王女と騎士のその後
柔らかな朝日の光が窓辺から入り、微睡みの中にいるアレクシアに降り注ぐ。
小鳥たちの囀りが耳に届く中、アレクシアは天蓋の向こうへ視線を向けた。陽の光に慣れぬ目が眩しさを訴える。
「起きたのか。」
頭上から響く低い声が、アレクシアの耳介を擽った。
それと同時に、寝台に広がる長い髪を一房掬われるような感覚が走る。彼の手に梳かれる髪は、さらさらと再び寝台に落ちた。
そこで、ようやくアレクシアは自身の状態を悟る。
すっかり夢から覚めた目線の先には、人間離れした蝋人形のような美貌。その白磁の頬に、闇を凝縮したような黒髪がかかり、それがまた彼の神秘さを引き立たせる。
「……クラウド。」
「今日の執務は無しでいいそうです。ですが、王女殿下の婚約を国民に伝える日取りを決めなくてはなりません。」
アレクシアの意識が完全に覚醒するのを確認すると、クラウドはいつも通り、王女に付き従う騎士のものへと態度を改めた。
それにどこか寂しさを感じながらも、アレクシアは寝台から身体を起こす。
「わかったわ。下がって結構よ。」
その言葉に頭を下げて、クラウドはアレクシアの自室を後にする。
そもそも、王女であるアレクシアの部屋に、無断で騎士の身分の者が入ることなどもってのほかだ。しかし、クラウドにはそれが許可されていた。それも、女王直々に。
何故なら、クラウドはアレクシアの婚約者という枠にいたからだ。
ベルンハルトの元から連れ戻され、彼との婚約の話をうやむやにしたまま、クラウドと共にエストレージャ王国へと戻って来たアレクシア。
その数日後には、ベルンハルトから婚約破棄を提案され、アレクシアは戸惑いながらもそれを受け入れた。
それから間を空けず、アレクシアは姉である女王からクラウドへ降嫁の話を持ちかけられたのだ。勿論、クラウドに懸想していたアレクシアは、戸惑いながらもその提案に頷いた。
「……クラウドと婚約だなんて……夢じゃないのかしら。」
窓の外の景色に視線を移しながら、思わず自信の頬を抓る。
夢ではなかった。しっかりと抓った頬に痛みが走り、アレクシアは顔を歪めた。
流石のアレクシアも、未だ実感が湧かないでいたのだ。
「でも、あれからハルドとは話せていないのよね。」
婚約破棄の話も姉を通して伝えられたもの。
彼と直接会って話をしたのは、あの日だけだった。
何も言えないまま、置いてきてしまったのだ。流石のアレクシアも、少しの罪悪感が胸中を占める。
出来ることなら、彼とはもう一度話をしたいが、こちらも色々と忙しいため、彼のところに行ける時間が見つからないかもしれない。
しかし、その考えはすぐに杞憂に終わった。
「……え、舞踏会?」
「そうなのよ。ベルンハルト・オルコット卿から貴女宛てに招待状が来ているの。」
「ハルドから……」
昼過ぎのこと。姉に呼び出され、何事かと思って謁見の間に姿を現せば、隣国の舞踏会にアレクシアが招待されているらしい。その差出人は幼馴染であるベルンハルト。
「クラウドも同席してもいいと書かれていたけれど、彼は今無理でしょう?」
姉のその言葉にアレクシアは頷く。
そう、クラウドはあの後、遠征に出てしまっていて、少なくとも数週間は帰って来れないだろう。
そして、連絡手段が絶たれているため、このことを伝える術も無い。
クラウドは恋人となってから、必要以上にアレクシアに過保護に接するようになった。もしかすると、分りづらかっただけで、以前からだったのかもしれないが。
とにかく、アレクシアが自身の知らないところで、自身の知らない人間と関わることを酷く嫌がるのだ。
それを考えれば、彼に知らせる方が賢明なのだが、前にも言った通りその手段が無いため、仕方がなくアレクシアは彼に伝えることを諦めた。
◇ ◇ ◇
ところ変わり、ここはエストレージャ王国の真下に位置するジオンランド王国。
三日前に自国の城を出、既にアレクシアは隣国の城に着いていた。
舞踏会は夕方からであるため、それまでは城の客間を宛てがわれているのだ。故に、まだベルンハルトとの再会は果たしていない。
まぁ、彼が招待状を送ってきたのだから、舞踏会の会場では会えるだろう。
そう思っていたのだが―――。
「はい、どちら様ですか?」
不意に鳴ったノックの音に、アレクシアは首を傾げながらも扉を開けた。
瞬間、アレクシアは目を見開く。そこにいたのは、アレクシアを舞踏会に招いた本人、ベルンハルトが立っていた。
いきなりの登場に、アレクシアを目を見開いて固まる。
「ハルドじゃない。どうしたの?」
