勇者、ポカをする
ゴブリンは秩序なく、めいめいが思い思いの場所で思い思いのことをやっている。
あるゴブリンは岩に腰掛けてぼーっとしていたり、あるゴブリンは立ったまま果物をくちゃくちゃと咀嚼していたり、あるゴブリンは隣のゴブリンと殴り合いの喧嘩をしている。
あちこちから奇声のあがるその集団は秩序がなく、魔王の恐怖政治によってある程度の統率がとれていた魔王軍とは到底思えない有り様だった。
緑色の肌をした、醜悪で下劣な最低位魔族は時として大発生し、その圧倒的な物量でもって村を、時として街を滅ぼす存在として嫌われていた。
とはいっても知能も低く力も弱く、魔法もほとんど使えないものばかりであるため冒険者集団や軍隊が組織だって戦えば、簡単に撃退できる魔族としても知られていた。
冒険者はゴブリンを狩って一人前、という言葉があったくらいだ。
あった、と過去形になっているのは、魔王によって――より正確に言うならば魔王の側近である潜血卿のヴラスによって――組織だてられたゴブリンの軍勢を壊滅させるのは至難の業だったからだ。
逆に言えば、秩序なく行動している今のゴブリンは軍隊には脅威ではない。ユードロス個人にしてみればその限りではなかったが。
――魔王軍の敗残兵なんだろう。
なら気にする必要はないか、と思った矢先、ゴブリンの軍勢の中心部分の様子が何やらおかしいのが目に止まった。
他のゴブリンが好き勝手やっているのに対して、その中心部のゴブリンたちだけは地面に置いた一枚の紙を中心に、円になって座っている。
そこにいるゴブリンの格好は周りのゴブリンの粗末な鎧と比べて上等な鎧を纏っていて、その中の一匹に至っては羽根つきの兜を傍らに置いている。
ユードロスはその一団が気になって、ゴブリンたちが視線を向けている紙をよく見ようと目を凝らす。
茶色い紙だ。うねうねと黒い線が縦横無尽に走っていて、凸マークが黒い線の所々に点在している。
地図だ。
それもこのあたりの地図だ。
ゴブリンの一人が、何か喋りながら指を大森林を表した木々の絵から、一番近くの凸マークへと動かす。
羽根つき兜のゴブリンがケヒャケヒャと奇妙な笑い声をあげて手を叩くのが、喧騒の中ではっきりとユードロスの耳に届いた。
凸マークが表しているのはファルコンサインだと気づいた時、ユードロスの血が沸騰する。
ゴブリンの一団はファルコンサインを指さしながら喧々諤々の話し合いをしている。
その内容はユードロスには聞き取れなかった。聞き取れたとしてもゴブリンの話す言葉はユードロスには理解出来なかっただろう。
おおよそゴブリンの話していることを訳すとこういう会話になる。
「親分よぉ! ファルコンサインっつったらそりゃあこっから一番近いこたあ確かだけど、あそこは腕利きのヒトが集まってるって話ですぜ。そんなとこを襲おうだなんて無茶もいいとこじゃないですかい?」
「そこを狙うのがミソってもんよ。誰も彼もあそこを狙おうだなんて思わない。だから油断するっつう話だ」
「なあるほど。そういうことですかい。さすが親分あったまいい!」
「褒めるないよ。魔王さまがいなくなった今俺らがこっちで生きる術なんてこれしかねえんだ。奪える時に奪えるだけ奪ってやろうぜ。たとえ死ぬにしたってヒトと戦って死ねるんだ。戦力にすらならなかった一ヶ月半前のことを忘れちゃいねえだろうなおめえたち?」
「いんや忘れちゃいねえ」
「俺も」
「ああ」
「だろう? なら、これ以上話しててもしょうがねえ。行くぞ、野郎ども!」
隊長格のゴブリンが立ち上がり、兜をつける。それにあわせて円になっていた他のゴブリンも散会して、それぞれの小隊を呼びつける。
あっという間に小隊ごとに整列したゴブリンが理路整然と並び、静かに隊長格のゴブリンの言葉を待つ。
ユードロスには理解できない言葉で兵士たちを鼓舞する隊長格のゴブリン、静かに、そして着実にゴブリンたち一人一人の持つ殺気が膨れ上がっていく。
ボルテージが最高潮に達した所で、隊長格のゴブリンが一際大きく吠え、拳を振り下ろした。
瞬間、全ゴブリンが勝鬨の声をあげる。無秩序なゴブリンの群れは今や精強なゴブリンの軍隊へと変貌していた。
ユードロスは鬼気迫ったゴブリンたちを「ヤバイ」と感じた。
デジー公が魔王が滅んでたかだか一ヶ月と少しで警戒の手を緩めるとは思えなかったが、それでも何かヤバイと感じた。
――デジー公に伝えないと。
そして自分もファルコンサインを守るために戦うのだとユードロスが決意して、ファルコンサインへ急ごうと大木から降りようとする。
彼は気づいていなかった。
剣や魔法の腕が落ちているように、筋力やバランス感覚、柔軟性といった肉体そのものそのものも衰えているということに。
なんてことのない太い枝から足を滑らせ、枝の一つ一つにぶつかりながら落ちるユードロス。
背中から地面にたたきつけられた彼は息が止まり苦痛の声もあげられず悶絶する。
幸いにして枝に当たりながら落ちたことで重傷は避けられたし、聖剣シミリスはユードロスの髪の毛をほんの少しだけ切り取って地面に突き刺さった。
それでも細かい打ち身や擦過傷を沢山こしらえたユードロスがなんとか体を起こしてみれば。
四〇〇を越える瞳が獲物を見る目で彼を捉えていた。