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箱庭と鎖  作者: 神崎ゆう
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私が奥様付きのメイドに選ばれたのはつい先日のこと。

今日から、私はこの伯爵家に仕えることになった。


伯爵家の奥方はここ一年人前に姿を見せず、その謎にはいくつかの噂が常に付きまとっていた。


だからそこに好奇心がなかったといえば嘘になるが、

没落しかけの商家の娘を、せっかく引き取ってくださったのだから精一杯仕えようと一人ひっそりと気を引き締めていた。


「シア、ここがミリアの部屋だ」


「は、はい!」


美しいと評判の旦那様。

彼はひどく重々しい口調だった。


「……決して彼女に驚かないで欲しい。

そして彼女が窓に近づいたら止めて欲しい。

そして、彼女が何か君に伝えたことがあったら余すことなく私に伝えてほしい」


上手く、理解の追い付かない約束事だった。

私はひどく緊張した。

重々しい扉が開かれた。

扉の向こうには、ひどく虚ろな目をした美しい人がいた。

人が五六人は寝転がれそうな大きな天蓋つきのベッドの上で、

女性はこちらに不思議そうに薄い翠色の瞳を向けている。

簡単な寝巻きようの白いドレスが更に彼女の不思議な雰囲気を掻き立てていた。



「ミリア、こちらはシアと言ってね今日から君の世話をしてくれるんだ」


彼女はーーいや、ミリア様は旦那様に焦点を合わせることなく、ぼうっと私を見ていた。


「ミリア様、シアでございます。よろしくお願いします」


「ーーしあ?…貴女は……あぁ、違う方だわ…。ねぇ、お話ししましょう」


金髪に近い淡い茶色の髪がさらりと動いた。

旦那様はとても辛そうにミリア様を見ていた。


「ミリアをよろしく頼むよ」


「はい」


旦那様が静かに部屋から出ていく。

ミリア様はぼんやりとそれを見届け、やがて私へと視線を移した。


「シア、シア、お話ししましょう」


「……はい、はい、もちろんです」


何故だろう、ひどく悲しい思いが胸に溢れた。



後日、旦那様からご説明があった。

一年前、ミリア様は毒を飲み、精神が壊れてしまったと。


「元は体調を壊していく毒なのだけれどね…。

成分が少し違っていたようで…。

少しずつ壊れていって、ある日完全に壊れてしまった」


旦那様は何かをとても後悔しているように掌を強く握りしめていた。


旦那様曰く、

時々断片的には何か過去の事を思い出して口走るらしい。


「前はミリアは別の部屋に居たんだけど一度バルコニーから飛び降りようとしてね。

バルコニーのない部屋にしたんだ。

……そうまでして何故死にたいのかわからないんだ。

…そう、彼女は毒を飲む前日も笑って私に言ったんだ」


『おやすみなさい、ギル』


ミリア様は笑っていたと、彼は掠れた声で言った。

失礼します、と部屋の外に出た時、旦那様の僅かな嗚咽が聞こえたのは、きっと気のせいではないだろう。




このお屋敷に仕えて数ヵ月が経った。


「しあ、シア、シア。

……指輪を…指輪を置いてきちゃったの」


ミリア様がうわ言のように繰り返したのは本当に突然だった。


「指輪…ですか?」


指輪…?前のお部屋にあるのかしら。


「どこにございますか?」


「鏡台の中…そう一番上の……左の…。

そうよ…そう、パンドラの箱なの、そこは」


虚ろな表情で乾いたように笑うミリア様は、やはり悲しげに狂っているようだった。



ミリア様の前のお部屋の鏡台の、一番上の左の引き出しには小さな箱があった。

パカリと開けると

そこには壊された指輪と小さく畳まれた紙。

『ギル』とだけ側面に書かれている。

これはきっと旦那様への……。

そう思うと私は手紙の報告を後で旦那様にしようと思い、指輪だけをハンカチに包んでミリア様に届けた。


きっと、あの紙には旦那様が知りたかったことが書いてあるに違いない。

そしてそこには絶望が、あるのだろう。

だって、ミリア様は言ったのだ。

あれはパンドラの箱なのだと。




「ミリア様、ミリア様、指輪をお届けに参りました」


彼女はぼんやりとベッドの上で花をいじっていた。

小さな赤い花弁が白いシーツの上に散っていて、何かゾッとするほど美しかった。



「シア、シアそれはなに?」


彼女は指輪の話を丸きり覚えていないようだった。

なぜかひどく切なくなって、私は意地を張る子供のように「指輪ですよ、ミリア様の指輪です」と繰り返した。



ハンカチを広げてミリア様は指輪を天へと掲げた。


彼女が涙を流したのは刹那だった。

彼女の細い腕がダラリと項垂れるようにシーツへと落ちていった。

リング部分が曲がった指輪が花弁の下へと滑り込んだ。


「ミリア様……?」


「そう、そうなの、私が壊したのよ、これ。

彼がくれた、指輪。

でも意味がなかったから……。

そうよ、彼は私を愛していなかったから」


「ミリア、さま……?」


ミリア様の目は今だ焦点は合っていない。

真っ暗な瞳が、なんの感情も写すことなく涙だけを流している。



「ねぇ、私が知らないと思ったの?

知っていたわ、知っていたのよ。

貴方が、彼女を愛してたことも、彼女そっくりの女性と

過ごしていたことも、

私を愛してないこともーーねぇ、知っていたのよ」


ミリア様は突如叫んだ。

絶望を具現化したような、そんな声で。


「ミリア!!!!」


旦那様が飛び込んで来た。


「ミリア!!ミリア…っ!!落ち着いて」


「いやだ…嫌だ嫌だ嫌だ…!!嫌よ……」


錯乱するミリア様を旦那様は力一杯抱き締め、頭を撫でつけた。

ミリア様はその手に拒絶を明確に表した。


「ミリア…、私がわかる?」


懇願してるような声だった。

旦那様が真剣な顔をして、縋るような声でミリア様を見ていた。

私は、もう胸が張り裂けそうで。

ミリア様の想いも、旦那様の想いも。


「………だ、れ…?」


首を傾げるミリア様に、旦那様はいっそう顔を歪めた。


「私は…私はギルだよ、君の旦那だ」


「…………」


彼女は瞳からハラハラと涙を流しながら、もう彼の声に答えることはなかった。


「シア、泣いてるの?」


ミリア様は私のもとへ駆け寄った。

首を傾げる彼女は、もう正気ではない。


「ミリア様、ミリア様……いいえ、なんでもないのです…なにも…」


「でも、泣いてるわ?」


泣きじゃくる私をミリア様は優しく抱き締めてくれる。

その細い肩越しに見える旦那様は壊された指輪を握りしめていた。



「シア、シア、しあ?」


焦点の合わない目。

脈絡のない会話。

幼い口調。

感情のない顔。



彼女はきっと毒によって壊されたのではない。

多分、壊れてしまいたかったのだ。


愛して、愛されて。

その過程のお二人に何があったのかは断片的にしか解ることはできない。


けれど、

壊れてしまった彼女と、懺悔するように項垂れる彼。


自分を忘れた妻を確かに愛している旦那様。

忘れたはずの彼を、やはりどこかで求めている彼女。



お二人はきっと、想いあっているのに。



涙が止まらない私をミリア様が不思議そうに覗きこむ。

シーツに散らばった赤い花弁がひらりと落ちた。



彼女は壊れた今、起きながらにして、幸せな夢を見ているのだろうか。

そんなことを思った。







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