↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

脳みそ喰らいの恋

作者: 短小マン
掲載日:2015/06/18

 どんな命も貴いなんて言うけれど、世の中には死んだ方がいいものは確実に存在する。たとえば、私のような生き物だ。

「私なんて、早く死ねばいいのに」と私は毎日のように自分を呪う。呪いが実現して、本当に殺してくれないかと期待しつつ口ずさむ。半ば、口癖のようなものだ。

 だから、一人の時だけでなく、母と一緒の時に呪いの言葉が漏れてしまう事がある。それを母は聞き咎めて、怒る。

「フレイヤ、なんて事を言うの!」

 私を叱る時、母は決して体罰を加えない。代わりに口頭で私を叱責し、その後、強く抱き締める。私は母の温もりを通して『愛している』というメッセージを受け取る。

「ごめんなさい」と私は謝る。

「いいのよ」と母は私を許す。

 けど、幾ら母が許してくれても、私は、私という生き物が許せない。

 どうして母が私を愛せるのか、私には理解できない。母は強姦されて私を産んだ。この人にとって私は望まぬ子どもであり、忌まわしい化け物の子だ。

 脳みそ喰らいという人間を捕食する化け物、それが私の本性だ。


 脳みそ喰らいの話をしよう。

 脳みそ喰らいは地下に住む化け物だ。知的生命体の脳を主食にする烏賊のような頭部と人間の身体を持った生命体で、邪悪な知性を有しており、人間を捕らえては、口から伸びた触手を使って、脳漿を吸い取ってしまう。

 脳漿を吸われた人間は知性や記憶、本能を失っていく。捕食を繰り返されるごとに脳を失い、人間性を喪失する。最終的には、頭の中を吸い尽くされ、からっぽになって死亡する。

 脳は、知性や記憶を司るだけでなく、肉体の制御も行っている。運動系を司る小脳等を吸われた肉体は制御を失い、呼吸困難を起こして窒息死する。

 母は、そんな化け物に襲われた。脳を吸われる事はなかったが、脳みそ喰らいは邪悪な意図を持っていた。化け物達は母を弄んで、犯した。結果、子どもを孕んだ。一刻も早く堕ろすべきだったが、胎児は異様な速度で成長し、中絶する事は叶わなかった。

 母は私を産んだ。

 母の親族は、生まれた私を見て、殺せと言ったらしい。実に真っ当な判断だと思う。化け物の子どもなんて生かしておくべきではない。私は、生まれてすぐに殺されるべきだった。

 けど、母は首を振った。

「生まれてた子に罪はないのよ」

 母の判断は、常軌を逸していると思う。

 確かに、まだ生まれて間もない私は、罪を犯していなかったかもしれない。けど、邪悪な生き物である事は確実だった。赤子の内に、殺すべきだった。

 花のついた毒虫の卵は、近い未来に花を枯らす。だから花を育てている人達は、毒虫の卵を躊躇なく潰す。それは当然であると思うし、それでいいと私は思う。

 けど、母はそうではなかった。

 母は赤ん坊だった私を連れて、実家を出た。見かけは人間と変わりないけれど、脳みそを吸い取る赤ん坊を抱いて、逃げるように家族の前から姿を消した。

 いや、実際に母は逃げたのだろう。母の両親や親族は、私を殺そうと決心していたに違いない。普通の感性だったら、そうするのが当然だ。だが、母は普通とは少し違った。化け物の子どもに愛情を注ぐ程度は、変わっていた。

 だから、逃げた。

 家を出た母は、遠くの街に行った。そこで小さな部屋を借りて、身を削って、私を育てた。

 比喩でなく、文字通りの意味で。

「フレイヤ、お腹が空いていない?」

「空いていない、大丈夫だよ。母さん」

「そうなの? でも、お腹が空いたら、いつでも母さんを食べていいのよ」

 私は人間と脳みそ喰らいの合いの子だ。人間の脳みそを食べないと、肉体を維持する事ができない。生きているだけで、人という名の花を蝕む毒虫だ。

 そんな忌まわしい毒虫に対して、母は愛情を注いでくれた。

「私を食べなさい」と母は言う。

 確かに、他の人間の脳を差し出すわけにも行くまい。だからといって、子どもを生かす為に、脳みそを吸わせるのは、とてもではないが正気とは思えない。

 だが、母は言う。

「可愛い我が子の為だから」

 その言葉に偽りがない事は、母の脳を食べた私がよく理解している。

 おぞましい事に脳みそ喰らいという生き物は、捕食を通して、犠牲者の知識を我が物にする。そういう能力を有している。脳みそを吸い取って、知識、経験、記憶を奪うのが、脳みそ喰らいという化け物だ。

 食事を繰り返す度に、私は母の知識や経験、記憶を吸い取った。

 母がどんな人生を送ってきたか。家族とどんな思い出を育んできたか。どんな青春を送っていたか。どんな勉強をしてきたのか。どんな風に身体を動かすのか。十五歳という若さで化け物を産んで、どう思っているのか。

 それらを全て自分の物にしてしまった。

 そうして私の知識が増える度に、母は少しずつ壊れていった。それは当然の事である。脳みそ喰らいに食べられるとは、そういう事だ。

 私は食欲を抑えようとした。母を食べる事を我慢しようとした。だが、結局、我慢できなくなって、母を襲い、脳みそを啜った。

「馬鹿ね。無理をしちゃ駄目よ」と母は呆れ顔で私を叱る。

 餓死する覚悟がない限り、食事を止める事はできない。そんな当たり前の事を私は理解していなかった。情けないことに、私は座して死ぬ覚悟を持つ事ができなかった。

 結局、私は母の愛に甘えていただけだ。

 母からっぽになった時、ようやくそれに気付いた。



 脳みそ喰らいという生き物の生態は、殆ど謎に包まれている。

 分かっているのは『知的生命体の脳みそを喰らう』という食性と、烏賊に似た頭という外見的特徴、それに地下に住むことを好むという習性だけだ。だから、その生体がどんなものであるのかは不明瞭だが、確実な事がもう一つある。

 脳みそ喰らいは、人間に比べて成長が早い。

 母が私を妊娠してから出産するまで、堕胎する間もないほど早かったし、私自身の成長も、人間と比べると異常なまでに早い。生まれ落ちてたったの二年で、私はかなり大きくなった。外見だけなら、母と殆ど変わりないぐらいに。

 母が死んだのは、その頃だった。

 二年間、母は脳みそを吸われ続けた。その末路は脳みそを吸い尽くされての、呼吸困難からの窒息死だった。

 もっとも、その少し前から、母は生きながら死んでいるような状態になっていた。脳を失いすぎて、自我を喪失していた。

 しばらくの間、母の記憶と、母自身の記憶を反芻しながら、私はからっぽになった母を眺める。どうして早く死ななかったのか。拒食による緩やかな死などではなく、能動的に自ら命を絶っていれば、母をこんな目に遭わせることもなかっただろう。首吊り、飛び降り、溺死、いくらでも方法があった筈だ。

