事は、かろうじて出来ていたのかもしれない。
いや、それすれも怪しい。そういった張りぼての表情はきっといろんな人に見抜かれていた。心に形は無いから、崩れたり壊れたりはしないのだろう。でも、僕の心はきっとずたずたに切り裂かれ、粉々になる寸前だったに違いない。
普通の人のように、心無い言葉を吐き、怒声で他者を従わせ、自由に振舞って、日々に何の疑問も抱かずにいられたら、僕は小夜を家に上げることもせず、仮に小夜を家に上げたとしても、身体だけ奪って、放り出したのだろう。きっとそうするべきだった。そうすることが普通だったに違いない。
なのに、小夜と過ごした日々は雲のように柔らかで、綿菓子のように優しい甘さだった。毎夜、同じ布団に潜り込み子供のように眠った。小夜は何を思っていたのだろう。僕と一緒にいたことは苦痛ではなかったのだろうか? いや、彼女はきっと体の関係を求めていたわけじゃない。それはわかる。あんなに一緒にいたのに、一度もキスも身体を重ねる事もしなかった。魅力が無いわけじゃない。彼女の花の香りを嗅ぐたびに、心臓は正直に脈を打った。でも、そうしなかったのは、僕が彼女との日々を壊したくなかったからだ。
あの日常だけが僕にとっての安らぎだった。生まれてからこれまでに得た何よりも変えがたい安らぎであった事は、僕自身が誰よりもよく知っている。
どれだけ心を踏みにじられようと、どれだけ苦しもうと、彼女だけが僕の救いだった。聖母マリア。彼女は生き写しだ。
この塔はなんなのだろう。ふいに僕は足を止めて上を見上げた。この先に彼女がいるのは間違いない。しかし、何故彼女はここにいるのだろうか?
「本物の聖母なのかもしれない」
からからに渇いた喉から掠れた声がした。
だとしたら、これは天国に続く階段かもしれない。傷みも苦しみも無い世界へ向かう階段。神の国に通じる塔。そんな話を昔聞いた事がある。
あれは高校の時だっただろうか。友人の一人が歌うように語った物語。人は神に祝福される為に高い高い塔を建てた。神の国に通じる塔を立て、その上に神殿を立て、神が降り立つ事が出来るように、祈りを込めて作り続けた。
あの塔は完成したのだろうか。遠い昔に聞いた話の結末が思い出せなかった。でも、あの話が本当ならば、この塔は神の塔なのかもしれない。神の神殿にはきっと、聖母もいる。小夜はきっと塔の上の神殿で僕を待っている。
そう。僕が仕事から戻った時に見せるあの笑顔で僕を迎えてくれるはずなんだ。