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 衣裳の日吉が胸を患っているという話は、人づてに少しずつ伝わっていた。日吉は自分からぺらぺらと喋る質ではなかったが、問われればそれなりに返事をする。すぐに知れる事であった。

 療養するといって、田舎に帰った。戻ってくるのか怪しい。何しろ不治の病であるし、仕事を続けられるようには思えない。

 竹助がその事を知ったのは日吉が帰省した後で、暑い日だったように思う。それまでは、帰省したのでしばらく姿を見せていないということしか知らなかった。

 場所は仲間の家だった。冷や水を飲みながら、女のように噂好きな連中の話を聞いていた。

 庭の飛び石の上で、蜥蜴が日向ぼっこをしていることに気付いた。目があったような気がしたときに日吉、という名前が投げ込まれ思わず会話を拾ってしまったのだ。

 仲がよかったからなのか、ただの噂好きだったのか、男の世間話は詳しかった。

 風鈴が欲しいな。

 そんな事を思いながら、他人の家の縁を眺めた。

 それも蝉の声の中では、聞こえにくいかもしれない。

 暑すぎて、あまり思考は定まっていなかったため、そんな記憶ばかりが残っていた。

 驚いたのは、その数日後日吉が戻ってきたことだ。いくらなんでも短い。体を癒すどころか旅程で体力を削ったのではなかろうか。

 竹助は役者だった。日吉とは舞台があるたびに顔を合わせて、それが数年も続いたのだから、名前と顔を覚えないという事はない。何しろ不備があったら名前を怒鳴らねばならなかったし、衣裳は彼だけではないからやはり名を知らないのは不便だった。

 日吉は随分と若い頃にここに来た。といっても、竹助が初めて舞台に立った時のほうがもっと幼かった。

 七代目竹助を襲名したのちは、日吉以外に衣裳を任せたことはない。

 正確に言えば、日吉以外のものが着せることもあったのだがそれは数には数えない。竹助が、衣裳と呼べばそれは日吉だ。

 年は近かった。

 名も知らないような村から出てきた日吉は、口数が少なくぱっとしない男だった。それは今でも変わらない。

 役者が持っているような、人目を惹く雰囲気は少しも持ち合わせていない。恐らく町で何度か顔を合わせたところで覚えもしないし、仕事で顔を合わせているのに、覚えるのに時間が掛かった。

 他の役者という職種の人間がどうかは知らないが、この七代目竹助という人間は、性格の面においてはあまり優れていなかった。気遣いはあまりない。それでも、人を繋ぎとめて置けるだけのものを持っているから、七代目を背負っていられた。

 しかし、彼の家系の中で一際影の薄い役者であったことには違いない。

 唯一の救いは、彼の父が鬼才というほどにすばらしくなかったことだ。だから、その優劣の差もそれほど際立たなかった。

 ともあれ彼は七代目竹助で、立派なひとりの役者であった。

 そして、日吉は竹助が接する二人目の衣裳であった。一人目は己のもつ技量の全てを日吉に盗ませて、とくに挨拶をする事もなくいつの間にかいなくなっていた。その男とはそりが合わなかった。

 だから、実質衣裳は殆ど日吉が担当していたようなものだった。年もそれほど大きくはなれていたわけではない。親しみなどは感じないが、竹助は先代に劣ると思っている年寄りより、日吉を苛立たせないで済んだ。

 その腕は悪くない。

 熟練した衣裳は、役者に触れただけで体調を察する。

 日吉はその領域だった。

 竹助の体調に合わせて帯の締め具合を変えた。

 悪くはないと思っていた。

 しかし、その事を日吉に言うことはなかった。日吉でなくてもそんな事は人に言わなかった。そもそも竹助には人と話すべきことがない。

 素人じゃあるまいし、触れてこちらの事を察する領域に達しているのは当然。歴代衣裳はそういう男がつとめてきたのだ。よい舞台を作る為にいった多少の無理、叶えられないようでは衣裳は呼べない。大道具でも、小道具でも、同じことだ。

 仕事場から姿を消したあとに、胸を患っていると知った。そのとき、流石に後悔した。文を書こうとも思ったほどだが、何に対して自分が後悔しているのか竹助にもよく分からなかった。

 謝りたかったわけでなし、感謝したかったわけでなし。特に大喧嘩をしたわけではなかったし、他の人間と比べて特別目をかけたわけでもないし、特別世話を焼かれたこともない。

 結局なにも書く事がなかったので、馬鹿なこともしないですんだ。それで日吉も復帰したので、いよいよ早まった真似をしなかったことに安堵した。


 やめるんなら、さっさとやめろ。居るのか居ないのか、わからねぇやつがいると迷惑だ。


 竹助から、優しい言葉はでてこない。日吉以外の人間は、盛大に顔を顰めた。

 いつも世話になっているのに。

 もう先が長くない病人なのに。

 あの高慢な男とうまくやれるのはあいつだけだろうに。

 日吉もよく我慢してるよ、文句の一つも言わずにさ。

 芒の葉ずれの音と同じように、陰口は日常の根底に沈んでいる。気を向けなければ、ないと同じなのだ。

 胸を患った人間は助からない。特に血を吐くようになれば、相当悪い。

 日吉は血を吐くようだった。その事を知ったのは、仕事に復帰した日吉が口元を手ぬぐいで覆っていたからだ。

 血を吐いても衣裳が汚れないように、だそうだ。

 見かけによらず、暑苦しい心根で仕事に取り組む男だった。

 この日も日吉は仕事にきた。

 腕は療養をする前と全く変わらない。

「かかったのがお前でよかったな。役者が胸やったらお仕舞いだ」

 公演最中の衣裳替え、慌しい最中に言った。

 竹助にとっては幸いでもなんでもなかったが、幸いなことに日吉以外には聞こえなかったようだ。疲れたような笑いが帰ってきたことが、竹助にとっては幸いだった。

 時折日吉の手ぬぐいは、赤黒く染まっていた。べにてぬぐいの日吉、と渾名がついた。それは知る人ぞ知る芝居小屋の名物になっていたが、あえてそのことについて、竹助は何も言わなかった。日吉も、何も言ってこなかった。

 竹助は、役者が好きだからやっている。父が役者だったからやっているわけではないし、他に跡継ぎが居ないからやっているわけではない。

 日吉も、芝居が好きだ。それは、竹助よりもずっと分かりやすい。あっさりとしたように見せかけて、以外に粘り強い仕事へのとり組を見れば分かる。

 本当は、もう少し優しい言葉をかけようとも思った。しかし、竹助はそれになれていない。結果として、口を開かぬ方がましだったというような暴言が飛び出してくるのだ。

 結果、日吉が病になってから、竹助はあまり彼と口を聞いていない。

 初めは喉が破れただけだといっていた。本当のことだろう。強がるような男ではない。粋など関係がない、そういう田舎くさいところが、日吉らしさである。

 顔色もそれほどは悪くなかった。といってもそれは今と比較してのことであるので、当時から病人のそれをしていたが、今ほどではない。

 傍目にも迎えが迫ってきているのが、分かるようであった。

 その内に、今度は本当に姿を消す。


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