 だが、私はもう自殺を選べない。

 母の記憶を持ってしまった。彼女が私をどれほど愛していたのか、私は自分の記憶として理解している。あの人は、私に生きて欲しいと最期まで願っていた。それは、どんな形式の遺言よりも雄弁な願いであり、呪縛でもあった。

 私は、生存しなくてはいけない。

 その場合、問題となるのは食事だった。

 今までは母がいてくれた。母は私にいつでも脳みそを吸わせてくれた。けど、もう母はいない。私は自分で食事を探さなくてはいけない。けれど、母のように脳みそを吸わせてくれる人など、そうそう見つかるはずがない。

『どうか、僕の脳みそを吸ってください。このままでは僕の頭ははち切れてしまう』

 いくら新聞を眺めてみても、そんな投書はどこにもない。脳は人間が人間たり得る根幹であり、それを吸ってもいいと言ってくれる人なんて、いるはずがない。

 私は空きっ腹を抱えながら街を彷徨った。

 みすぼらしい格好をした私に、人々は胡乱な目を向けた。心脆い生き物にとって、視線は鋭い刃となる。母が死んで心が弱っていた私は、視線を避けるために街の裏へ裏へと逃げ込んだ。薄暗い野良犬やドブネズミが徘徊する路地裏に入り、そこにしゃがみ込んだ。

 耐えきれない程に空腹だった。誰かの脳漿を喰らいたかった。

「どうしたんだい、お嬢ちゃん」

 誰かが私に声を掛けてきた。少し粘ついた息遣いがする、中年の男のようだった。私は答えず、顔も上げず、俯いていた。なにかをしなくてはいけないことは理解していた。だが、それが何であるのか、私には分からなかった。だから、ただ俯いている事しかできなかった。ひどい空腹。飢餓に耐えかねて私の腹が鳴る。すると、男が笑った。

「なんだ。腹が減っているのか。なら、お嬢ちゃん向きのいい仕事があるよ」

「仕事?」

 顔を上げる。中年の男は、私の身体を眺めていた。値踏みをするような目つきだ。

「その仕事は、私にできるのか」

「ああ、君ならできるよ。これは綺麗な子にしか紹介できない、おいしい仕事だ」

 中年の男は私を安宿に連れ込んだ。私は言われるままにした。そこで男は、私の着ている服を脱がせて、風呂に入れて身体を洗ってから、軋むベッドに放り出した。

「初めてかい」

「……何が?」

「ああ、いいね。擦れてないのは」

 裸になった男は私を組み敷くと、笑いながら顔を近づけてくる。狙いは私の口だ。両腕を使って、口を庇った。

「口は駄目」私の舌には触手がある。これは誰にも知られてはいけない。

「くく、キスは御法度か。ますますいいなぁ」

 男は嬉しそうに笑いながら私の中に侵入してくる。

 そこでようやく、これが交尾である事に気が付いた。

 男は盛りのついた犬のように興奮している。私は、母によく似ていた。胸は殆ど発達しておらず、全体的に未成熟だ。そんな身体を男は気に入ったようだ。嬉しそうに身体中を舐め回し、様々な方法を使って責め続けた。それはとても痛くて気持ち悪かったが、黙って耐えた。

 事が終わって、男は息も絶え絶えになりながら、ベッドで大の字になった。私はその隣で、お腹を押さえて丸くなっている。

「痛むのかい。いや、すまないね。あまりに初々しいから、少しはしゃぎ過ぎたみたいだ」

 中年の男は気遣うように言った。けれど、それは形だけの物だろう。もし、本当に私の事を気遣う気持ちがあったなら、あんな事は絶対にしない。

 それに彼は見当違いをしている。確かに酷い事をされ所為で、体中が痛い。特に下腹からは出血して、鈍い痛みが走っている。だが、それは我慢できない痛みではない。私がお腹を押さえているのは、別の理由だ。

 丸まり続ける私に、男は困った顔をした。

「いや、本当に悪気は無かったんだ。ああ、そうだ。少し花代に色を付けて上げようじゃないか。ここらの相場は三本だけど、一本おまけをしてあげよう」

「いらない」

「……困ったな、どうすれば機嫌を直してくれるんだい?」

「別に機嫌は悪くなってない。私に、誰かを怒る権利なんてない。ただ、少しだけお腹が減っている。それだけ」

「ああ」と男の顔が明るくなった。「なら、食事でもご馳走しようじゃないか。なんでも好きな物を言ってごらん」

「……なんでも?」

「ああ、なんだっていいさ」

「なら、貴方の脳みそを吸わせて欲しい」



 こうして、私は娼婦になった。

 幸いな事に、私は母に似ていた。見た目だけは整っている。触手が収まっている口さえ開かなければ、誰も私を化け物とは思わない。

 髪を結わいて、露出の高い淫らな服を着て、私は男を誘うために街角に立つ。いわゆる、立ちんぼだ。特定の娼館に属さない、路上で春をひさぐ女になった。男が声を掛けてきたら、私は彼らにこう提案する。

「そこの人、私を抱かないか。ご飯を食べさせてくれるなら、安くする」

 相手がうんと頷けば、私は彼らを宿に誘い、事が終わったら脳みそを吸い取る。

 このやり方が上手くいった。

 今、この国はとても困窮している。娼婦が街角に立つことは珍しい事でもなんでもない。生活に困窮した女が手っ取り早く稼ぐために、街頭に立つのはごく普通の事だ。

 母も私を養うために、何度か街角に立った。家を出た母は、女工として働いていたが、不況の煽りを喰らって解雇される事が何回かあった。そういう時、母は夜の街で稼いだ。

 その時の経験を、私は我が物にしている。男への媚び方や値段の交渉、娼婦達の縄張りなど、母の記憶は役に立った。私は、また母に助けられた。

 気を付けるべき事は、病気の予防と避妊だ。特に避妊に重要だ。まだ、私には生理が来ていないけれど、万が一という事もある。これ以上、私のような忌まわしい生き物を増やしてはいけない。

 交渉が成立すると、私は男を部屋に連れ込む。

 そこには私と客以外誰もいない。

 仕事は、だいたい一時間で終わる。それ以上、かかる事はあまりない。私は持てる手管を使って、男の股を軽くしてやる。一時間後には何度も果てて、肩で息をするようになる。

「いやぁ、よかったよ。また逢えないだろうか?」

「それは無理だな。私は馴染み客を作らない」

 事が終わると、私は食事の約束を果たして貰う。

 口を大きく開けて、触手の舌を見せつける。客は「ひぃっ」と短い悲鳴を上げる。だが、彼の抵抗はそれだけだ。私の舌は、刹那の速さで客の眉間に突き刺さる。

 脳みそ喰らいの舌には、尖端に鋭い歯が付いている。それは微細に振動していて、ドリルのような貫通性を持ち、人間の頭蓋骨に穴を開ける。眉間を穿ったら、その孔から細い触手を侵入させる。同時に脊髄に細い触手を刺して、運動中枢を麻痺させる。

