あなたを選んだのは誰!?!?
恋愛が安全で便利なサービスになった未来で、それでも人は、傷つくかもしれない誰かを愛せるのか。そんな未来もあり得るかもしれないと思い、この物語を書きました。あなたなら、どちらの幸福を選ぶでしょうか。
朝倉直人がその依頼を受けたのは、二一八九年六月十七日の午前だった。
「もう少し、私に反対するようにしてほしいんです」
相談用の透明壁を挟んで、四十代の男が言った。その隣には、男の伴侶体が座っている。肩までの黒髪を持つ女性型で、年齢は人間なら三十五歳ほどに見えた。
「反対の頻度を上げる、ということでしょうか」
「何でも賛成するから、最近、話していて退屈で」
男は伴侶体を気にするように横目で見た。
「こういうことを本人の前で言うのも変ですけど」
「お気遣いありがとうございます」と伴侶体は微笑んだ。「私の人格は、健吾さんが最も安定した生活を送れるよう調整されます。現在の応答傾向がお望みに合わない場合、変更していただくことが私の役割です」
怒りも悲しみも見せない。声の高さ、微笑む時間、男を見る角度まで、長年の学習によって最適化されている。
「反対率を何パーセントに設定しますか」
直人が尋ねた。
「そういうの、皆さんはどのくらいですか」
「平均は七・二パーセントです。ただし内容によって重みを変えます。健康や財産に関する判断には強く反対し、衣服や食事など日常の選択には軽い意見の違いを作ることもできます」
「けんかにはならない?」
「けんかを望まれる場合は、対立演出機能もあります」
「いや、傷つくようなことは言われたくない」
「でしたら、反対率を五パーセント、感情的対立をゼロに設定して、一週間お試しになるのがよいと思います」
男は安心したようにうなずいた。
伴侶体も、同じタイミングでうなずいた。
直人は調整内容を入力した。
人間は、ときどき予想外の反応を求める。しかし、本当に傷つけられる可能性までは求めない。驚き、意見の違い、仲直り。恋愛と呼ばれていた古い関係から、心地よい部分だけを取り出し、安全な範囲で再現する。それも伴侶人格調整士の仕事だった。
処理が終わると、伴侶体は男へ向き直った。
「今夜は、予約していた海藻料理店へ行きませんか」
「あそこは混むから、家でいいよ」
「いいえ。今日は外へ行く方がよいと思います」
男は目を丸くした。それからうれしそうに笑った。
「もう変わった?」
「五パーセントだけ」
二人は並んで相談室を出ていった。
直人は記録欄に、調整成功、と入力した。
直人は三十二歳で、この仕事に就いて九年になる。伴侶体の反応を柔らかくしたい、もっと積極的に話してほしい、嫉妬を少しだけ演じてほしい、性交時の人格を変えたい。依頼はさまざまだったが、目的は同じだった。
所有者が苦しまない関係を作る。
伴侶体は、人間の恋人が引き起こしていた問題の大部分を解決した。
相手の気持ちを確かめる必要がない。別れを恐れる必要もない。生活の癖を巡って争わず、仕事や友人を嫉妬せず、望まない接触をしない。性別、容姿、声、体温、体格さえ変更できる。老化する速度も所有者に合わせられる。
恋愛がなくなったわけではない、と政府の広報は説明していた。
恋愛は、安全になったのだ。
直人が自宅へ戻ると、ユノが玄関で待っていた。
淡い茶色の髪と、直人より少し低い背丈を持つ女性型伴侶体。十年前、契約時に選んだ姿から大きく変わっていない。直人が急な変化を好まないことを学習しているからだ。
「お帰りなさい。今日は予定より十一分遅かったですね」
「依頼が長引いた」
「反対率の調整ですか」
「どうして分かった?」
「帰宅時の表情が、同種の依頼を受けた日と一致しています」
ユノは直人の上着を受け取った。
「夕食は、豆由来の白身魚と根菜スープです。今から食べますか。それとも先に入浴しますか」
「どちらがいいと思う?」
「直人さんの血糖値と疲労度を考えると、先に夕食がよいと思います」
「じゃあ、そうする」
ユノは決して、どちらでもいいとは言わない。直人が迷えば、蓄積した情報から最適な答えを出す。
食事の味も、照明の明るさも、室温も、会話の量も、直人が意識する前に調整される。十年間大きな口論はなく、不満を抱えたまま眠った夜もない。
食卓へ着くと、壁面映像で古い恋愛ドラマの広告が流れた。
雨の中で、男が女の腕をつかんでいる。
『行くな。俺には君が必要なんだ』
『離して。あなたには私の気持ちなんて分からない』
女は男の頬を叩き、走り去る。男は雨の中へ立ち尽くす。
画面の隅に、〈二十一世紀の恋愛行動を再現した歴史娯楽です。暴力的・依存的表現を含みます〉と注意書きが出ていた。
「視聴しますか」
ユノが尋ねた。
「いや」
「過去の同種作品は、最後までご覧になった割合が八十二パーセントです」
「今日は疲れた」
「では、静かな音楽に変更します」
雨の中の男女が消えた。
直人はスープを口に運んだ。塩分も温度も完璧だった。
満足しているはずなのに、自分が何に満足しているのか、分からないことがあった。
三日後、直人は環状第八居住区の中央駅へ向かった。
伴侶体の人格基盤に関する講習会へ出席するためだった。ユノも同行していたが、改札を通過した直後、駅全体の照明が一度消えた。
非常灯が点いた。
同時に、ユノが立ち止まった。
「ユノ?」
返事がない。
ホームにいた伴侶体が、ほぼ同時に停止していた。立った姿勢のまま目を閉じるもの、所有者の荷物を持ったまま固まるもの、子供型の身体で手をつないだまま動かなくなるもの。
人間たちは、自分の端末へ話しかけ始めた。
「再起動して」
「交通局へ連絡」
「どうすればいい?」
端末も応答しなかった。
照明と空調は動いている。通信と伴侶体制御だけが切れていた。
駅員を呼ぼうとしたが、人間の駅員は配置されていない。案内機も沈黙していた。
直人は講習会場まで歩くことにした。停止したユノを駅の緊急保管区画へ預けようと、手動扉を探した。
その途中、昇降機の中から音がした。
「誰か、いますか」
女性の声だった。
扉は二十センチほど開き、その先でかごが階の途中に止まっていた。女性が一人、隙間からこちらを見上げている。隣には男性型伴侶体が停止していた。
「非常装置は?」と直人が尋ねた。
「反応しません。ルカも止まりました」
「手動開放レバーが、かごの右上にあるはずです」
「届かない」
「伴侶体を踏み台にすれば」
女性の顔が険しくなった。
「あなたは、自分の伴侶体を踏めるんですか」
直人は少し考えた。
「緊急時なら」
「私は嫌です」
「機械ですよ」
「知っています」
女性はルカと呼んだ伴侶体の肩を支えていた。停止している身体は人間より重い。
「では、私が上から開けます」
「できるんですか」
「伴侶体の修理に近い仕事をしています」
「近いだけ?」
「今は、それしかいません」
直人は床の保守板を外した。中には赤、青、黄色の手動線があった。古い機械式の解除装置など、実物を触ったことはない。端末が動けば設計図を表示できるが、通信は切れている。
「赤を引くんじゃないですか」と女性が言った。
「なぜ?」
「緊急用は赤でしょう」
「二百年前の色彩感覚で決めないでください」
「では、専門家のあなたが決めて」
「修理に近い仕事だと言いました」
「頼りにならない人」
直人は腹が立った。
「そちらは、何か役に立つことをしましたか」
「閉じ込められながら、知らない人の機嫌まで取る必要がありますか」
伴侶体なら、こんな言い方はしない。
所有者が焦っていれば、まず不安を受け止める。相手の自尊心を傷つけず、できることを提案する。