「どうしたの、なんて、幼馴染にかける言葉かい?あれから君には会っていなかったからね。気になっていたんだよ。例の彼とはどうなったのかなって。」
「クラウドとは、一応婚約中の身よ。」
「そうか。良かったじゃないか。僕もほっとしたよ。」
ベルンハルトは、アレクシアがクラウドに懸想していたことを昔から知っている唯一の人物だ。
彼の兄弟は弟たちばかりであるため、アレクシアのことは実の妹のように可愛がってくれていていた。
そんな彼が、クラウドを想うアレクシアに何か言いたげにしていたのは知っていたが、まさかこの想いを叶えようとしてくれていたとは思ってもいなかったが。
「ええ、ハルドには感謝しているわ。ありがとう。」
「お礼なんていらないよ。僕は君が幸せそうに笑っていることを望んでいるんだから。でも、彼の姿はまだ見てないね。彼は来ているのかい?」
アレクシアはベルンハルトの言葉に、首を横に振る。
不思議そうな彼に苦笑を漏らして、事情を説明した。クラウドの本職は騎士業務なのだ。パーティの出席などといった社交は王女である自分だけでいい。アレクシアはそう考えていた。
「そう。彼が来られないのは残念だけど、それじゃあ仕方がないな。なら、せめて君だけでも楽しんでいってくれ。じゃあ、夕方にはまた迎えに来るよ。」
そう言って、部屋を出て行くベルンハルトを見送って、アレクシアは舞踏会のドレスを見繕うことにした。
窓から漏れる光は既に茜色に変化しており、舞踏会の時刻がすぐそこにまで迫っている。
その頃にはもうアレクシアの準備もほとんど整っていた。
アレクシアの白い肌や銀髪が映えるようなロイヤルブルーのプリンセスラインのドレス。
いつもは下ろしている長い髪も、今夜は高いところで纏め上げられているおり、白いうなじが露わになっている。
いつもの清楚な美しさを持つアレクシアは身を潜め、今夜のアレクシアからはミステリアスな妖艶さが漂う。
この格好はベルンハルトの見立てだった。流石は幼い頃から懇意にしている幼馴染。彼はアレクシアの魅力の引き出し方を十分に知っていた。
不意にアレクシアが待機する客室の扉が鳴る。
アレクシアが返事をする間もなく扉は開き、扉の向こうからベルンハルトが顔を覗かせた。
「うん、よく似合っているよ。綺麗だ。」
「ありがとう。でも、これはハルドの見立てよ。」
「素材が良いから、衣装も映えるんだよ。もったいないな。折角なら、彼にも見てもらえば良かったのに。……彼には舞踏会のことを伝えてきたんだろう?」
ベルンハルトのその言葉に、アレクシアは口を噤む。
そんなアレクシアの思いもよらぬ様子に、ベルンハルトも固まった。
「まさか、言ってこなかったの?」
「……仕方ないでしょう。クラウドは遠征中ですぐに連絡なんて取れないもの。」
完全に連絡手段が絶たれたわけではない。その気になれば、連絡は取れる。
しかし、重要なのはただ連絡を取るのに、数週間という時間を要するということだ。
そんな時間を掛けてまで伝えるようなものでもないだろう。そう判断したアレクシアは、姉王に一言だけ告げて、さっさと馬車に乗り込んで来たのだった。
どうせクラウドが帰国するのは数週間後。そして自身が帰国するのは二日後。
どちらにせよ、クラウドはこの舞踏会のことを知らないまま終わるのだ。
今回の舞踏会はクラウドも誘われていたため、姉王やベルンハルトからも口煩く言われているが、王女であるアレクシアはよく舞踏会に参加している。
今更、わざわざ報告することだろうか。
「君がこれじゃあ、彼は苦労するだろうな。」
小さく溜息を吐きながら、ベルンハルトは苦笑を零した。
そんな彼に、アレクシアは眉を顰める。
「どういうこと?」
「ふふ、いずれ分かるよ。さあ、行こうか。」
アレクシアは未だ眉を顰めながらも、出された手を取り、部屋を後にした。
舞踏会場である大広間はこの階から二つ下りた階にある。ここから会場は吹き抜けであるため、手摺の向こうを見れば、客はそろそろ大広間に集まりつつあった。
流石は王室主催の舞踏会。招かれた客たちの中には、他国の王子や姫君も多く出席しているようだ。
「彼がいないのであれば、今夜の君のエスコート役は僕だからね。あまり、僕から離れないでいてくれるとありがたいな。」
「それは勿論よ。」
非公開とはいえ、アレクシアにはクラウドという婚約者がいる。
そのような身で、同伴者がいなければ、他国との婚約が持ちかけられてしまうのだ。それも、困ってしまうほどの量が。
一度体験したあれは中々忘れられない。