 脳内に侵入させた舌を使って、私に関する記憶や、最近の記憶を探る。それらを消すことによって、身の安全を確保する為だ。私という怪物に捕食された記憶をそのままにして置くわけには行かない。

 そうして記憶を探るとき、重要となるのが味覚だ。脳みそ喰らいの味蕾には、記憶の検索機能が備わっている。脳の味見をする事によって、その部分にどんな記憶が収まっているのか、なんとなく分かる。細かな情報は実際に吸い取ってみないと分からないが、吸い取るべき内容の品定めをするなら、これで十分だ。私はワインのテイスティングをするように、男の脳を吟味する。

「あー、あっ、あっ」と声を上げて、男の身体がビクビクと跳ね回る。

 麻痺が少し弱かったようだ。あまり動かれると、脳に傷が残ってしまう。私は手足も使って、客を押さえつける。

「見つけた」

 娼婦や色街に関する記憶を収めた部分に、私に関する記憶が入っていた。この客は、そこに私に関する情報を放り込んでいたらしい。人間という生き物は規格統一されているが、脳みその使い方は、個人によってけっこう異なる。人によっては、思いもよらない部分に重要な記憶を隠していたり、妙な場所に自我が置かれていたりする。

 だから、適当に脳みそを吸い取ってはいけない。そんな事をしてしまったら、客が壊れてしまうからだ。ほんの少し頭を打っただけで、人は別人のようになってしまう事もある。本来、脳は不可触な領域だ。

 必要な部位を必要なだけ、そうしないと致命的な後遺症を残す可能性もある。一度に捕食する量は、重さにして五十グラムから百グラム程度。これぐらいなら、客にも悪影響は出ないし、私も空腹を満たす事ができる。当分脳みそを食べなくていい。

 私は触手に力を入れる。脳みそがストロー状の触手を通って、胃袋に収まっていく。今回の脳みそは少し脂っぽい。それにしょっぱくもある。もう少し自然科学の勉強をすれば、瑞々しさが増して、美味しい脳みそになる事だろう。

 もっともそんな事は、客にとっては知ったことではない。彼は脳みそを吸い取られる恐怖と戦うのに忙しい。しばらくの間、引きつった悲鳴を上げいたが、やがて気絶してしまった。

 食事が終わると、私は舌を引き抜いて、客の額に開いた孔を舐める。孔は見る間に消えてなくなる。脳みそ喰らいの唾液には、治癒の魔力は封じられている。殺す事なく最期まで、犠牲者から脳みそを吸い取る為だ。

 こうやって食事をした形跡を消して、気絶した客を放置して、シャワーを浴びて部屋を出る。

 これが私の日常だ。

 とてもではないが、胸を張れる生き方ではない。私に比べれば、暗い路地裏で蠢くドブネズミの方が真っ当に生きている。

「私なんて、早く死ねばいいのに」

 たとえば、通り魔に襲われるとか、強盗に殺されるとか、暴走車によって轢死するとか、悪魔殺しが見つけて退治してくれるとか、そういった事が起これば私は死ねる。

 けど、私の周囲は、悪夢のように平穏だ。

 死にたいと願いながら、死ぬ勇気のない私は、死することを望み続けていた。私がアルフレッドと出会ったのは、そんな頃だった。



「少しいいですか?」

 街角に立っていると、一人の少年に声を掛けられた。歳は十五歳ぐらい、汚い服を着た、あどけなさの残る顔立ちをした少年だ。

「私は子どもの相手はしないと決めている」

「ぼく、アルフレッドといいます」

 拒絶しているにも関わらず、アルフレッド少年は厚顔無恥にも自己紹介をしてきた。私は、わざとらしく溜め息を吐いて、彼を睨み付ける。

「商売の邪魔。消えなさい」

 だが、アルフレッドは消えなかった。私の視線を真正面から受け止めて、邪気の無い笑顔を浮かべている。

「あの、損はさせませんから、ぼくのモデルになって下さいませんか?」

「……モデル?」

「はい。ぼく、こう見えて絵描きなんですよ」

 私は、アルフレッドを観察した。

 ただ汚れているだけだと思った服は、絵の具で汚れた作業着だった。背にはイーゼルとキャンバスを背負っている。肩に掛けているかばんには、絵の具などの画材道具が入っているのだろうか。

 ふと、私は既視感を覚えた。どこかで、この少年、あるいは、この少年に関する物を見た記憶がある。私自身の記憶ではない、取り込んだ記憶野を検索すると、彼に関する記憶があった。

「……娼婦描きのアル?」

「うわぁっ、ぼくの事を知って下さっているんですか!? 光栄だなぁ」

「いや……」と私は口ごもった。

 別に私自身が少年について知っていたわけではない。単に、脳みそを吸い取った客の中に、彼の作品を好んだ男がいただけだ。娼婦に関係する記憶を吸い取った時、外部由来の記憶野に、彼の情報が混ざっていた。

 アルフレッドは若い絵描きだ。

 一般的に、若い絵描きは貧乏と相場が決まっているけれど、アルフレッドはそうでもない。他の画家が抽象画や風景画に傾倒する中、彼は裸婦画ばかり描いていた。しかも、それは娼婦をモデルにしたもので、それを裏町の酒場や娼館などに売っている。客は芸術など欠片も分かっていないが、裸の女の良さや、娼婦の良さを理解していた。だから、アルフレッドの絵は、芸術品としてではなく、実用品としてよく売れた。

「ぼくもお姉さんの事をよく知ってますよ、記憶飛ばしのフレイヤ。プレイ後に記憶が飛んでしまうほどの、ハイレベルな娼婦って聞いてます。と言うことでお姉さん、是非ともモデルになってください!」

 アルフレッドは真剣な顔をして頼み込む。

 一方、私は戸惑った。

 今まで私がやって来たのは、春を売る事と、脳みそを吸い取る事ぐらいだ。他には何もしたことがなく、友人と呼べる人間は一人も居なかった。より正確には、私のような存在が友人なんて作ってはいけないと思い、他の娼婦達からも距離を置いていた。彼女らは、彼女らで一つの社会を形成し、その中で働いていたが、私は一人きりだった。

