結
後、再び竹助が日吉を訪ねた。
夏の終わりの、少し風の冷たい日だ。
夏の最中より天が高くなり、空気が澄んだ。
日暮れの空気を吸う。棒手振りの声が聞こえる。気にかけた事もないこの日常を、死を待つばかりの男はどう受け止めているのだろう。
日吉の体調はより一層悪化した。死ぬ人間に金をかけても仕方がないと、医者は呼ばなかった。
彼の妻は医者に縋ろうとしていたが、日吉は許さなかった。
いつの間にか、職人気質の頑固な男になった。
いてもいなくても変わらないと思っていた男が、いつの間にか着物のように身に馴染む存在になっていた。
竹助は生きにくい気質であった。その事を日吉は感じていたのだろうか。あの男は不快ではなかった。
竹助が手にした大荷物に日吉の妻は目を丸くして、すぐに奥に引っ込んだ。
少しあとに顔を出した。どうやら日吉に家を空けるように言われたらしかった。しかし相手は竹助である。日吉だけでは満足に相手をする事もできない。彼の妻はためらっているようだった。
気にする事はないといって送り出した。仕事の話をしにきたというと、怪訝な顔をして出て行った。
既に日吉は仕事など、できない。今更何を、と思っているに違いない。
「日吉、いるか」
咳の音が、それに答えた。
襖を開けると、締め切った部屋の淀んだ空気が竹助を迎えた。
とっくに生きることを諦めて、緩やかに暮らしていると思っていたが、妻の存在があった。一日でも長く生きていて欲しいと願うだろう。
この部屋には、命に執着する浅ましいまでの生が根付いている。その見苦しさを人は厭うのだろう。
粋ではないだろうと、日吉も思う。
日吉は身を起こしていた。
無理をするな、か。大丈夫か、か。
どんな言葉をかければよいのか分からないが、また暴言を吐きそうだったので口を鎖した。
座布団を持ってきて、横に座る。
「風、入れていいかい」
日吉は頷いた。
言うべきことは分かっている。無駄は、性に会わない。
縁に、外すのを忘れた季節はずれの風鈴があった。いつぞや見舞いにかこつけて、ここで酒を飲んだ。
「そこに、衣裳がある」
なんといえば、間抜けに見えないかを考えて結局そんな言葉になった。
両手をついて、日吉は殊勝に頭をたれた。差し出した手ぬぐいを黙って受け取った。
己の着物を着る力すらない日吉に、衣裳を着せるなど到底無理だった。
荒くなる息を聞いていられず、耳を塞ぎたくなった。それが能わないから、固く目を閉じた。
腰紐を結ぶ事すらつらいようで、手が滑っている。ようやく締めれば、力が入りすぎている。
本当は竹助には、わかっていた。最後の日吉の仕事のとき、それ以前にここに見舞ったときから、日吉にはもう仕事ができないと知っていた。
ずるり、と日吉の手が落ちた。竹助の体を支えに使い、聞こえるかどうかわからない声で詫びた。それ以上は、もう重い着物を持ち上げることすらできないのだ。
着せかけの衣裳を、見聞するように竹助は衣裳を見下ろした。
酷い出来だ。
「いい腕だな」
竹助は、生きにくい質だった。
たった一言、日吉の労をねぎらいたかった。それができずに、とっくに衰えていた日吉に仕事をさせた。うまく行かずに怒鳴った。後悔をして、また訪ねた。
日吉は同情など、望んでいない。こんなできで褒められても喜びはしないだろう。
人の命は、蛍のように短く儚い。それなのに、竹助はなんと不器用に飛ぶ事だろう。
日吉のような男は、自らを蛍に例うことなどしない。
この男は、舞台に憧れていた。人としては最低だと、陰で言われている竹助にすら、憧れていた。あるいは役者を故郷の蛍のように、おもっていた。
熟練した衣裳は、役者に触れただけでその体調を察する。
長年ともに居た竹助は、その目立たない男の事を彼の妻よりもよく察する。
役者が蛍と思うなら、お前はそれを生かす水になれ。
言う事はとっくに決めてあった。
しかし己の感傷を打ち明けるには、酒が足りなかった。酒を飲む事も今の日吉には叶わない。杏飴で酔える男なら、どんなによかったか。
竹助の言葉も結局は、胸のうちにしまわれたままだった。
そうして、清流は無言の内に枯れていく。
「日吉、悪かったなぁ」
己の未熟さにすら気づかなかった竹助には、友の慰め方すらわからない。
その後も連なってゆく彼の家系をみても、七代目竹助が一際陰の薄い役者であることには違いなかった。