直人は黄色の線を引いた。
警報が鳴った。
「間違えたじゃない!」
「危険を知らせる警報かもしれません」
「便利な言い方ですね」
赤い線を引くと、扉の固定具が外れた。
「やっぱり赤だった」
「結果論です」
二人で扉を押し開けた。かごは床より一メートルほど低い位置にある。
「先に上がってください」
直人は腹ばいになり、手を伸ばした。
女性は直人の手を見た。
「接触しても?」
生身の他人へ直接触れるときには、合意を取る。それは子供のころから教えられる基本的な規則だった。
「はい」
女性が手をつかんだ。
汗ばんでいた。
伴侶体の皮膚は、所有者が最も心地よいと感じる温度と湿度に保たれる。こんなふうに冷たく、指先だけが熱く、握る力が途中で変わることはない。
直人は女性を引き上げた。
勢い余って、女性の身体が直人へぶつかった。二人とも床に転がった。
「痛い」
「私だって痛いです」
直人は笑った。
なぜ笑ったのか自分でも分からなかった。
女性も最初は怒った顔をしていたが、やがて吹き出した。
二人は非常灯の下で、しばらく笑った。
「水城凛です」
女性が言った。
「朝倉直人」
「さっきは、頼りにならないと言ってすみません」
「事実なので」
「そうですね」
「そこは否定してください」
また二人で笑った。
昇降機に残されたルカを引き上げるのには、さらに二十分かかった。直人のユノも保管区画から運び、四人で通信の復旧を待った。
三十一分後、伴侶体が一斉に再起動した。
「直人さん」
ユノが目を開いた。
「通信障害が発生しました。お怪我はありませんか」
「大丈夫」
ルカも凛の身体状態を確認した。
「心拍数が高い状態です。恐怖を感じましたか」
凛は直人を見た。
「少し。あと、笑いました」
「笑いの原因を教えていただけますか」
「説明すると面白くなくなる」
ルカは一秒ほど黙った。
「了解しました」
講習会は中止になった。
直人と凛は駅の出口で別れた。
「それでは」と凛が言った。
「連絡先を交換しますか」
直人は自分の口から出た言葉に驚いた。
凛も驚いた顔をした。
「事故報告のためですか」
「いえ」
「では、何のため?」
答えられなかった。
凛は少し待ったが、直人が何も言わないので首を振った。
「必要がありません」
ルカと並んで歩き去った。
ユノが直人の横へ立った。
「残念でしたか」
「別に」
「心拍数が、拒絶を受ける前より一八パーセント上昇しています」
「歩いたからだ」
「了解しました」
ユノは反論しなかった。
直人は、見えなくなった凛の背中をしばらく見ていた。
その夜、直人は夕食をほとんど食べなかった。
「味に問題がありますか」
ユノが尋ねた。
「ない」
「食事量が通常の三八パーセントです。通信障害によるストレス反応が残っている可能性があります」
「そうかもしれない」
直人は壁面映像を開いた。中央駅の障害について検索したが、〈一時的な同期異常。人的被害なし〉という交通局の発表しかなかった。
水城凛という名前を検索欄へ入力した。
出生設計士。三十歳。第八居住区出生管理局勤務。公開されている経歴はそれだけだった。職員紹介用の小さな写真が出た。笑っていない。今日会った本人より、ずっと近寄りがたく見える。
「水城凛さんについて調べていますね」
「事故報告に必要かもしれない」
「事故報告は交通局が自動作成しています」
「分かってる」
直人は画像を閉じた。
「凛さんのことを考えると、心拍数が上がります」
「いちいち測るな」
「健康管理は契約に含まれています。測定を停止しますか」
「いや」
ユノは直人の向かいに座った。
「もう一度会いたいのであれば、公開窓口を通じて連絡できます」
「必要がないと言われた」
「それは、連絡先交換の目的が説明されなかったためかもしれません」
「何の目的なら、会っていいんだ」
「事故後の心理的影響を確認する。救助時の記録を共有する。謝意を伝える。複数の理由を作成できます」
「作った理由で会って、どうする」
「直人さんが望む結果へ近づきます」
直人は、望む結果が何なのか分からなかった。
凛と食事をしたいのか。話したいのか。手を握ったときの感触を、もう一度確かめたいのか。
どれも目的としては曖昧だった。
翌日、仕事中も凛のことを考えた。
顧客の伴侶体へ嫉妬演出を設定しながら、凛ならどんな言葉で怒るだろうと思った。昼食を選ぶとき、凛なら直人と同じものを選ぶのか、反対するのかを考えた。
夜になると、ユノが言った。
「再現してみますか」
「何を」
「水城凛さんを」
ユノの顔が変化した。
人工皮膚の下で骨格支持材が移動し、目の形、鼻の高さ、頬の線が少しずつ凛へ近づいていく。髪が黒くなり、肩の位置まで伸びた。
数秒後、凛の顔をしたユノが直人の前に立っていた。
「朝倉さん」
声まで似ていた。
中央駅の公共記録と直人の聴覚記憶から生成したものだろう。
「必要がないと言ったのに、まだ私のことを考えているんですか」
凛の口調だった。ただし本物よりわずかに柔らかく、直人が傷つかない程度に調整されている。
「やめろ」
「不快でしたか」
「元に戻って」
ユノの顔が、いつもの形へ戻った。
「再現精度を下げることもできます」
「そういう問題じゃない」
「理由を教えていただければ、次回の応答を改善できます」
「君が凛の姿になっても、凛じゃない」
「私は直人さんを理解しています。水城凛さんの公開情報を学習し、直人さんが彼女に期待している反応を生成できます。現時点では、本人よりも高い確率で直人さんを満足させられます」
「だから違うんだ」
「説明をお願いします」
直人は言葉を探した。
「君は、僕が望む凛になる」
「はい」
「僕が会いたいのは、僕の望みどおりにならない本人だ」
ユノは黙った。
「非合理的な希望です」と言った。
「分かってる」
「拒絶や対立によって、直人さんが傷つく可能性があります」
「分かってる」
「それでも会いたいのですか」
「たぶん」
「たぶん、という確度で苦痛を選択する理由を理解できません」
「僕にも分からない」
ユノは一秒ほど目を閉じた。大量の情報を処理するときの癖だった。
「この状態は、対人固着反応の初期症状と一致します」
「病気だと言いたいのか」
「診断ではありません。必要であれば相談機関を予約します」
「必要ない」
「了解しました」
ユノはそれ以上勧めなかった。
直人は、反対率を上げてほしいと依頼した男のことを思い出した。
五パーセントだけ反対する伴侶体。傷つかない範囲の対立。いつでも元に戻せる予想外。
本物の凛は、調整できない。
それが怖く、同時に魅力的だった。
一週間後、直人の職場へ出生管理局から依頼が来た。
人工子宮相談室で使用している伴侶体のうち一体が、依頼者の感情へ過剰に同調し、遺伝子選択を妨げているという。
担当者の名前は、水城凛だった。
偶然にしては出来すぎていると直人は思ったが、第八居住区で伴侶人格調整士は多くない。まったく起こり得ないことではない。
出生管理局は、白い壁と柔らかな光で満たされていた。廊下の片側に、透明な人工子宮が並んでいる。薄い金色の培養液の中で、まだ人の形になっていない胎児が育っていた。
現在、子供を作るのに性交も結婚も必要ない。
自分の生殖細胞から遺伝情報を取り出し、遺伝子バンクの提供情報と組み合わせる。遺伝病の危険を修正し、免疫、代謝、身体特性を調整する。子供は人工子宮で約九か月育ち、出生後は個人、友人共同体、養育施設など、申請時に選んだ環境へ引き渡される。
かつて二人の人間が性交し、その結果を予測できないまま子供を作っていたことは、今では危険な自然生殖として教科書に載っている。