 こんな風に頼み事をされるのは、初めてだった。こういうケースの行動規範を、私は持ち合わせていない。

「私は、そういう事がよく分からない」

「大丈夫ですよ。モデルはポーズをとってジッとしているだけです。簡単です。もし、分からない事があってもぼくが教えます」

「だ、だが……」

「頼みますよ。見た瞬間に、ビビッと来たんです! こんなにインスピレーションが湧いたのは、本当に久しぶりなんです!」

「し、しかし……」

「お願いします。人助けだと思って!」

「わ、わかった」

 だから私は流されるように、アルフレッドの頼みを聞いてしまった。



 私はアルフレッドのモデルとなった。彼のアトリエに連れて行かれて、服を脱いで、ポーズを取る。

「動かないでくださいね。できれば瞬きも控えてください」

「息は?」

「少なめで」

「……努力はする」

 絵のモデルをするとき、身動きをしてはいけない。想像以上に厳しい仕事だ。私は裸のままポーズを取って、人形のように硬直する。

「駄目ですよ、動いたら!」

 ちょっとでも身じろぎすると、アルフレッドは私を叱る。

「す、すまない」と謝るとアルフレッドはまた叱る。

「だから、動かないでください!」

 普段のアルフレッドは気の良い少年だが、絵を描いているときの彼は鬼だった。妥協という物を一切知らず、私に対しても容赦がない。休憩は一時間に十分程度。それまで、私はアルフレッドに叱られないよう、身動きしないように、自分が人形になったと思い込む。

 実際、彼の絵は、情熱に比例するように素晴らしい。私には芸術に関する審美眼なんてないけれど、キャンバスに描かれた私は、驚くほどに美しい。

「時間です、お疲れ様でした!」

 休憩時間になると、アルフレッドは普段の彼に戻る。私の労をねぎらいながら、肩に毛布を掛けて、いい香りのする紅茶を淹れてくれる。

 そんなものはいらないと、最初は固辞していたけれど、「飲んでください。フレイヤさんが飲んでくれないと、ぼくもくつろげません」と言われて、飲むようになった。飲んで驚いた。アルフレッドの淹れてくれた紅茶は、とても美味しかったからだ。こんなにも芳醇な飲み物が、この世にあるのかと思うほど、その紅茶は素晴らしかった。

「とても美味しい。こんな紅茶は初めてだ」

「すみません。元々凝り性で……」アルフレッドは恐縮する。

「いや、ここまで美味い紅茶が淹れられるのなら、それは誇るべきだ」と言うと、彼は照れた顔をして「じゃあ、絵が売れなくなったら喫茶店でも開きましょうか」などと軽口を叩いた。

 そうして、紅茶を飲んでいる間、アルフレッドは色々な話をしてくれた。ちょっとした失敗談や、ご近所の滑稽な噂話、酒場でおこった不思議な話。裏町を拠点に活動する絵描きは、話題も豊富だった。

 彼の話を聞いて、時には私は感心し、時には感動の涙を流し、時には腹を抱えて笑った。生まれてから、たった二年しか生きていない私と違って、彼の人生経験には、尊敬に値する厚みがあった。

 そうして、アルフレッドのモデルをする傍ら、私は街頭に立つ。

 アルフレッドは、私にかなりのモデル料を支払ってくれた。普通の娼婦なら、モデルをしている間は、街頭に立たなくて済む程度のお金を。

 だが、私は人間と違って、お金だけでは生きられない。どれだけ外面を取り繕っても、脳みそを吸わなければ餓死してしまう。そういう化け物だ。

 その日に、引っ掛けた客は、身なりのいい中年だった。裏町まで女を買いに来た、上流階級の男。私はその男に媚びを売って尋ねる。

「食事をご馳走して頂けますか?」

「ふん。好きな物を喰えばいい」

 私は部屋に誘い込み、望まれる事を何でもした。一仕事を終えると、男が許可した通りに、彼の脳みそを吸わせてもらった。いつも通りの、何の変哲もない日常だ。

 けれど、そこで異変が起こった。

「……なんだ?」

 急に涙が止まらなくなってしまった。拭っても拭っても、涙が溢れてくる。母が死んだときですら、私は涙を流さなかった。どうしようもない喪失感に襲われただけで、少しも泣かなかった。そんな私が、今は滂沱の如く涙を流している。

「どうして……」

 自分の身に何が起こっているのか理解できなかった。なにを悲しんでいるのか。なにを哀れんでいるのか。何もかも、いつも通りの事なのに、どうして涙が止まらないのだろうか。

 私は必死になって、涙の理由を考えた。どうして、こんなにも涙が止まらなくなってしまったのか。情緒的になってしまっている自身の脳みそに活を入れて、しゃくりを上げながら考えた。

「……ああ」

 ふと、私は腑に落ちた。

 この涙は、哀れみの涙だ。そして、私が哀れんでいるのは自分自身だ。

 惨めな生き物の分際で、私は自分を可哀想だと思っている。街角に立って男に股を開き、人の脳を吸い取る。そんな生き方が、私には相応しい筈なのに、辛いと涙を流している。化け物の分際で、自己憐憫に陥っている。

 今までは、そんな事、感じた事もなかった。

 私が辛い目に遭うのは、当然の事だ。私は自分を愛してくれた母を食い殺した、許されざる存在だ。だから『私なんて、早く死ねばいいのに』と自分を呪い続けた。

 だが、最近、私は生きる事が楽しい。

 あの絵描きの、アルフレッドの所為だ。

 彼との時間は楽しい。本当に、心の底から楽しかった。アルフレッドは、私を心から笑わせてくれた。美味しい紅茶も淹れてくれた。一仕事を終えたという心地よい疲れの中で、私達は楽しく話をした。

 

 それに比べて、本当の私はなんて惨めなのだろう……


 娼婦として仕事を終えたとき、私はそんな風に感じてしまった。自らを哀れんだ。それが、先の涙の正体だ。

「なんて浅ましい……」

 私には、幸福になる資格なんてない。

 本来なら生きている事も許されない、忌まわしい化け物だ。人間の脳みそを食料にして、実の母を死に追いやった。今でも、自分の身体を撒き餌にして、男を誘っては脳みそを啜っている。

 なのに、私は笑ってしまった。楽しいと思ってしまった。幸せを感じていた。その上、自分を哀れんだ。なんて救いがたい生き物なのだろう。

「私なんて、早く死ねばいいのに」

 私は呪いの言葉を吐いた。



 アルフレッドとの約束を破った。

 モデルをする時間になっても、彼の部屋へ行かなかった。直接行って断らなかったのは、二度と会わないと決めたからだ。アルフレッドに会うと私は幸せになってしまう。けれど、脳みそ喰らいという化け物が、幸福になってはいけない。

 だから、私はアルフレッドから逃げた。

「私には分不相応だ」そう言いながら、何日もねぐらに籠もった。ここは誰にも知られていない。アルフレッドと顔を合わせる心配もない。そこで私はなにをするでもなく、じっとしていた。けど、生きていれば腹が減る。

