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『ーーーどちら様……?』
首を傾げた彼女を、私は一生忘れることはないだろう。
***
ミリアとの結婚は、断れなかった故に成立した。
彼女を社交界デビューの時から知っている私はまるで妹と結婚するような気分だった。
そして私には想い人もいた。
叶わぬ恋であったが、私は彼女のことをずっと想っていた。
例え、自分の弟の恋人であっても。
ーーもちろん、弟のことも大切であったし、何よりシェリフが幸せそうであったから想いを告げようとは思わなかった。
あの日、彼女を抱き締めたのだけが思い出だ。
ミリアは可愛らしい女性だった。
無邪気な、明るい、妻。
彼女なら愛せるだろうと思ったが、やはり自分にとって庇護すべき大切な妹のように思っていたのは否めない。
目を閉じて彼女の柔らかい髪を触りながら私は最初恐らくシェリフへの想いを彼女に伝えていたけれど、
「ギル、おかえりなさい」
と彼女が笑って出迎えてくれる時、ふわりと暖かくなって、私はそれを幸せだと思った。綺麗な翠色の瞳が私に向けられる度、どんどん幸せになっていく気がした。
私にとって彼女が徐々に大切な妹から愛する妻へと変わっていったのだ。
けれど、私はそれに気づけなかった。
やはりどこかでシェリフのことが離れなかった。
幼馴染みでーー物心ついた時から好きだった女性をそう簡単に忘れることはできなかった。
その想いに囚われていたから私は気づけなかった。
自分の感情の変化も、ミリアの瞳がどんどん曇っていたことにも。
ある日仕事帰りに気紛れに街を訪ねた。
たまたま目をとめた先には、美しい、シェリフそっくりの女性がいた。
つい声をかけた。
彼女は没落した地主の娘で、援助を求めてなのか私の身分を聞くなり媚を売るような声を出した。
私は、それに乗った。
シェリフを抱いているような気分だった。
幸せだった。
ーー家に帰ってミリアの顔を見るまで。
眠そうな顔で私を待っていた彼女。
「ギル」と微笑む彼女。
罪悪感が一気に押し寄せた。
夜、酒を飲みながらその日のことを反芻して、私は吹っ切れた気がした。
シェリフへの気持ちに区切りが漸くつき、笑顔で自分を待っていてくれたミリアを大切にしようと思った。
数日後私はその女性の元へ赴き、彼女が求めていた援助金と共に別れと謝罪を伝えた。
「謝られる義理はないわ。私だって、誰でもよかったんだから」
女性は強がる訳でもなく、そう一蹴した。
彼女との関係は本当に一夜で終わり、以後彼女に会うことはなかった。
家に戻った時、
「ギルおかえりなさい!街は楽しかった?」
と笑う彼女を力いっぱい抱き締めた。
彼女がどんな顔をしていたかはわからない。
それからしばらくして、ミリアは少しおかしくなっていった。
「ミリア、ただいま」
「……」
「ミリア?」
「あぁ、ギル…おかえりなさい」
笑顔が減り、言葉も少なくなった。
ぼんやりと宙を見ることも増えた。
「ミリア、行ってくるよ」
「………」
その内、言葉を投げても半分程しか反応しなくなった。
だから、少なくなった彼女の
「ギル、おかえりなさい」
の笑顔と言葉を聞けた時は泣きたくなる位嬉しかった。
そして気づく。
私は彼女のことが好きなのだと。
もしかしたら、ずっと前から。
ただ自分が認めていなかっただけで。
「……ミリア、私は…君を、愛してるよ」
ある日の夜、月の光が特別明るかった夜、
私は彼女にようやくそれを告げることができた。
ーーすでに遅かった。
「ーーーどちら様……?」
彼女は心底不思議そうに首を傾げた。
さらりと色の薄い髪が溢れる。
可愛らしかったはずの彼女が、何か神秘的な美しさと共にそこに存在していた。
「ミリア、ミリア……っ」
彼女が私の名前を呼ぶことはなかった。
***
シアに言われて確認したミリアからの手紙。
それを読んだとき、私は後悔のあまり死ねると思った。
彼女は、自分が全て知っていること、
自分が死んだら遠慮なく彼女を後添いにしてほしいことを淡々と示していた。
「ミリア…っ」
ーー彼女はあの日どんな気持ちで私を出迎えたのか。
おかえりなさいと笑う彼女はどんな思いで……。
「ミリア、ミリア、すまなかった」
ぼんやりと焦点の合わない目のミリアを抱き締めた。
彼女が私に反応することはもうほとんどない。
髪を撫でる時だけ、彼女は私に対して反応をくれる。
それが嬉しかった。
ーーたとえそれが拒絶でも。
もう一度きつく抱き直して彼女の細い肩に頭を押し付けた。
彼女の柔らかな髪に手を回したところで彼女はすぐさま身をよじった。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……嫌だ…」
呪文のように囁かれる拒絶が、私はどうしても嬉しいのだから、狂っている。
「ミリア…愛してるんだ…愛してるんだよ」
彼女にそう告げても、彼女は私を見ない。
その事実がどうしようもなく胸を抉る。
もう彼女は私を呼んではくれないだろう。
明るい声で会話を交わすこともーー。
もう二度と聞けないであろう彼女のおかえりなさいという声が記憶の彼方で響いた。