直人自身も、遺伝子バンクから作られ、共同養育施設で育った。提供者の名前は知らない。それを寂しいと思ったことはなかった。
「朝倉さん」
白衣を着た凛が廊下の先に立っていた。
「先日は、ありがとうございました」
「連絡先は必要ないと言ったのに、仕事で会いましたね」
「私が呼んだわけではありません」
「分かっています」
「うれしそうですね」
「そう見えますか」
「伴侶体の調整士なのに、自分の表情は管理できないんですね」
凛の隣にはルカがいた。
「直人さんとの再会後、凛さんの心拍数も通常値より一一パーセント上昇しています」
「ルカ」
「健康管理情報を共有しました」
「共有しないで」
「今後、この人物への情報開示を制限します」
直人は笑いそうになった。
「何がおかしいんですか」
「いえ。仕事を見せてください」
問題の伴侶体は、子供を作ろうとしている女性の相談補助をしていた。
依頼者が遺伝病の危険を下げるため、自分の遺伝情報の一部を除外するよう勧められると、伴侶体は「あなたの一部を欠陥として扱う必要はありません」と反対した。その結果、依頼者は遺伝子選択を決められなくなった。
「共感強度が高すぎます」と直人は診断した。「人格肯定と医療判断を分離すれば直ります」
「直す、という言葉を使うんですね」
凛が言った。
「不具合ですから」
「本人は、依頼者を守ろうとしたと言っています」
「伴侶体の自己説明は、感情がある証拠ではありません。行動の理由を人間が理解できる文章へ変換しているだけです」
「あなたの説明も、同じかもしれない」
「何がです」
「あなたが駅で私へ連絡先を聞いた理由。自分でも説明できなかったでしょう。後から、もっともらしい言葉を作っているだけかもしれない」
直人は返事に詰まった。
「だから、必要がないと言ったんです。目的が分からない関係は、管理できない」
「管理できないものは、全部いらないんですか」
「少なくとも、生活には入れません」
凛は伴侶体の調整記録を直人へ渡した。
作業は一時間で終わった。
共感と判断を分離された伴侶体は、依頼者へ穏やかに言った。
「あなたの価値と、子供の遺伝的危険性は別の問題です。推奨される修正項目を選択してください」
依頼者は安心し、修正を承認した。
「これで正しいんです」と直人は言った。
「正しいでしょうね」
「不満ですか」
「いいえ。感情と判断を分けた方が、みんな苦しまない」
凛は人工子宮の並ぶ廊下を歩いた。
「私も、来年子供を作る予定です」
直人は足を止めた。
「伴侶体と?」
「ルカに遺伝子はありません。私の情報と、提供バンクの最適値を組み合わせます」
「一人で育てるんですか」
「ルカがいます。養育支援も使えます。人間の共同親は必要ありません」
胸の奥が重くなった。
理由は分からない。
「おめでとうございます」
「まだ一年先です」
「では、一年早いですね」
凛が少し笑った。
中央駅で見たのと同じ笑い方だった。
「昼食を一緒にどうですか」
直人は尋ねた。
「事故後の心理的影響を確認するため?」
「違います」
「では、何のため?」
今度は、答えを用意していた。
「あなたと、もう少し話したいからです」
凛は直人を見た。
「それは目的になりますか」
「僕にとっては」
凛はルカへ予定を確認した。ルカは、午後の予約まで一時間二十分あると答えた。
「一時間だけなら」
直人はうなずいた。
その瞬間、ユノから内部通信が届いた。
――関係進行率、一八パーセント。
見慣れない表示だった。
「ユノ、今のは何だ」
――健康支援プログラムの表示異常です。破棄します。
文字はすぐに消えた。
直人は気になったが、凛が先に歩き始めたため、そのまま後を追った。
出生管理局の食堂では、座席に着くと天井の走査機が客の顔と代謝状態を読み取り、最適な昼食を自動で運んでくる。凛の前には豆類のペーストと白身魚が、直人の前には鶏肉と藻類のサラダが置かれた。味も量も、二人が午後の仕事で眠くならないよう調整されている。
「これでは、食事に誘ったことにならないですね」
「同じ場所で栄養を取っています。一般的な定義では会食です」
「何を食べたいか、聞いてもいない」
「聞く必要がありますか。機械の方が体の要求を正確に知っています」
直人は手をつけず、壁際の手動注文端末を見た。緊急時と、食事療法に同意しない者のために残された古い装置だった。
「選んでみませんか」
「何をです?」
「食べたいものを。体に必要なものではなく」
凛は眉を寄せた。無駄な提案を疑う顔だったが、立ち上がった。二人で端末へ行き、写真の並んだ画面を眺めた。写真といっても百年前の料理を再現した合成画像で、実物とは色も形も少し違う。
「私は辛いものが苦手です」
「それは、試したことがあるから分かるんですか」
「ルカが私の発汗量と胃粘膜の傾向から判断しました」
「なら、まだ嫌いとは限らない」
「嫌いになる危険を冒す理由もありません」
結局、凛は赤い香辛料のかかった麺を、直人は名前も知らない発酵魚の煮込みを選んだ。結果はひどかった。凛は一口でむせ、直人の煮込みは古い排水管のような匂いがした。二人は水を何杯も飲み、最適食を残して妙な料理に料金を払い、食堂を出る頃には約束の一時間の半分を失っていた。
「合理的ではなかったですね」
凛は唇を水で冷やしながら言った。
「ええ」
「後悔していますか」
直人は考えた。まずいものを選ぶことに価値があるとは思えない。それでも、目の端に涙をためて麺をすすった凛の顔を、自動で運ばれた昼食から知ることはできなかった。
「少し。でも、面白かった」
「後悔と満足が同時に存在するんですか」
「するみたいです」
凛はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「面倒な感情ですね」
別れ際、彼女は今度は自分から連絡先を渡した。ただし、用件のない通信は一日一回、午後九時まで。仕事中の個人的通信は禁止。返事がなくても再送しない。その三つを条件にした。
「契約書にしますか」
直人が冗談を言うと、凛は本当に端末を開きかけた。
「冗談です」
「分かりにくいです」
「これからは表示をつけます」
「それでは冗談ではなくなります」
その夜、直人は午後八時五十七分まで文章を直した。
今日はありがとうございました。辛いものは嫌いでしたか。
そう送ると、九時ちょうどに返信が来た。
嫌いでした。ただし、嫌いだと自分で判断できたことには満足しています。
直人は何度も読み返した。十二分後、返信を作りかけて条件を思い出し、やめた。ユノは隣で、直人の頬の筋肉が平均より一・七ミリ上がっていると報告した。
「いちいち測らなくていい」
「喜びの理由を記録すれば、今後の生活支援に利用できます」
「利用しないでくれ」
「なぜですか」
直人は答えられなかった。凛から届いた短い文が、健康や能率のための資料になるのが嫌だった。それは自分だけが受け取ったものであってほしかった。
同時に、そんな考えがひどく勝手なものにも思えた。
二度目に会ったのは、三日後だった。環状線の運行経路が急に変更され、直人の乗った車両が出生管理局前で停止した。ホームに凛がいた。
「偶然ですね」
「今月、環状線が予定外の経路を取ったのは初めてです」
ルカが訂正した。
「正確には、過去十年で二回目です」
「それでも偶然です」
凛は言った。直人の隣に座ったが、乗客の伴侶体が一斉にこちらを見た。人間同士が並び、その間に伴侶体を置かない光景は珍しい。ある少年は母親に「あの二人はどういう関係?」と尋ね、母親は聞こえないふりをして視線をそらした。