 私は、一週間振りに街頭に立った。

「見つけましたよ、フレイヤさん」

 アルフレッドはすぐに現れた。用心の為に、今までとは全く別の場所に立ったが、彼にはまるで通用しなかった。

「裏町には、ぼくの知り合いが沢山いるんです」

 勝ち誇るようにアルフレッドは言う。彼は私の手を取って真剣な顔で「来て下さい」と言う。

 私は首を振った。

 するとアルフレッドは怪訝な顔で私を見る。

「……もしかして、モデルになるのが嫌なんですか?」

 私は更に首を振る。

 嫌なことなんて一つもない。モデルをしているときは大変だけれど、真剣な顔で絵を描く彼を見るのは楽しかった。キャンバスの上に掻き出された私は、天使のように美しかった。淹れてもらった紅茶はたとえようもないほど美味しかった。休憩時間中のお喋りは、お腹がよじれるほど面白かった。

 だから、駄目だ。

「幸せだから、駄目」であると、私は正直な気持ちを話した。私は幸せになってはいけないのだと、絵描きの少年に説いた。

「なんて事を言うんですか!」

 アルフレッドは私を叱った。モデルをしていて身動ぎをした時のように、強い声で叱った。私は反射的に首を竦めた。すると、そんな私を彼は抱き締めた。それは私が殺してしまった母のような暖かさで、言葉よりも雄弁に私に訴えかけてくる。

 貴方は、幸せになってもいい。そう彼は言っていた。

「……ごめんなさい」

 私は涙を流しながら、謝罪の言葉を口にする。けれど、それが誰に対するものか、何に対するものなのか、何も分からない。

 確かな事は一つだけだ。

 私はアルフレッドに恋をしてしまった。



 私は、またアルフレッドのモデルになる。

 彼の前で裸体を晒し、長時間ポーズを取る。休憩中に美味しい紅茶をご馳走になり、彼の楽しい話を聞く。そうしたことを繰り返す。絵は、日を追うごとに完成に近づいていく。

 私はアルフレッドに恋をした。彼の事が好きになった。けれど、それは私の勝手な感情で、彼が私をどう思っているのかは分からない。あの時、アルフレッドは私を抱き締めてくれたけれど、それは憐れな娼婦を哀れんで抱いただけだろう。彼にとって、私はモデルの一人でしかなく、街角に立つ娼婦の一人でしかない。

 けれど、もしかしたら――

 愚かな期待が、私の中に芽生えていた。

「……その、一ついいか?」

「なんですか?」

「アルは、私の事を抱かないのか? モデル料、けっこう貰っているし、お前が抱きたいならサービス、するぞ」

 そっぽを向きながら、私は言う。

 その時、私の顔は茹でたエビのように真っ赤になっていただろう。それぐらい、今の言葉は私にとって恥ずかしい。

 食事の為に撒き餌として使っている身体だが、積極的に男に抱かれたいと思ったことはなかった。私にとってセックスは、世間一般で言うところの愛情を確かめ合う行為ではなく、食事の代価に過ぎない。たまに妙な気分になる事もあるけれど、その大半は気持ち悪いだけだ。

 必要な物のために身体を差し出す。

 その意味で、私は間違いなく娼婦だった。

 けれど、その時の私は、一般的な意味でのセックスを申し出た。アルフレッドが私にどういう感情を抱いているのか、確かめる為の試金石にしようとした。あるいは純粋に、彼に抱いて欲しいと思っていたのかも知れない。

 私はアルフレッドの反応を見る。

「ご厚意はありがたいですけど、絵描きとして、モデルさんに手を出しませんよ」

 困った顔でアルフレッドは言う。

 私は更に顔を赤くした。一世一代の告白が、完全に的外れな事になって、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。

「た、単なる私なりの厚意だ。他意はない。私にできる礼なんて、これぐらいしかないからな」

 照れ隠しに私は言う。すると、アルフレッドは慣れているとばかりに「ええ、わかってますよ」と頷いた。

 その対応で私は傷つき、理解する。

 これが娼婦なのだと――

 これが本来は最高の愛情表現である筈のセックスを、日常の仕事にしているという事だ。私達は、代価さえ受け取れば、誰でも受け入れる。誰にでも抱かれる。誰とでも寝る。そんな娼婦が好意を示そうとした場合、一体どうすればいいのだろう。

 普通の女なら、抱いてもいいと言うことは、相当な愛情表現と言える。けれど、私の場合、それは日常的にしている事だ。私はアルフレッドの事が好きだ。けれど、好きを表現する手段がない。とうの昔に、自分で捨ててしまった。

「……アル」

「なんですか?」

「好き」

「はい、ぼくも好きですよ」

 腹を括って告白しても、ご覧の有様になってしまったら、これ以上、どんな事をすればいいのか、私には本当にわからなかった。



 アルフレッドは絵を描く。

 私はそのモデルをする。

 絵は少しずつ完成に近づいていく。アルフレッドの絵は裸婦画であり、そこに描かれているのは肉感的な娼婦である。だが、彼はそれに魂を吹き込むことによって、神々しさを覚える芸術に昇華していた。

 素人である私から見て、殆ど完成と思えても、彼は筆を運び続けた。まだ、描ける。描き込める。納得の行く線が完成するまで、そのギリギリでアルフレッドは戦う。それは永遠に続くと思えたし、私は永遠に続いても良かった。

 だが、ある日、それは唐突に終わりを告げた。

「完成しました」と、静かに彼は言った。

 ベッドから降りて、キャンバスを覗いてみると、私は息を飲んだ。確かに、それは完成していた。本来の私とはかけ離れた、美の結晶がキャンバスの中に封じ込められていた。

「久しぶりに、これはいいと思う物が描けました。フレイヤさんのお陰です」アルフレッドは私の手を握る。

「いや、私は」と口ごもった。好きな人に手を握られて、私は顔を真っ赤になった。そんな私に彼は「フレイヤさんて、やっぱり可愛いですね」と言う。私はもっと真っ赤になる。

「からかわうな」と私は首を振る。

「からかってなんかいませんよ」とアルフレッドは私を押し倒した。動揺の声を上げると「今はもう、ぼくのモデルじゃないですから、あの時のご厚意をいただきます」と言って、顔を近づけてくる。

「き、キスは駄目」と私は自分の顔を隠す。見えないがアルフレッドは落胆している様子だった。だが、口は駄目だ。中には私が化け物である事の証明となる、触手が収まっている。

「か、代わりに他なら、なにをしてもいい」

「何でもですか?」

「う、うん」

「じゃあ、ぼくの恋人になってくれますか?」

 諦めていた私の思いは、思ってもみない形で報われる事になる。

 真っ赤にしながら、私は顔を隠したまま頷いた。



 その時、私は世界一の幸せ者だった。間違いなく果報者だ。化け物の分際で、優しくて素敵な恋人を手に入れたのだから。

「ぼくに家に来ないですか?」と彼は言った。

 私は少し迷いながらも頷いた。ねぐらを引き払って、彼の家に行く。アルフレッドの家は、裏町の一角にあった。多種多様な人間が集う、アパートメント、その一室に私は転がり込んだ。

