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 日吉は、竹助に辞めろと言われるのではないかと思っていた。

 血を吐いているような人間が、仕事を続けるなどばかげている。文筆業ならまだしも、衣裳は体力が居る仕事である。第一公演中に舞台袖で咳が止まらなくなったら、洒落にならない。

 体力は日ごとに衰えるので、日吉一人で仕事をする事は殆どなくなった。弟子が常に横に控えている。

 健全なときでさえ、ものによっては役者に足を掛けなければ帯を締められない力仕事である。初めは役者に足をかけるなど、と途惑ったものだ。次第にそれを気にかけるのも素人であるからだと気付いた。

 竹助は、日吉の感情など気にしない。

「潮時か・・・」

 自宅で日吉は一人ごつ。

 情けで仕事を続けるほど、日吉は落ちぶれていなかった。

 竹助が何も言ってこなかったのが意外であった。それも情けかもしれない。あの物言いのきつい竹助に情けをかけられていると思うと、叫びだしたくなるほどに情けなく悔しかった。

 季節は冬を越した。二度目の夏である。江戸の家は、近くに川がない場所に居着いている。蛍は居ない。

 満月ばかりが美しい。端に少し雲をまとって僅かに曇っている。

 遠くから祭りの囃子が聞こえてくる。こんな日は、芝居小屋も賑わうだろう。今日は休んでいる。まだ仕事はやめていない。

 風鈴の音が家の静寂に染みる。

 芝居小屋にいる人間も、祭りにいった人間も、今日こんな静寂は知らない。

 祭り帰りの親子の、僅かに昂った声が聞こえてくる。

 大したものはもってない。田舎生まれで、江戸に出てきた。衣裳として、天才的な何かを持っていたわけでもない。衣裳になった特別な理由もない。つまらない男だ。

「日吉、いるか」

 クチナシの枝を手でよけて、現れたのは竹助だった。

 日吉というのはつまらない男だが、そのつまらない所が彼の強みだった。よくも悪くも、人に相手にされない。その彼が、言葉を失うほど人に驚かされたのは、初めてだった。

「こんな縁に居て、体冷やすんじゃねぇのか?」

「舞台は?」

「こんな日は、花形の出番だろ」

 自嘲気味に竹助は笑う。茶を入れに立とうとした日吉を竹助がとどめた。

「嫁はどうした。愛想つかされたか」

「息抜きに、祭りへ」

 お前は、酒は飲めないな。

 そういって、竹助は縁に座って酒を飲み始めた。酒の他に携えていたのは、杏飴だった。酒が飲めない日吉にみやげ代わりに。

 布団を干せばそれでいっぱいの、クチナシと雑草だけが彩を添える狭い庭。

 竹助にとって、晩酌に祭りの囃子は喧しくて邪魔なもので、風鈴の音は風情がある。

 狭い庭なのに存外、綺麗に月が見えるのが新鮮で、つまらない男は全く喋らないから居心地がいい。

 端に僅かに雲をまとうのが、奥ゆかしく美しい満月だ。

 風鈴が夏の涼にしみいる。

 夏の宵が、竹助にとっての酒の肴だった。

 竹助は、日吉のわび住まいをこんなにも変えてみせる。

 例えば、日吉がただの男であるとして、田舎で暮らしていて、胸を患って死んだとしたら、それは一欠けらも劇的でない人生だ。

 日吉が舞台と関わらなかったら、竹助と関わらなかったらそのままつまらない人生を終えていた。

 憂き世に於いてはかくも儚き人の生。役者という連中は、その短い一生を舞台の上で鮮やかに生き抜くのだ。僅かでも、その蛍が飛ぶ助けになれたなら、それで充分ではないか。

 竹助が持ってきた杏飴は、月のよりも濃い色をしている。鮮やかで艶があった。

 殆ど口にしたことのない甘味は、頭痛がするほど甘かった。

 日吉が仕事を辞めることを決めたのは、その晩だった。

 あるいは、祭りの夜が最後だったなら、少しは恰好がついたかもしれない。日吉は、そんな折にもめぐり合わない男であった。

「ああ、見舞いだったのか」

 竹助が帰り、しばらくあとに嫁が帰ってきた。それほどに時間がたって、ようやく気付いた。折角見舞いにきてもらったのに、気付かなかったのか。我ながらつくづくと鈍臭い男だと思った。

 大損をした。なぜか、そんな気がした。

 大の男を見舞うのに、酒を片手に杏飴か。

 苦笑すると、血がこぼれた。



 芝居小屋の喧騒が、僅かに隔たって遠く聞こえる。竹助がもうすぐここに来る。

 早着替えは、観客を驚かせ喜ばせる。

 日吉は口元を手ぬぐいで覆っていた。血の染みが目立たぬように、色は濃いものに変えていた。

 するすると布ずれの音がする。

 許されたのは僅かな時間。

 古い床を歩いても僅かな音もしない。

 全身にきつく張った弦のような緊張感をまとわせて竹助が帰ってきた。

 まるで、風のようだ。

 この緊張感が心地良かった。込み入ったことを考えずに、目の前のことに喰らいついていられるのが楽しかった。

 最後の仕事だ。そんな事を考えて感傷に浸っている暇はない。

 これは、仕事なのだから。

 手を挙げたとき、やせ細った手首が目に入った。

 まさかそんな事はない、と自分に言い聞かせる。

 いつも動く手が動かなかった。

 素人ではない。己の技量を見誤るような事はしない。

 冷や汗が首筋を伝った。間に合わない。このままでは間に合わない。

「日吉」

 焦った調子で、竹助が呼んだ。

 とても小さく殺した声が、焦燥で震えていた。

「日吉!」

 日吉の手が撥ね退けられる。

 竹助の判断は早かった。

 僅かのためらいもなかった。

 遊びではない。裏方への情けで、金を払ってくる客に損をさせてはいけない。

「お前、やれ!」

 声をかけたその若者は、日吉の弟子の一人だった。

 竹助は、その若者の名を知らなかった。

 最後の仕事で、日吉はひどく怒られた。影で同情してくれた人間が大勢いた。

 あめ色になった廊下。近頃すべりが悪くなった楽屋の窓。舞台が始まる前の、最後の調整。慌しさと緊張感。

 全てが、離れてゆく。

 激しく叱咤されたことが一番の情けであることに、日吉は気付いていた。役に立たない病人を、最後まで衣裳として扱ってくれた。

 情けない。みっともない。

 少しくらいと、思ったのだ。

 何のとりえもないつまらない男だった。

 だが、舞台の上に居る役者と、仕事をともにした。竹助に認められる実力はあった。

 少しくらい、己の人生に華が添えられてもいいはずだ。

 もし、あの人に会わなかったら、こんなことは思わなかった。つまらない人間であっても、惨めではなかった。

 疲れ果てた日吉が立てるようになる頃には、芝居小屋の喧騒はとっくに遠ざかっていた。

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