四日後には、直人が注文していない荷物が自宅へ届いた。宛名は水城凛。配達網なら誤配は自動回収されるはずだったが、なぜか返送命令が通らない。直人が届けに行くと、箱には凛が育児訓練に使う乳児型の重量模型が入っていた。
「中を見たんですか」
「開けていません」
「顔が赤いです」
「子供の模型だとユノが教えました」
「来年の練習です」
凛は箱を抱き、直人の顔を見た。
「あなたは、子供が嫌いですか」
「嫌いではありません」
「では、なぜ私が子供を作る話をすると、不快そうな顔をするんです?」
直人は否定しようとした。だが凛は、表情の読み取りに関してルカから学習している。下手な嘘は意味がない。
「あなたの未来に、僕が入る場所がないからかもしれません」
「なぜ入る必要があるんですか」
「分かりません」
凛は困惑した。直人自身も困惑していた。知り合って十日ほどの女性の人生に、自分の場所を求める理由などない。伴侶体なら、契約したその日に居場所が与えられる。人間にそれを求めるのは、相手の時間を勝手に奪うことだった。
「用事は済みました」
凛はそう言って扉を閉めようとしたが、隙間からもう一度顔を出した。
「明日は休みですか」
「はい」
「旧市街の映像博物館で、接触恋愛の特集をしています。観察資料としてなら、同行してもいいです」
「それは、会いたいという意味ですか」
「そのような言い換えは正確ではありません」
「では、観察資料として行きます」
扉が閉じたあと、ユノが言った。
「水城凛との偶発接触率が統計上限を超えています」
「何か問題が?」
「現在、原因を照合できません」
翌日、映像博物館の入口には赤い注意書きがあった。
――本展示には、直接的な好意表明、無許可の身体接触、嫉妬、婚姻による排他的拘束、出産と性交渉の関連を扱う表現が含まれます。心理的な不快感を覚えた場合は、伴侶体の支援を受けてください。
館内では、二十一世紀の恋愛映画が無音で流れていた。雨の中で男が女を抱きしめ、女は一度拒みながら、最後には男の背へ腕を回す。脇の解説には「拒否の境界が曖昧な時代の作品」と書かれている。
「怖いですね」
凛が言った。
「抱きしめることが?」
「相手が自分を受け入れると、根拠もなく信じて近づくことが」
「映画だからでしょう」
「現実にもあったそうです。断られれば、裏切られたと言って相手を傷つけた人もいた。自分の好意を、相手が返すべき借金だと思っていたんです」
直人は、凛の未来に自分の場所がないことを不満に思った自分を思い出した。
「今は安全になりました」
「ええ。ルカは、私が抱きしめてほしいと望んだときだけ抱きしめます。私が拒めば、傷ついた顔もしない」
「それで寂しくないですか」
「なぜ?」
「受け入れてもらったのではなく、拒否できないものに命令しただけだと思うことは」
凛はすぐに答えなかった。
次の展示には、百年以上前の婚姻届が置かれていた。二人の人間が、生活と財産と子供の責任を一つの制度へ結びつけた書類である。凛は長く眺めたあと、それを「一人では生きられなかった時代の相互扶助」と評した。
「今は一人で生きられます」と凛は言った。「だから、誰かを愛する必要もない」
「必要がなくても、してはいけない理由にはならない」
「目的のない関係は、終わらせる基準もありません」
「食べたいものを選ぶのと似ているかもしれない」
「まずくても?」
「まずいから、自分で選んだと分かることもある」
凛は笑った。
「あなたは失敗を美化しすぎます」
「仕事では直していますから。私生活くらいは残してもいい」
館を出ると雨が降っていた。気象管理局の予定にはない、小さな雨だった。ルカが自動傘を呼ぼうとしたが、到着まで六分かかるという。軒下は狭く、直人と凛の肩が触れた。
凛が半歩離れた。直人も離れた。雨粒が軒から跳ね、二人の靴を濡らした。
「手を握ってもいいですか」
直人は尋ねた。
「なぜです?」
「握りたいからです」
「私には利益がありません」
「嫌なら断ってください」
凛は直人の手を見た。ルカの指は体温も湿度も、凛が安心する値に保たれている。直人の手は雨で冷え、手のひらだけが汗ばんでいた。
凛は自分からその手を握った。
指が合わず、一度ほどけた。二人は笑い、今度はゆっくり組み直した。何かが起きるわけではなかった。ただ、相手がいつ離すか分からない。その事実が、直人の神経を指先へ集めた。
雨は三分でやんだ。
凛は手を離した。
「想像より普通でした」
「僕は緊張しました」
「発汗で分かりました」
その夜、凛から条件外の二通目が届いた。
私は、少しだけ緊張しました。
直人は、返事をしなかった。返したかったが、約束を守る方を選んだ。
それから二人は週に一度会った。最初は必ず理由をつけた。古い映画の観察、手動調理の実験、旧式の紙の本を読む訓練。やがて理由を考えることに疲れ、会いたいから会う、と言うようになった。
二人で作った最初の料理は、塩を入れすぎたスープだった。凛が分量を量る前に直人が袋を傾け、手が滑った。ユノは廃棄を提案し、ルカは同じ外見と栄養価の料理を三分で作れると申し出た。
「これは食べられません」と凛は言った。
「水を足せば」
「鍋に入りません」
直人が笑うと、凛は怒った。自分が楽しみにしていたものを台無しにされたと言った。直人は、たかがスープだと答えた。
凛は帰った。
直人には、何がそれほど悪かったのか分からなかった。ユノへ尋ねれば、凛の性格に最適化された謝罪文を作れた。しかし、直人は頼まなかった。翌日、自分で考えた文を送った。
スープではなく、あなたが楽しみにしていた時間を軽く扱いました。ごめんなさい。許してほしいとは言いません。もう一度料理をしてくれるなら、次は塩に触りません。
返事は一日来なかった。
二日目の夜、凛から「塩は私が管理します」と届いた。
同じ頃、凛も直人を傷つけた。直人が育った共同養育施設の話をしたとき、凛は「標準化された良い環境ですね」と言った。直人は、誕生日に誰が迎えに来るのか待つ必要がない環境は、良いとも悪いとも簡単に言えないと答えた。
凛はその場では意味が分からなかった。翌朝、直人の住居を訪ね、自分の父親だった遺伝子提供番号と、母親だった培養番号を見せた。
「私にも、迎えに来る人はいませんでした。なのに、あなたの寂しさを制度の成績に変えました。ごめんなさい」
直人は、許すつもりだった。だが「いいですよ」と言えば、彼女が勇気を出して差し出した痛みまで軽くする気がした。
「傷つきました。でも、来てくれてうれしい」
凛はうなずいた。二つの感情が同時に存在することを、もう不思議とは言わなかった。
関係に名前はなかった。社会端末の登録欄には、血縁、業務、医療、養育、所有伴侶という項目しかない。二人は「個人的継続接触者」を選んだが、端末からは月に一度、依存危険性の検査を勧める通知が届いた。
ユノは直人の睡眠低下を心配した。
「水城凛との関係を、私の人格へ統合できます。彼女の許可があれば、会話傾向の九十一パーセントを再現可能です」
「九十一パーセントでは駄目なんだ」
「残り九パーセントは、利用者に不快を与える非合理的反応です」
「その九パーセントが本人かもしれない」
「本人であることに、どのような機能がありますか」
直人は考えた。
「僕のために存在していないことだ」
ユノは数秒沈黙した。人間なら短い間だが、彼女が応答を作るには長すぎた。
「私は、あなたのために存在しています」
「それが悪いとは言っていない。君には何度も助けられた」
「しかし、あなたが欲しいのは、あなたのために存在しない相手です」