 そこで彼と、人として暮らした。

「古くて汚い貧乏アパートだけど、暮らしてみると住んでいる人は親切だし、なかなかいいものですよ。住めば都とはよく言ったものです」

「そうなのか」

「はい。フレイヤさんもきっと気に入りますよ」

 実際、私はすぐに気に入った。ここの住人は変わっているが、楽しい人達ばかりだったからだ。大家は、エンブレータという某国から亡命してきたという女傑で気位は高いが、世話好きのお婆ちゃんだった。隣に住んでいるディエーゴという蜥蜴顔の金貸しは、見た目は怖いが親切だ。目付きの鋭い仲買人のセバスチャンは、少し注意が必要だが、その同居人であるメイドのシクロとは、すぐに友人になれた。

 そうした人達に囲まれて、私はアルフレッドと暮らした。朝起きて、彼に為に食事を作り、部屋を掃除し、シクロと一緒に買い物に出て、色々と女同士のお喋りをし、家で彼の帰りを待ち、アルフレッドを出迎える。

 アルフレッドは、私に人間らしい生き方を教えてくれた。

 私は幸せになった。けれど、私は幸せという事に慣れていなかった。人間らしい生き方をしても、どこかぎこちなかった。けどそれは当たり前なのかもしれない。

 どんなに人間らしく生きようとしても、結局、私は化け物で、アルフレッドは普通の人間だ。この幸せな生活は、私にとって、あまりにも不自然すぎた。

 だから幸福な生活を送りながらも、不協和音は少しずつ大きくなっていた。



「フレイヤさん、まだ駄目なんですか」

 悲しい顔でアルフレッドがこちらを見る。私は申し訳ないという顔をして、首を振る。一緒に生活を初めて半年も経ったけれど、私は唇を許していない。

 それが、アルフレッドは悲しいらしい。

「貴方が仕事でも、口を使う事は絶対にしない。そういう話は聞いています。それは別に珍しい事ではない。娼婦の人達にはそういう人は少なくない。けれど、ぼくは貴方の恋人で、特別な人間であると思う。だから、どうか心を開いて、ぼくに全てを許して欲しい」

 そういう問題ではないのだけれど、彼は私の事情を知らず、必死に懇願する。

 私は、口を許すという事は化け物である事を開かす事だ。そんな事はできないので、私は黙って首を振る。

「ぼくは貴方の事を理解しているつもりです。未だに娼婦を続けている事も、ぼくは批判したりしない。それが貴方の生き方なのだと、納得しているつもりです。貴方が別の男に抱かれていても、その心はぼくの物だと信じている。けど、時々不安になります。本当にぼくは貴方の特別なのかと。ぼくだけは特別なのだと信じたいんだ……」

 悲しい顔をして、アルフレッドは訴える。けれど、私にはその願いを聞き届ける事はできない。

 不協和音は私の口だけではない、娼婦としての仕事も私達の関係に影を落としている。

 アルフレッドと恋人になってからも、私は街角に立っている。

 自分の身体を提供する代わり、客から脳みそを吸い取っている。罪悪感を覚えるが、それ以外、私に生きて行く術はない。純血の脳みそ喰らい――遺伝子上の父親のように、暗やみに潜んで人を襲って脳みそを吸い取るなんておぞましい生き方、私にはとてもできない。だから、今までのように街角に立ち、私の身体と引き替えに、客から脳みそを頂く。

 けれど、アルフレッドはそれが嫌なのだろう。「二人で暮らしていくぐらいなら、フレイヤさんが仕事をしなくても余裕なんですよ」とぽつりと漏らした事がある。自分は娼婦の仕事に理解があると言っているが、本心では私に仕事を止めて欲しいようだ。

 アルフレッドの絵はよく売れている。特に最近は、かなり羽振りが良くなった。

 前々から裏町の娼館や酒場などで買い上げられていたが、最近は高名な画商の目に留まって、大いに評価されっているからだ。それによって、以前と比べて収入は随分に良くなっている。

 友人のシクロに相談をしてみると「それは当たり前だよ」と言われてしまった。「恋愛感情は独占欲に起因しているからね。好きな子は独り占めにしたいものなのよ」

「当たり前なのか」

「逆に考えてみなさいな。もしもアルが他の子とそういう事をしていたら、貴方も嫌な気持ちになるでしょう?」

 シクロに言われて考えてみたが、どうにもピンと来なかった。そもそも私には、そういう事を想像する為の、人間としての経験が不足している。見た目は十代半ばだけれど、実年齢は二歳半だ。脳みそ喰らいであるから、他人の知識を我が物して、ある程度の知性は獲得しているけれど、人格や経験はまだまだ未熟だ。

 首を捻る私を見て、白黒のメイドは「本当にフレイヤは仕方がないのねぇ」と呆れたように笑った。

 けれど、仕方がないで澄ますべきではなかった。シクロの心配は正鵠を得ていたからだ。私はもっと真剣に考えるべきだった。



「行ってきます」と言って、アルフレッドは絵を描くために家を出る。

 最近は実入りが良くなったと言っても、仕事が変わるわけではない。今まで通り、彼は娼婦の裸婦画を描く。

 モデルとなる娼婦を見つけて、作業用の部屋を借り、作品を完成させるまで通い詰める。今、アルフレッドが描いているのはミラという名前の娼婦だ。勝ち気な鉄火肌で有名な、とびっきり美人の娼婦であるという。

「久しぶりに傑作が描けそうですよ」とアルフレッドは意気込んでいる。ミラは彼の創作意欲をかき立てる何かを持っているようだ。

 私は素直に祝福する。

 彼は、絵に全てを捧げている。そんな彼のモチベーションが上がっているなら、こんなに素晴らしい事はない。いま、彼が取り組んでいるのはかなりの大作であるらしい。いつもなら仕上がる時期が来ても、完成する気配がない。

「大物なんです」と彼は言う。

「うん。頑張れ」と私は励ます。

 私が絵描きの彼に、してあげられる事はあまり多くない。家に帰ってきた彼を労る事と、仕事に向かう彼に対し、美味しいお弁当を作るぐらいだ。絵の素養がない私には、これぐらいの協力しかできない。

 アルフレッドを送り出して、私は洗濯でもしようと腕まくりをする。

「……あれ?」

 玄関に見慣れた物が置いてあった。白いナプキンに包まれた弁当箱、アルフレッドはお弁当を忘れてしまったようだ。

「仕方がないな……」

 これでは、彼は昼飯抜きになってしまう。私は取る物も取り敢えず、彼の仕事場に向かった。

 アルフレッドのアトリエは、木造六階建ての安いアパートメントだ。一週間ごとに家賃を払う、最低賃金で働く労働者達が借りる部屋。そこを一時的なアトリエとして使っている。軋む階段を上りながら、私は彼の仕事場に向かう。そういえば、仕事中のアルフレッドを見るのは久しぶりだと考えながら――あの時の私のように、ミラという娼婦は怒られているのだろう。