仮面舞踏会だと思っていたのが違うのであれば、尚更。
直角にカーブした大階段を下り、大広間に足を踏み入れれば、給仕の者からシャンパンを手渡される。
シャンパンを片手に、ベルンハルトはアレクシアを壁の方へ誘導した。
ゆっくりとシャンパンを煽りながら、窓の外の夜景に視線をやる。
壁の花と化しているアレクシアに、貴族や王族の子息がちらちらと視線を向けるが、その横に立つオルコット公爵家の子息の姿を見て、諦めた表情をして遠ざかっていく。
流石はジオンランド王国の有力貴族というべきか。
その影響力は並みではない。
「アレクシア王女、一曲お相手願えますか?」
先程まで流れていた一曲目が終わり、中央に立つメンバーが入れ替わるタイミングで、ベルンハルトがアレクシアの前に膝を付き、手を差し出した。
そんなベルンハルトに苦笑を零して、アレクシアはその手を取った。
ベルンハルトに導かれるままに、ダンスホールの中央に躍り出たアレクシアの腰に彼の手が添えられる。
そうして大広間に響くワルツに合わせて足を動かした。
「こうやって君と踊るのは久しぶりだな。ふふ、上手くなったね。」
「いつのことを持ち出してるのよ。それは、わたしが社交界デビューした頃の話でしょう?」
確かに、社交界デビュー当時のアレクシアのダンスは拙いものだった。
それもそのはずだ。アレクシアのステップは、舞踏会の数週間前という短期間で仕込まれたものだったのだから。
そして、その最初の相手が幼馴染であるベルンハルトだったのだ。あのときは彼のリードが上手かったため、何とか事無きを得たのだが、あのときほど冷や冷やしたことはない。
「ああ、あんなに小さかった君が、僕よりも早く伴侶を見つけてしまうなんてね。何だか、娘を嫁にやる父親のような気持ちだよ。」
「何を言ってるの。わたしと三歳しか変わらないのに。」
「それも竜の青年か。……竜は、一途な生き物だって言うからね。君が黙って舞踏会に来て、怒り狂わないといいけれど。」
「?」
後半の言葉が聞き取れず、アレクシアが首を傾げるが、そんなアレクシアにベルンハルトは誤魔化すように笑みを向けた。
それと同時に曲が終わり、二人は足を止め、ダンスホールから抜ける。
そのときだった。背後から声を掛けられたのは。
「オルコット卿、そろそろ彼女を返して頂いても?」
聞き慣れた声に、アレクシアは背を向けたまま目を見開く。
この声は彼のものだ。しかし、彼がここにいるはずがない。そう思いながらも振り向いた。
「……クラウド。どうして、貴方がここに。」
「………………」
「こらこら。何か言ってあげたらどうだい?」
「貴方が彼女を離してくだされば、いくらでも。」
アレクシアの言葉には沈黙を貫くクラウドに、ベルンハルトはやれやれと肩を竦めた。
やはり彼ならば、どこからか嗅ぎつけてやって来ると思っていた。
予想が外れなかったことにも、ベルンハルトは溜息を零す。
「この子は君を蔑ろにしたわけではないのだから、そう不機嫌にならなくてもいいんじゃないかな?」
目に見えて険しい表情をしているクラウドに、ベルンハルトはそう言うが、既に彼の視線はアレクシアで固定されている。
その獰猛な獣のように鋭利な視線はアレクシアから外されることはない。
「わかっている。だが、これは竜の習性だ。俺自身にはどうしようもない。」
不意に崩れたクラウドの態度に驚く暇もなく、アレクシアはベルンハルトの腕から掻っ攫われ、クラウドに抱きかかえられた。
驚いたアレクシアが藻掻くが、見た目以上に筋肉質なその腕はびくともしない。
腕の中のアレクシアに一瞬目を向け、クラウドはベルンハルトに一礼してその場を去った。
◇ ◇ ◇
月明かりだけが頼りの薄暗い回廊を進み、とある部屋に入ると、クラウドは後ろ手で鍵を閉め、そのまま寝台へとアレクシアを放り投げた。
ぽすっと軽い音を立てて、アレクシアは小さな呻きと共に布団に埋まる。
未だにアレクシアは現状が理解出来ていないようだ。
そんなアレクシアの上に馬乗りになって、彼女を見下ろす。
顔を上げ、呆然とクラウドを見上げるが、その貌からは何の感情も伺い知れない。
これまで何年も傍にいたが、こんなクラウドは初めてで、どうすればいいのかわからないアレクシアは固まったまま、少し遠慮がちにクラウドを見つめた。
背筋が凍るほどの沈黙は未だ破られることはない。心なしか、空気が薄いようにも感じる。
「………して……」
「え?」