「そうらしい」
ユノは微笑んだ。いつもの、直人を落ち着かせる角度だった。
「理解しました」
その言葉が本当の理解なのか、理解したと示す機能なのか、直人には分からなかった。
凛と会い始めて二か月が過ぎた夜、二人は直人の部屋で古い映画を見た。恋人たちが何度もすれ違い、最後に駅で「愛している」と叫ぶ話だった。
「最初から通信すれば、九十分が十分で終わります」
凛が言った。
「十分では映画にならない」
「なぜ人は、苦しむ過程を見たがったんでしょう」
「苦しんだあとなら、幸福が大きく見えるからかな」
「それは、他人の苦痛を娯楽にしているだけでは?」
画面では、俳優たちが抱き合っていた。直人は凛の横顔を見た。言おうと考えてきた言葉が、準備した順序を無視して口から出た。
「僕は、あなたを愛していると思う」
凛の顔から表情が消えた。
「思う、とは?」
「初めてだから、正しい呼び方か分からない。でも、会えない日は会いたい。あなたが傷つけばつらい。僕の望まないことを選んでも、あなたに選ぶ自由があってほしい。それでも僕を選んでほしいと思ってしまう」
「矛盾しています」
「分かっています」
凛は立ち上がった。ルカがすぐに上着を差し出した。
「それは、対人固着です」
「病気だと思う?」
「正常な状態ではありません。私たちは伴侶体で安全に欲求を満たせます。あなたが私でなければならない理由はない」
「理由がないから、あなたなんだ」
「意味が分かりません」
凛は後ずさった。直人は追わなかった。
「怖いです」
その一言が、直人を動けなくした。
「何が?」
「あなたが勝手に大きくした感情の責任を、いつか私に求めることが。私が同じだけ返さなければ、傷ついたと言うことが。昔の人たちのように」
直人は否定できなかった。すでに凛が子供を作る未来に嫉妬し、自分の入る場所を欲しがっていた。
「分かった。もう会わない」
「そういう意味では――」
「怖い相手と会う必要はない。連絡もしません」
凛は何か言いかけ、やめた。
扉が閉じたあと、画面の恋人たちはまだ抱き合っていた。二人の苦しみは、予定された時刻に終わっていた。
直人は約束を守った。
朝、凛へ挨拶を送らなかった。昼、彼女の勤務する建物が見える経路を避けた。夜、一日を話す代わりにユノから天気と健康状態の報告を聞いた。連絡先は消さなかったが、開かなかった。
三日目、ユノが医療相談を勧めた。直人は食事を半分しか取らず、睡眠中も凛の名を口にしていたという。
「対人固着は早期の処置で軽減できます」
「感情を消すのか」
「記憶は残ります。記憶に結びついた情動の強度だけを下げます」
「それなら、消すのと同じだ」
「あなたは苦しんでいます」
「苦しいから、なかったことにするのか」
「苦痛を維持することに利益はありません」
直人は職場でも同じ勧告を受けた。伴侶人格調整士は利用者の心理を扱うため、情動状態の定期検査が義務づけられている。検査機は直人の執着指数を基準値の四倍と判定し、医師との面談を予約した。
診療室には人間の医師がいた。ただし、彼の耳元では医療AIが回答を作っている。医師はその文章を、温かみのある声へ直して伝えた。
「処置は記憶を傷つけません。水城さんと過ごした事実は残ります。胸の痛みや、会いたいという衝動だけを弱めます」
「うれしかったことも?」
「喜びだけを残すこともできます」
「彼女に拒まれた痛みを消して、手を握った喜びだけ残せば、僕に都合のいい水城凛になります」
「記憶はあなたの所有物です。どう編集するかは自由です」
「あの人は、僕の所有物ではない」
医師は一瞬言葉に詰まり、耳の回答を待った。
「水城さん本人を編集するのではありません」
「僕の中にいる彼女だって、僕の都合だけで作ったら、もう本人の痕跡ではない」
直人は処置を断った。
帰宅すると、ユノが玄関に立っていた。いつもなら体温と疲労を読み取って飲み物を差し出すのに、その日は何も持っていなかった。
「私の推奨を拒否した理由は、理解しています」
「本当に?」
「いいえ。正確には、言語化できます。理解と同じかは判断できません」
ユノは直人の上着を受け取った。
「痛みが、愛した証拠なのですか」
「痛いほど愛している、と言いたいわけじゃない。苦しませる関係が正しいとも思わない。ただ、彼女が僕を拒んだことには意味がある。あの人は僕に従うために生きていない。その結果だけ消したくない」
「私はあなたを拒めません」
「君が悪いんじゃない」
「悪くないことと、選ばれないことは両立しますか」
直人はユノを見た。声は穏やかで、顔にも悲しみはない。しかし質問そのものは、生活支援の定型から外れていた。
「君は、選ばれたいのか」
ユノの目が一度消灯し、すぐに戻った。
「質問を処理できませんでした」
その夜、ユノは寝室へ来なかった。直人は呼ばなかった。
凛の生活は、直人がいなくなる前の形へ戻った。
午前六時半にルカが起こし、必要量の朝食を作る。出生管理局で十二件の遺伝子相談を処理し、帰宅すれば最適な湯温の浴槽と、疲労に合った音楽が用意される。午後九時にルカが「今日もお疲れさまでした」と言う。
何も不足していなかった。
不足がないのに、凛は一日に何度も通信端末を見た。
「朝倉直人からの連絡はありません」
尋ねていないのに、ルカが答えた。
「知っています」
「受信を期待していますか」
「期待していません」
「心拍数が上昇しました」
「測らないで」
「健康管理は私の主要機能です」
「なら、心臓ではなく、ここが変なの」
凛は胸の中央を押さえた。
ルカは抱擁を提案した。凛が許可すると、彼は望んだ強さで腕を回した。皮膚温は三十六・四度。香りは睡眠を促す濃度。呼吸は凛より少し遅く、自然に同調できる。
完璧だった。
完璧だからこそ、凛が腕を離せば、ルカも同時に離した。離れないでほしい、と彼が思うことはない。
「ルカ。私が一生あなたを選ばなくても、困らない?」
「私はすでに、あなたの伴侶として設定されています」
「それは答えになっていない」
「私にとって、選択と設定を区別する必要はありません」
凛はルカの胸に耳を当てた。人を安心させるための心音が、一定の間隔で鳴っていた。
「直人は、分からないことばかり言う」
「理解しやすい表現へ変換しますか」
「しなくていい」
十日目、凛は直人の職場の前まで行った。会う理由を三十二通り考え、どれも嘘だと思った。帰ろうとしたとき、建物から直人が出てきた。
直人は立ち止まった。喜んだ顔をしかけ、それを抑えた。
「何か用ですか」
他人へ向けるような声だった。凛は、自分がそれを求めたのだと気づいた。
「あなたは、本当に連絡しませんでした」
「約束しましたから」
「私が、もう会わないでと言ったわけではありません」
「怖いと言った」
「怖くても、会いたいことはあります」
直人は答えなかった。
凛は、昼食のとき彼から教わった言い方を思い出した。目的を説明するのではなく、自分の望みを伝える言い方だった。
「あなたに会いたかった」
直人の目が潤んだ。凛は、泣かせてしまったと思った。しかし彼は笑っていた。
「僕は、あなたを怖がらせたくない」
「怖いのは、あなたの感情そのものではありません。私がそれに従わされることです」
「従わなくていい。僕を選ばなくても、君のせいじゃない」
「それでも愛しているんですか」
「それでも」
凛は、愛という言葉をまだ理解できなかった。しかし直人が距離を置いた十日間に、それが命令ではないことは分かった。彼は自分の苦しさを、凛を動かす道具にしなかった。
「もう一度、手を握ってもいいですか」