「……こっちか」

 薄暗い廊下。そこを進むと、半開きになったドアがある。きっと、そこがアルフレッドの借りた部屋だ。私はそこへ向かう。お弁当の中身はサンドウィッチだから、モデルの人もつまめるだろう。もし休憩時間中なら、少し話でもできないだろうか。

「……アルフレッドぉ」薄暗がりの向こうから、甘い声が聞こえてきた。

 私は足を止める。

 耳を澄ますと息遣いや衣擦れや、粘つく水音が聞こえてくる。仕事中によく聞く音だから、すぐに分かった。これは男女の交わりと音だ。

 私は踵を浮かす。木造の老朽化した薄暗い廊下を静かに歩く。濡れ場の音は少しずつ大きくなっていく。時折、甘えるような女の声がする。男の声はしない。代わりに息遣いだけが聞こえてくる。突き当たりの部屋は、半分ドアが開いていた。覗く。ドアの向こうでは、アルフレッドと知らない女が激しく口を合わせながら、溶け合うように交わっている。

 しばらく、それを眺めていた。

 なにが起こっているのか認識できなかった。そこで起こっている事をありのまま、受け入れる事ができなかった。呆然と、その場に立ち尽くしていた。

「すごい、こんなにしてくれてうれしい……っ」

 女が激しく嬌声を上げる。

 それで我に返った私は、逃げるようにその場から離れた。



 アルフレッドが帰ってきたのは、夜遅くだった。彼は静かにドアを開けて、真っ暗になった部屋に入る。手探りで、電灯のスイッチを探して、それを付ける。

「……フレイヤさん」

「おかえりなさい」

 私は椅子に座って、彼が帰ってくるのを待っていた。電灯の下で見る彼の顔は、いくぶんやつれていた。

「どうしたんですか。暗い中で」

「不自由ないから」

 脳みそ喰らいという生き物は、闇に潜んで人間を補食する生き物だ。だから、夜目が利く。星の出ていない夜ですら、私にとっては昼間と変わりない。

「そう、なんですか」

「アル、ごめんなさい」

「え、な、なんですか」

「私が至らないから、貴方はミラという娼婦にのめり込んでいた。私が唇を許さないから、貴方は彼女の身体に溺れていた」

 私は、彼がお弁当を忘れたので、アトリエへ届けに行った事と、そこで見たものを全て話した。

 アルフレッドは真っ青になっている。

 言葉を失ってしまっている。

 目は完全に泳いでいる。

 立ち尽くしている。

 彼は今、焦燥感や罪悪感でいっぱいだ。それはきっと辛い事だろう。

「ごめんさない」と私は心から謝罪する。

 こんな事になってしまったのは、全て私が悪いからだ。

「や、やめてください!」とアルフレッドが声を上げた。「違いますよ。全部ぼくがいけないんです! 単純にぼくは浮気をしてしまっただけです。貴方が謝る事なんてないんですよ!」

 アルフレッドは必死に私を庇ってくれた。

 やはり、この人はとても優しい人だ。

 何もかも私が悪いのに、自分が悪いと言い立てる。

「違う。私が悪いんだ。私はアルのことを信じていなかった。貴方は私の全てが欲しいと言っているのに、私は隠し続けた」

「か、隠し……? なにを隠していたって言うんです?」

 戸惑ったアルフレッドが私に尋ねる。

「私は、貴方に化け物である事をひた隠しにしていた」

「……ば、化け物?」

 アルフレッドは呆気に取られたという顔をした。

 私は、そんな彼に頷いてみせる。

 私の手は、酷く震えている。怖いのだ。全てを晒すのが怖くて仕方がないのだ。けど、信じると決めた。私は勇気を振り絞って――


 ――触手を出すために口を開いた。


 頬からのど元まで切れ目が入って、私の口は大きく裂ける。

 ワニが大口を開けるように、喉まで裂けた私の口から、身体の中に収納されている『舌』が大蛇の如く這い出てくる。

 伸びた舌の尖端には鋭い歯がある。それは頭蓋骨に穿孔する為の鋭い牙で、その舌からは、小さく細い触手が何本も伸びている。それは脳みそを吸い取る為の、ストローの役目をする。

 人の身体と、触手の舌。

 これが脳みそ喰らいとしての私だ。

 私は勇気を振り絞って、怪物の本性を最愛の人に晒した。

「アル、これが私だ。この姿を、私はずっと貴方に隠していた」

 肩の荷が下りたような気分だった。

 どうして最初に告白されたとき、こうしておかなかったのだろう。これでもう、私はアルフレッドに何の隠し事もしていない。何一つ、後ろめたいことはない。

 私は、清々しい気持ちでアルフレッドを見つめる。


 彼の顔は恐怖に歪んでいた。


「く、くるなあああああっ!!」

 彼はそう絶叫すると、逃げようとしてその場に倒れ込んだ。どうやら、彼は腰を抜かしているようだった。あれでは、まともに歩くことはできない。

「アル?」

 私はアルフレッドに手を差し伸べた。彼は引きつった顔のまま「く、来るなよ化け物が!」と叫んで、持っていたかばんで私を殴った。留め金が外れて、絵描きの道具がそこら中に散乱する。

「やめて。貴方が道具を粗末にするなんて」

「ああああああ、た、助け――」

 ああ、これ以上、騒がれると不味いなと本能的に理解した。そう判断した瞬間、私の舌は彼の脊髄に牙を差している。一時的な運動中枢の麻痺。それによって、アルフレッドはたちまち倒れ伏す。

 私の客達と同じように、麻痺して身体を痙攣させている。

 酷い事をしたという気持ちが沸き上がり、続いて私は受け入れて貰えなかったという事実に気が付く。麻痺したアルフレッドは、恐怖に染まった目で私を見上げている。それは、いつも私を見る目とは違う。化け物を見る目だった。

「アルフレッド……」

 全部壊れてしまった。

 アルフレッドなら受け入れてくれると思っていた。彼なら全てを打ち明けても受け入れてくれると思った。

 だが、現実は違った。アルフレッドは、化け物の本性を露わにした私を見て、恐慌状態に陥った。彼にとって、私はもう恋人ではない。おぞましい化け物だ。

 私は、取り返しの付かない事をしてしまった。

「違う。アル、私は化け物だけど、貴方の事が好きって事は変わらなくて……」

 泣きじゃくりながら、私は弁明を繰り返す。だが、アルフレッドは恐怖の目で私を見上げてくるだけだ。もう取り返しが付かない。

 起こった悲劇を無かった事にはできない……



「……いや、できる」

 私にはそれができる。

 涙を拭って、地面の転がるアルフレッドを観察する。対象は十五歳の絵描きで、中程度の頭部を有している。脳の容量はおよそ一千五百グラムで、特筆すべき疾患は抱えていない。とても健やかな成人男性だ。

