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私は彼が好きだった。
一度父が彼を家に連れて来たとき私は一目で彼に惹かれたのだ。
「はじめまして、ギルと呼んでください」
柔らかく微笑んだ彼、ギルバート。
私に愛称で呼ぶことを許してくれた彼。
端整な顔で、美しい黒い髪で、グレーとブルーを混ぜたような不思議な瞳で。
そんな素敵な四つ年上の彼は十六の私にどれ程魅力的に映ったか、言い表すことはできない。
「ミリア」と彼が私を呼べば私はすぐさま幸せな気分になれた。
父がそんな私を見ていたとも知らず、私は初恋というのを存分に楽しんでいた。
彼は伯爵だった。
十分な爵位だが、まだまだ歴史のない伯爵家だった。
私は公爵だった。
姉が王家に嫁いだことで、更に力を強めていた。
両家には圧倒的な力の差があった。
だから、彼は断れなかったのだ。
彼と出会ってから二年、十八となった私は彼との婚約が決定した。
恐らく妹のように可愛がっていた私との結婚。
彼はきっと困惑しただろうに、その力の差故に彼は断れなかった。
父はとても満足そうに私と彼の婚約を喜んでいた。
私はというと、とても舞い上がっていた。
初恋を実らせることができる。
二年の間、彼と交流するうちに彼の人柄、考え方、振舞い方、すべてになおいっそうの恋慕を募らせていたから。
だから、その翌年。
結婚パーティーの場で、彼が想い人と言葉を交わしているのを見た時。
私は冷や水をかけられたように途端に頭が冴えた。
冷静に考えて、あんなに素敵な彼が。
どうして恋の一つないと思えたのだろう。
そして私は気づく。
ーー私は一度だって彼に好きだと言われたことはないのだ、と。
「結婚おめでとう」
彼の目の前の美しい女性が嬉しそうに言った。
女性には見覚えがあった。
彼の弟の奥方、シェリフ様。
その美しさで社交界の花となっていたその方が彼の弟と結婚した時はそれなりの噂が飛び交ったものだ。
「幸せになってね」
本当に嬉しそうに笑う彼女に向ける彼の視線は痛々しいものだった。
絶望と悲しみと諦めと、そんな負の感情をいっぺんに混ぜたような。
そして、彼は自らの足で彼女との距離を詰めた。
彼は少し力を入れて彼女を抱き締めた。
彼は「ありがとう」と一言、震える声で告げると彼女に背を向け、再び華やかに飾られたホールへと戻っていった。
私も気付かれないようにそっとホールへと戻った。
「……ねぇ、ギル」
初夜。
私は彼の愛称をゆっくりと呼んだ。
「ミリア、幸せにするよ」
彼は笑ってくれたけど、その目は私なんて映していなかった。
そしてその夜、彼は初めて私に告げたのだ。
「愛してるよ」
彼は、月の光だけがぼんやりと照らすベッドの上で私の髪をーーシェリフ様と同じ色の髪を撫でながらそう言ったのだ。
「はい、私もです」
私は笑えていただろうか。
記憶が曖昧だ。
でも確かにわかったことは、
彼は私を愛していないこと、そしてこの先も彼女を愛するだろうということ。
届かなかった想いはきっと彼の中に永遠に存在し続ける。
「愛してる」と呟く彼はいつも目を閉じて私を胸に押し付けて頭を撫でた。
まるで彼女を思い出してるみたいだった。
私は彼に愛されることを諦めた。
それから二年の月日が流れた冬。
優しい彼と幸せに暮らしていたのに、あの日まで。
「ミリア、ただいま。遅くなってごめん」
「ううん、全然平気」
「でも眠そうだね。今日はまだ確認したい書類があるんだ、先に寝てて」
「…うん、わかった」
そう言って私を寝室へと促した彼に、私は何か嫌な予感がした。
眠れなくて、こっそりと彼の仕事部屋へ向かった。
ーーこの時大人しく寝室へ籠っていれば、何か違っただろうか。
「……こんな時間にあんな所へお出掛けになられたのは感心しませんね」
老執事の声だった。
いつもの柔らかな口調とは違い、どこか冷ややかな声音だった。
「……そっくりだったんだ…、彼女に…。
それで、誘われて……つい、わかってるのに」
嫌な、予感が、した。
「…シェリフと……錯覚できて……、幸せで…泣きたくなったよ…」
酔っている彼の声はひどく頼りなげだったのに、彼は幸せだったと言い切ったのだ。
恐らく、シェリフ様にそっくりな女性と夜を共に過ごせて。
数日後、彼は妙にそわそわとしていて、優しくて、あからさますぎて思わず笑えた。
私は出かける彼の跡をつけた。
彼は、町外れの洋館で馬車を降りた。
小さな家だが立派な館。
多分、没落した地主の館だろう。
中から出てきた女性はとても美しく、何からなにまでシェリフ様にそっくりだった。
彼が屋敷に入っていった瞬間、
私の中で何かが音をたてて崩れた。
***
「あぁ、これで終われる…」
数週間前までの回想が走馬灯のように流れたところで息をついた。
ふふ、と笑って手の中の小瓶を見た。
彼はここ最近家にいてひどく優しく声をかけるが、まさか私の行動に気づいたのだろうか。
いや、きっとそんな事ないわ。
優しい彼の事だ、きっと私をほったらかしにした事への罪悪感からだろう。
手の中の小瓶は毒だ。
すごく希少なもので手に入れるのに時間がかかってしまったが、これはまるで病気のように体を徐々に弱らせ死に至らしめるというから。
そうしたらきっと「妻が自殺」なんて言う醜聞もなく、彼はきっとあの女性を新たな奥方へと迎えられる。
「愛してる、ギル。幸せにね」
そう月夜に笑って、私は瓶の中身を飲み干した。
私が唯一愛した彼が幸せになれることを祈った。