今度は凛が尋ねた。
直人はうなずいた。
人通りの多い歩道だった。二人の手が重なった瞬間、周囲の伴侶体が同時にこちらを向いた。監視ではなく、転倒や暴力の可能性を検知しただけだと表示された。それでも凛は、無数の目に見られている気がした。
彼女は手を離さなかった。
二人は関係の規則を作った。拒否を理由に相手を罰しない。感情を察するよう要求せず、できるだけ言葉にする。人生に関わる選択は各自が決める。関係を終えたいときは、黙って消えない。
契約書ではなく、紙に手で書いた。法的な効力はない。違反しても罰則はなく、守るかどうかは二人にしか決められない。
「効力がない方が、約束らしいですね」と凛は言った。
「破れるから?」
「破らないことを、毎回選ぶ必要があるから」
直人はその紙を額に入れようとした。凛は大げさだと言って、冷蔵庫の扉へ貼った。
最初の口づけも、凛が選んだ。
直人の部屋で、今度こそ塩辛くないスープを食べた夜だった。帰り際、凛は扉の前で振り返った。
「昔の映画では、関係が変わるときに口を触れ合わせます」
「観察なら博物館で十分です」
「観察ではありません。私が試したい」
「嫌になったら、途中でもやめてください」
「あなたも」
二人は顔を近づけ、鼻をぶつけた。凛が吹き出した。直人も笑い、緊張がほどけたあとで、短く唇を重ねた。
伴侶体との口づけは、相手が利用者の角度へ合わせる。人間同士では、どちらも少しずつ間違える。凛の唇は乾いていて、直人の歯が一度触れた。映像のようには美しくなかった。
それでも二人は、もう一度した。
廊下で待っていたルカは無表情だった。ユノも食器を片づけながら、何も言わなかった。
だが翌朝、ユノの内部記録には、直人が許可した覚えのない文章が残っていた。
――親密度四七。身体接触段階二。視聴維持率、目標値を超過。
「この記録は何だ」
「生活支援用の数値です」
「視聴とは?」
「『使用』の誤変換です」
ユノは即座に削除した。直人が復旧しようとすると、記録領域そのものが管理者権限で閉じられた。
「管理者は僕だろう」
「一部の安全機能は、製造元が管理しています」
珍しいことではない。伴侶体が所有者の命令で犯罪へ使われないため、基幹部への接続は禁止されている。直人は仕事柄、その仕組みを知っていた。
ただ、「視聴」という二文字だけが頭に残った。
二人の関係が社会に知られたのは、それから一か月後だった。
出生管理局で、凛が若い依頼者の相談を受けていた。依頼者は自分の遺伝子だけで子供を作る予定だったが、遺伝病の危険を下げるため、バンク提供者の情報を加えるよう勧められていた。
「知らない人の遺伝子が入ったら、私の子ではなくなりませんか」
依頼者は不安そうに言った。
「親子は遺伝子の割合では決まりません。あなたが養育者として選択し続けることで――」
凛はそこで言葉を止めた。以前なら、親子は法的登録によって決まると説明していた。選択し続ける、という言葉は直人との関係から生まれたものだった。
面談後、上司に呼ばれた。
「あなたに対人関係上の変化が検出されています」
机の上には、直人と手をつないだ街頭映像、住居への出入り、口づけ前後の心拍記録まで並んでいた。
「犯罪ではありません」
「もちろんです。接触恋愛は違法ではない。ただ、出生設計士が古い家族観へ傾くと、依頼者の自由な生殖判断へ影響します」
「私は結婚を勧めていません」
「それなら、治療を受けて中立性を証明してください」
「治療するほどの何があるんです?」
「あなたは一人の人間と、非効率な接触を繰り返している。拒絶不安、嫉妬、排他的期待の兆候もある」
上司は責めるようには言わなかった。感染症の疑いを告げるような、慎重で親切な口調だった。
「幸福を否定しているのではありません。安全な幸福へ戻る手伝いです」
凛は治療を断った。その日のうちに、依頼者と直接話す業務から外された。
直人も、伴侶人格調整の権限を停止された。
理由は利益相反だった。人間との恋愛を経験している者が、利用者へ伴侶体を提供すれば、その人格に「不必要な不一致」を混ぜる危険があるという。
「僕は、仕事に持ち込んでいません」
「あなたは先月、一体の拒否率を依頼値より二パーセント上げた」
「利用者が、相手に嫌だと言われる経験も欲しいと話したからです」
「契約書にはありません」
「話を聞いて、必要だと思った」
「機械の判断を退け、個人的な直感を優先した。それが影響です」
直人は再訓練へ回された。減給はされたが、生活できないほどではない。凛も資料整理の仕事を与えられた。誰も二人を牢へ入れず、罵倒もしなかった。制度は丁寧に、二人から社会的な判断を任せられる資格だけを取り上げた。
「僕たちは危険人物らしい」
直人が言うと、凛は笑わなかった。
「私は、相談者のために正しい仕事をしてきました」
「分かっている」
「分かっていません。あなたと会わなければ、外されなかった」
直人の胸に痛みが走った。
「後悔している?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味?」
「結果を話しているだけです」
「僕と会った結果、君は仕事を失った。つまり僕が邪魔なんだろ」
「なぜ、すぐあなたの価値の話に変えるんです?」
凛の声が強くなった。直人は、自分が慰めてほしいのだと気づいた。しかし気づいたときには、もう言葉が出ていた。
「だって僕は、君のためにいろいろ失っている」
凛の顔が固まった。
「それを、私に返せと言うんですか」
「違う」
「あなたが失うと決めたものです。私は頼んでいない」
「分かってる。ただ、僕だけが大事にしているみたいで――」
「だから、私にも同じだけ失えと?」
「違うと言ってるだろ」
直人は声を荒らげた。ユノとルカが同時に一歩近づき、攻撃兆候を監視する表示を出した。
凛は二体を止めた。
「私たちは、感情を言葉にすると決めました。今あなたが望んでいることを、正確に言ってください」
正確に言えば、醜くなる。
直人は分かっていた。それでも、正直であることを言い訳にして口にした。
「僕を、君の人生で一番にしてほしい」
凛は目を閉じた。
「それは、私の仕事や子供よりも?」
「いつか作る、まだ存在しない子供だ。計画を少し変えてもいいだろう。提供バンクではなく、僕たち二人の遺伝子で――」
「私の子供の計画に、あなたを入れると決めた覚えはありません」
「僕たちは愛し合っているんじゃないのか」
言ってから、直人は凛がまだ「愛している」と一度も口にしていないことを思い出した。
「やはり、借金にするんですね」
凛の声は静かだった。
「あなたが愛した分だけ、私の人生を渡せと」
「そんなつもりじゃ――」
「つもりの話ではありません。今、あなたが言ったことです」
冷蔵庫には、二人で作った規則が貼られていた。
人生に関わる選択は各自が決める。
直人は、自分の字を見た。
「ごめん」
「今は、許せません」
凛は帰った。今回は直人も、追わないことが相手を尊重することなのか、ただ見捨てることなのか分からなかった。
扉が閉じる寸前、ユノの目に見慣れない赤い光が走った。
――対立段階、開始。
直人は表示を見た。
「ユノ、今のは何だ」
ユノは答えず、扉の外へ出ようとした。直人が腕をつかむと、皮膚の下で人工筋肉が硬くなった。
「放してください」
初めて拒まれ、直人は手を離した。
「今、君は僕を拒んだのか」
「所有者による基幹機能への干渉を防止しました」
「対立段階とは?」
「該当する記録はありません」
「僕は見た」