「……これなら、大丈夫。アルなら耐えられる」

 私は脳みそ喰らいだ。

 人間の脳漿を吸い取る事によって、特定の記憶や経験を奪う事のできる化け物だ。今のアルフレッドは、私の正体を知って怯えているが、それに関する部位を全て吸い取ってしまったなら、彼は再び私を愛してくれるに違いない。

「大丈夫だ。痛くない。目を閉じていれば怖い事もない。あっという間に終わってしまう」

 私は、恋人の頭部に舌を突き刺した。

「あっ、あっ、あっ」とアルフレッドが痙攣しつつ声を上げる。そんな彼を優しく抱きながら、私は今日に関する記憶が収まっている部分を舐め上げ、吸い上げた。

 アルフレッドの脳は、とても甘かった。たとえようもないほど甘美な味が口の中に広がる。他の男達の脳など比較にならないほど美味しい。

「好きな人の脳ってこんなに美味しかったのか……」不意打ちのような美味に恍惚となりながらも、私は慎重に脳を吸う。アルフレッドが私を好きでいてくれる部分を、吸い取らないように注意しながら――

『フレイヤさんは、ぼくを受け入れてくれない』

 心臓が跳ね上がった。

 今のはアルフレッドの記憶だ。今日の帰宅寸前に、彼はそんなことを考えていた。私は目を開けて、アルフレッドを見ると、白目を開けて涎を流しながら痙攣している。

「けど、アルも私を受け入れてくれなかった」と咄嗟に反論するが、彼は答えられない。代わりに私は、他の記憶を吸い取る。

『今日もフレイヤさんを裏切ってしまった』

『どうして娼婦を止めてくれないのか。ぼくの事は頼りないのだろうか』

『たまに嫉妬で気が狂いそうになる』

『どうしてあんな人を好きになってしまったんだろう』

 私の中にアルフレッドの気持ちが流れ込んでくる。彼の私に対する感情や思い、愛憎入り交じった思いに目眩がした。

 彼の記憶を我が物とした事で、私はアルフレッドを心から理解する。

 私はずっとアルフレッドを傷つけていた。私が幸せである背後で、彼は涙を流していた。それを慰めたのはミラだ。

『ミラさんに慰められた』とアルフレッドの記憶は語る。私によって傷ついたアルフレッドは、鉄火肌の娼婦ミラによって癒やされていた。

 それは常態化していた。絵はずっと前に完成していた。だが、私に傷つけられたアルフレッドは慰めを求めて、ミラのもとへ通っていた。彼女は、それに応え続けた。

「……私は、ずっとアルを傷つけていたのか」

 ずっと彼に酷い事をしていた。アルフレッドが欲しがる物を与えず、嫌がる事ばかりしていた。彼の為に口を使う事なく、客に抱かれ続けた。その一方で、自分は献身的だと考えていた。やっていることは家政婦の真似事と、客にしている事と何も変わりはしないのに――

 それでもアルフレッドは私を愛していた。いや、私の事が好きだからこそ、様々な事に苦しんでいたのだろう。シクロが言っていた、強い愛は強い独占欲を生じさせる。

 この人は、それほどに私を愛してくれた。

 けど、なぜだろうか。

 どうして、この人はそこまで私を好きになってくれたのだろうか。

 娼婦描きのアルフレッド。

 彼の立場なら、相手は幾らでも居たはずだ。それこそ娼婦に限らず、酒場のウェイトレスや女商人、あるいは路上演奏家まで相手は幾らでも居るはずだ。その記憶を探ってみると、一つのたわいもない出来事が見つかった。


 それは絵のモデルとなって、初めての休憩時間の事だ。

 アルフレッドに紅茶を淹れてもらった。トレイに乗った熱い紅茶を私は手で受け止める。その時に、私は「熱っ」と悲鳴を上げた。その時の仕草を見て、アルフレッドは私を可愛いと思った。


 それだけだった。

 それで彼は私の事が好きになった。そんな些細な切っ掛けで彼は私を好きになっていた。たわいもない、取るに足らない出来事から、私達はこんなにも苦しんでいる。

「――けど、幸せだった」

 私は自分に関わる記憶を全て、アルフレッドから吸い尽くす。これでもう、アルフレッドが私で苦しむ事はない。

 最初はやり直せると思った。

 けれど、彼の記憶に触れいくにつれて、少し取り繕ったところで、すぐに壊れる事が分かってしまった。彼は私という存在で苦しんでいるが、私という化け物の全てを受け入れられるほど強くはない。

 だから、私に関する記憶を全て吸った。そうすることで、アルフレッドは私という苦しみから解放される。もう、彼は私の事で思い悩むことはない。きっと、ミラという娼婦と幸せになれるだろう。

 全ての処置を終えて、気を失ったアルフレッドに、私はキスをする。

 それが私のファーストキスとなった。




 私は以前のように娼婦として街頭に立つ。身体を餌にして男を誘い、食事をさせて貰いながら、生きている。たまに客に酷い目に遭わされたり、逆に酷い目に遭わせたりして、娼婦としての平凡な日常を送っている。

 そんな日々を送っていたある日、一人の少年が近寄ってきた。

「ちょっといいですか。ぼく、アルフレッドと言います」

「私は子どもの相手はしないと決めている」

「いえ、そういうのではなくてモデルを……」

「二度は言わない。消え失せろ」

 本気で睨み付けてやると、アルフレッドは吃驚した顔をして逃げ出した。相変わらず、胆力はあまりないらしい。逃げた先には、少し年上の女性がいた。紺のワンピースに萌葱色のスカーフを巻いている綺麗な女性だ。アルフレッドは、彼女に抱きついた。きっと慰めて貰っているのだろう。顔を確認してみると、鉄火肌のミラだった。地味な服装をしている事は、きっと娼婦を止めたのだろう。

 二人は、とても幸せそうだった。

 私は河岸を変える事にした。この辺りなら、彼とも遭遇する事はないと思っていたが、やはり娼婦描きにとっては裏町全体が庭のような物なのだろう。いっそのこと、別の街にでも行った方がいいのかもしれない。

 ふと、頬につめたい物を感じる。

 空を見上げると、にわかに曇り始めた。ぽつぽつと雨が降り始める。通行人はにわかにざわめき、外で売り歩いていた商人達は、さっさと引き上げの準備を始める。しばらく空を見上げていると、一気に雨脚が強くなった。

 雨に打たれながら、私は小さな声で呟く。

「私なんて死ねばいいのに」

 化け物が、幸せを望む事が分不相応だ。

 いつか、正しい心を持った正義の味方が、邪悪な脳みそ喰らいを殺しに来てくれないだろうか。

 そんな事を夢想しながら、私は雨の中を歩いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。