不意に沈黙を破ったクラウドの声。しかし、その声はかろうじて聞き取れたくらいで、何を言っているかまでは聞き取ることが出来ず、アレクシアは聞き返すように声を漏らした。
「……どうして俺に何も言わずに、男が集まることがわかっている舞踏会に黙って来たんだ。」
「それは……だって貴方、遠征中だったじゃない。そんな簡単に知らせることなんて出来ないわ。」
「だったら、来なければいい話だろう。―――伴侶の雄竜を差し置いて、他の男と踊るダンスは楽しかったか?」
クラウドのその言葉に息を呑む。
一体、どの場面から見られていたのだろうか。
驚いているアレクシアに、クラウドは残忍さを匂わせるかのように口元を歪めた。
「竜の習性を忘れた、とは言わせない。俺は貴女に執着して、強烈な独占欲も感じている。ずっと他の男の目に晒したくないと思っているのを、貴女は知っていたか?」
―――それでも、今まで王女として様々な面で努力してきたアレクシアの足を引っ張ってはいけない。
美しく、賢く、凛々しい王女であろうとする彼女を、己の感情のままに閉じ込めてはけない。
そう分かっていたからこそ、クラウドは強烈に感じる竜の本能を強靭な理性で押さえ込んできた。
今までは、ただ隣で見守って来たのだ。これからもそう在れる。そう思っていたのだが―――。
思っていたよりもずっと、自分の理性は緩かったようだ。
「オルコット卿の手を取る姿にどれだけ嫉妬したか……、貴女には分からないんだろうな。」
未だ黒髪の間から見える、銀色の瞳に宿る獰猛な光は消えない。
鋭く光る視線はアレクシアから逸らされることはなく、またアレクシアもクラウドから目を逸らせない。
「まったく、どうすれば貴女は大人しくしているのか。」
「わ、わたしは貴方に迷惑は掛けていないはずよ。それに、舞踏会はこれまでだって出ていたし……」
「だから、問題無いとでも?」
アレクシアの言葉に、更にクラウドの眼光が剣呑になる。
「既に貴女は俺の伴侶だ。竜なら伴侶が自分じゃない男に囲まれているだけで、そいつらを惨殺するには十分な理由だぞ。それをこの程度で抑えてやってるんだ。寧ろ、感謝してほしいんだがな。」
「それは……ごめんなさい。」
これ以上、言い訳という名の説明は止めておこう。
そう思ったアレクシアは、素直に謝罪の言葉を口にする。
アレクシアは竜というものをそこまで深刻に考えていなかった。確かにエリオットには言われていたが、それはアレクシアの想像の範囲で考えられていたのだ。
まさか、ここまで言われようとは思ってもみなかった。
「まぁ、人間の貴女にどれだけ竜の愛を説いても分からないだろう。ならば、その身を持って知ってもらうしかない。」
「え……」
「竜が伴侶に向ける深い愛も、強い執着も、凄まじい独占欲も、全部。貴女には知ってもらう。」
クラウドの手がアレクシアの頬を滑る。
そのまま首筋を伝い、うなじから後頭部を支えるように手を回して、唐突にクラウドは腕の中に捕らえた王女の首筋に吸い付いた。
あまりに突然のことに、アレクシアは目を見開いて、小さな息を漏らす。
「生憎、竜には人間でいう離縁などないからな。もう貴女は逃げられない。」
生涯、その一生を自分に捧げてもらう。生きるも死ぬも、ずっと共にあるのだ。
クラウドは自身が放ったその言葉に、銀色の瞳を輝かせる。
彼女がずっと己の傍にいる。それはらしくもなく、クラウドを恍惚とさせた。
そんなクラウドに気付いているのか、気付いていないのか、アレクシアが口を開く。
「……なぜ、わたしが逃げる前提で話が進んでいるの?」
「………………」
「最初にクラウドの傍にいることを望んだのは、わたし。先に貴方を好きになったのも、わたし。貴方の婚約が決まって、とても喜んだのもわたし。全部、わたしが先よ。」
どれだけ、彼と歩む未来を望んだだろう。
今のこの幸せは、あの頃からは想像も出来ないことだった。
「たとえ貴方がわたしに飽きても、ずっと付き纏ってやるわ。」
「飽きることなんてない。そんな日は来ない。」
「もしもの話よ。だから、わたしが貴方から離れるなんてありえないわ。」
アレクシアのその言葉に、クラウドはやっと鋭利な瞳をいつものものに戻した。
纏う雰囲気も剣呑なものから、温和なものに変わっている。
アレクシアの髪を撫でるその手付きも、愛おしむ慈愛に満ちたものだった。
今まで全然わからなかった彼の心が、手に取るようにわかる。そして、こちらの感情も彼に伝わっているのだろう。
「……アレクシア。」
クラウドの薄い唇が柔らかく弧を描く。
それは、この世で唯一人、己だけの花嫁に向けられたものだった。