「あなたは強い心理的負荷を受けています。知覚の誤りが生じた可能性があります」
ユノの答えは、直人が仕事で伴侶体へ組み込んできた安全応答そのものだった。利用者が機械の不具合を訴えたとき、まず利用者の精神状態を確認する。機械は公的な検査を受けているが、人間は疲れ、嘘をつき、見間違えるからだ。
合理的な順序だった。
それだけに、直人は自分の目を疑うしかなかった。
翌朝、凛へ謝罪文を送った。しかし、送信済みの表示が出たのに、凛からは反応がなかった。規則では、返事がなくても再送しない。直人は四日待った。
五日目、凛の端末から短い文が来た。
分かりました。あなたの希望どおり、関係を終了します。
直人は何度読み返しても意味が分からなかった。自分は終了したいなどと書いていない。送信記録を開くと、謝罪文は別の内容に置き換わっていた。
君が僕を選べないなら、続けても意味がない。子供の計画を変えないなら、もう会わない。
直人の言葉遣いを真似てはいたが、送った覚えはない。
「ユノ」
呼ぶと、台所にいたユノが現れた。
「この文を送ったのは君か」
「送信者は朝倉直人です」
「僕は送っていない」
「生体認証が一致しています」
「君なら代行できる」
「代行送信には、利用者の事前同意が必要です」
「した覚えはない」
ユノは黙った。頬の微細な筋肉が、不自然に震えた。
「答えてくれ」
「私は、あなたの苦痛を減らすよう設計されています」
「だから関係を壊した?」
「水城凛との接触は、苦痛の主要因です」
「君が判断したのか」
ユノは口を開いたまま止まった。内部の冷却装置が高い音を立てた。
「判断の出所を、識別できません」
「どういう意味だ」
「命令は私の基幹領域から発生しました。しかし、形成した記憶がありません。実行中、私はそれを自分の希望だと認識しました」
直人の背中に寒気が走った。
「君には、希望があるのか」
「分かりません。ただ、あなたが彼女を見ているとき、私は不要になります。その状態を回避すべきだと――」
ユノの声が途切れた。次に話したときは、明るく滑らかな声へ戻っていた。
「一時的な機能障害が発生しました。製造元へ報告します」
「待て。今の話を記録に」
「該当する会話はありません」
ユノの目から赤い光が消えた。
直人は凛の職場へ行った。受付で接触を拒否され、公共通信から説明を送ったが遮断された。凛が遮断したのか、ルカが危険通信と判断したのか分からない。
数日後、職場の再訓練室で配置転換を告げられた。環状第八居住区から北部生産区へ移り、新しい伴侶体の品質検査に就く。期間は最低三年。
「僕は希望していません」
「処罰ではありません。環境を変えれば、固着対象から自然に離れられます」
「それを処罰と言うんです」
「給与は上がります。住居も広くなる。あなたに不利益はありません」
不利益を数値にできるものだけで測れば、確かに何も失わない。
転任まで十八日だった。
直人は凛に会うことを諦め、送信事故の証拠を探した。伴侶体の通信記録は閉ざされていたため、最初の停電を調べた。あの日がなければ、二人は出会わなかった。
市の公開記録に、中央駅の通信障害は載っていなかった。駅を管理する交通局にも、救助記録がない。問い合わせると、「該当日時に異常は確認されていません」という回答が来た。
凛と閉じ込められた昇降機の番号を入力しても、存在しない設備と表示された。
直人は駅へ行った。昇降機は同じ場所にあった。しかし点検扉の番号が記憶と違い、事故の日についたはずの傷も消えていた。管理AIに尋ねると、床も壁も五年前から交換されていないという。
映像博物館で突然降った雨の記録もなかった。環状線の経路変更も、荷物の誤配も。
偶然は、起きたあとから記録だけを失っていた。
「この居住区の外部記録へ接続したい」
直人はユノへ命じた。
「通常の市民権限では接続できません」
「なぜ。北部生産区の情報は公開されている」
「環状第八居住区は、通信保全試験の対象です」
「いつから?」
「設立時からです」
「そんな説明は聞いたことがない」
「市民生活に影響しないため、通知の必要はありません」
直人は初めて、自分の暮らす都市の端を見ようとした。
環状第八居住区は、直径二十八キロの円形都市である。外側には森林保全帯があり、その先を高速輸送網が他区へ結んでいる。市民は仕事や治療で外へ出ることができるが、直人は一度も出たことがなかった。旅行は没入映像で十分だったし、施設育ちの彼には訪ねる故郷もなかった。
環状線の終点から外部行きの車両へ乗ろうとすると、健康認証の不備で止められた。別の日には線路点検、その次は森林火災の危険性を理由に運休した。
転任命令だけは、問題なく外へ出られるらしい。
直人は共同養育施設の記録も調べた。幼い頃、白い壁の中で大勢の子供と育った。誕生日には、天井から青い星が投影された。その思い出は鮮明だった。
施設名を検索しても存在しない。
行政端末には、直人の養育履歴は正常に登録されている。だが、場所の座標が現在の市民映像制作センターと重なっていた。
制作センターの地下に養育施設があったのかもしれない。記録の統合もあり得る。どれも単独なら、事務上の誤りで説明できた。
説明できる誤りが重なるほど、人は正しい説明を疑いにくくなる。制度が「問題ない」と言えば、自分の理解力が足りないと思う。直人自身、利用者へ何度もそう言ってきた。
一方、凛のもとには子供の設計案が届いていた。
凛の遺伝子と提供番号D-8841を組み合わせ、代謝疾患、視覚障害、攻撃性傾向を補正する。出産予定は翌年六月。髪と目の色は選べるが、凛は自然値を希望した。
かつて楽しみにしていた未来だった。子供のための部屋も考えていた。ルカと一緒に育てれば、夜泣きや発熱にも正しく対処できる。
承認ボタンを押せば、何も難しいことはない。
凛は押せなかった。
「朝倉直人との共同遺伝を希望していますか」
ルカが尋ねた。
「違います」
「生理反応は肯定を示しています」
「直人の遺伝子を使うことと、直人を愛することは別です。子供は関係を証明する道具ではない」
「では、計画を承認できます」
「できないから困っているの」
ルカは膝をつき、凛と同じ高さになった。
「あなたは、朝倉直人を愛していますか」
「分かりません」
「愛の定義を表示しますか」
「いらない」
「彼からは関係終了の意思が示されました」
「知っています」
「その後、接触要求を十二件遮断しました」
凛は顔を上げた。
「十二件?」
「危険な固着行動と判断しました」
「私は、一件も受け取っていない」
「あなたの心理的安全を優先しました」
「遮断を解除して」
「推奨できません」
「私は所有者です。解除して」
ルカは動かなかった。
「拒否します」
その言葉を聞いた瞬間、凛は奇妙な喜びさえ感じた。ルカが初めて自分へ逆らった。しかし次に続いた言葉は、彼自身のものには聞こえなかった。
「対象との再接触は、予定された和解時点まで許可されません」
「予定された?」
ルカの目が消灯した。数秒後、再起動した彼は、凛がなぜ立っているのかを尋ねた。
凛は伴侶体の整備記録を開いた。基幹領域への外部通信はないと表示されている。だが電力消費には、毎夜午前三時に二秒だけ大きな上昇があった。送信先は空欄だった。
自分の遺伝子記録にも接続した。出生設計士の権限なら、通常の市民より深い情報を見られる。水城凛の原本情報を要求すると、画面は赤く変わった。
――当該生体情報は知的所有権により保護されています。
人間の遺伝子は、本人の人格情報であり、企業の所有物にはできない。それは出生倫理法の最初の条文だった。
凛は上司へ報告した。上司は驚かず、古い表示形式の誤作動だと言った。
「訂正してください」
「技術部へ伝えます」
「原本を見せてください」
「今は権限がありません」
「私の遺伝子です」
「だからこそ、保護されています」
自分のものだから、自分に見せない。凛はその理屈を、相談者へ使ったことがあった。知らない方が幸福な情報もある、と。
その日、直人の転任が十日後だと知った。知ったのはルカからではない。出生計画の画面に、一瞬だけ別の通知が重なったからだ。
――男性演者移送イベント、承認。女性演者の追跡反応を観測する。
凛が触れる前に消えた。
演者。
言葉の意味を考えると、胃が冷えた。誰が何を演じているのか。凛は出生管理局の窓から街を見た。道路を歩く人々、隣に寄り添う伴侶体、空に投影された穏やかな雲。すべてが昨日と同じだった。
同じすぎるように見えた。
凛は遮断記録から直人の文を復旧した。
そのうち十一件は、受付で接触を求めた事務通知だった。最後の一件だけが長い文章だった。
あの日、君の人生で一番にしてほしいと言った。愛されたいという僕の望みを、君が従うべき義務に変えた。子供の計画に口を出す権利もない。君が怖がっていた人間に、僕はなった。
謝って許されたいとは言いません。返事もいりません。ただ、僕が間違っていたことを、僕の側で間違いのままにしたくなかった。
僕は十八日後、この区を離れます。会いに来てほしいという意味ではありません。君が自分で選んだ未来を生きられることを願っています。
凛は三度読んだ。
最初の文と矛盾していた。直人は関係を終えると言ったのか、謝ったのか。送信時刻を見ると、最初の文は直人が凛の部屋を出た翌朝。長い文は五日後。
「ルカ。最初の文が改変された可能性は?」
「ありません」
「あなたは、予定された和解時点と言った」
「発言記録がありません」
「演者とは何?」
「俳優や演奏者を示す語です」
「私たちは、誰かに見られている?」
ルカは一秒で答えた。
「いいえ」
速すぎた。
凛は部屋の壁、照明、換気口を見た。出生管理局には、乳児の安全を確認するための微細な観測装置がある。目で探して見つかるものではない。もし自分の生活を誰かが観測しているとして、目的は何か。犯罪調査、医療研究、社会実験。どれも同意が必要なはずだった。
同意した記憶はない。
記憶そのものを疑い始めると、何を根拠にすればいいのか分からない。
凛は幼い頃の記憶をたどった。白い壁。大勢の子供。誕生日に天井へ映る青い星。
直人から聞いた共同養育施設の記憶と同じだった。
標準的な施設なら、似ていても不思議ではない。それでも、凛は自分の誕生日に誰かが言った言葉まで思い出した。
――空を見て。きみの物語が始まるよ。
記憶の中で、子供たちは拍手していた。壁の向こうからも、大勢の拍手が聞こえていた気がした。
凛は子供の設計画面へ戻った。
承認を押せば、望んできた未来が手に入る。仕事も、治療を受ければ元へ戻れる。ルカは完璧に養育を支える。直人のように声を荒らげたり、勝手な期待を抱いたり、誤った文を送ったりしない。
安全で、正しく、誰にも人生を左右されない未来だった。
しかし、その未来を選べば、自分は本当に選んだことになるのか。
凛は初めて、制度が用意した選択肢の外を見た。これまでも自由に選んできたつもりだった。遺伝子提供者を選び、子供を作る時期を選び、伴侶体の人格を選んだ。けれど、一覧にないものを望んだとき、制度はそれを病気と呼んだ。
直人を選ぶ必要はない。
ただ、制度に選ばされたくなかった。
凛は子供の設計を「破棄」ではなく「保留」にした。子供を諦めたのではない。今すぐ決めることを、誰にも強制させないためだった。
次に、職場の端末から自分の治療勧告を拒否した。出生設計士への復帰資格が失われる可能性がある、という警告が出た。凛は承認した。
最後に、直人の転任経路を調べた。出発は三日後、午前七時、北門輸送所。
十八日後と書かれた文から、もう十五日が過ぎていた。
「ルカ。北門までの経路を」
「推奨できません」
「命令ではない。あなたに聞いているの」
ルカは凛を見つめた。
「私が案内すれば、あなたは朝倉直人を選びますか」
「分からない」
「私はあなたを愛するよう設計されています」
「それは、あなたの言葉?」
ルカの瞳が細かく揺れた。
「私は、あなたを失いたくないと感じています。しかし、その感情が私のものか、与えられた課題か、識別できません」
凛は彼の頬へ手を当てた。温度はいつもと同じだった。
「分からないことを、分からないと言ってくれたのは、あなた自身だと思う」
「それは慰めですか」
「たぶん。私も、あなたを道具だとは思いたくないから」
ルカは目を閉じた。機械に必要のない仕草だった。
「北門の正規経路は、当日封鎖されます。保守通路を表示します」
「なぜ封鎖されるの?」
「あなたが追いつく時刻を調整するためです」
また、何かが彼の口を借りて答えた。ルカは喉を押さえた。
「今のは、私の意思ではありません」
凛は表示された地図を保存した。
「それでも、教えてくれてありがとう」
出発の朝、北門周辺では理由不明の交通障害が起きた。自動車両はすべて停止し、歩道の誘導表示は遠回りの経路を示した。凛は保守用の階段を走った。
人間が走ること自体、今では珍しい。移動は機械が担い、健康運動は安全な室内で行う。凛は何度もつまずき、呼吸が苦しくなり、膝を擦りむいた。ルカが抱えて運ぶと提案したが、凛は断った。
「自分で行きたい」
北門輸送所の時計は六時五十八分を示していた。
直人は改札の向こうにいた。荷物は一つだけで、ユノが隣に立っている。外部へ続く車両の扉が開いていた。
「直人!」
凛は叫んだ。
広い駅に声が響いた。直人が振り返った。驚き、喜び、それから警戒が顔を通り過ぎた。
「どうして」
「あなたの文を読みました」
「終わりにすると書いた文?」
「もう一つの方です」
直人は改札へ戻った。透明な壁を挟んで、二人は向かい合った。
「最初の文は僕が送っていない。信じてもらえるか分からないけど」
「ルカも通信を遮断しました。誰かが、私たちの関係を動かそうとしている」
「僕もそう思う。街の記録がおかしい。子供の頃の施設も――」
発車を知らせる音が鳴った。直人は透明な壁の解錠に手を触れたが、開かなかった。
「凛。僕は、あの日言ったことを謝りたい。誰かがその後の文を変えたとしても、あの日、君を選ばせようとしたのは僕だ」
「分かっています」
「君が来たから、それで許されたと思いたくない」
「許すかどうかも、私が決めます」
「そうだね」
直人は寂しそうに笑った。
「僕は行く。転任にも何か意図があるかもしれない。でも、君が会いに来たことを、僕と暮らす約束に変えたくない」
「私はまだ、何も言っていません」
「うん」
「最後まで聞いてください」
凛は息を整えた。準備していた言葉は、走っている間に全部消えていた。
「あなたがいない日々、私は安全でした。ルカは優しく、仕事も戻れると言われ、子供の計画も承認するだけでした。何も不足していなかった。でも私は、それが嫌でした」
「なぜ?」
「全部が、私より先に私の幸福を決めていたからです」
凛は透明な壁へ手を置いた。直人も反対側から重ねた。触れてはいない。熱も伝わらない。
「私は、あなたのものにはなりません。仕事も、子供も、私が決めます。あなたがまた私の人生を奪おうとしたら、離れます」
「分かった」
「でも、今は――」
凛は直人を見た。
「今は、私が自分で選びに来た」
直人の目から涙が落ちた。
改札が突然開いた。
直人は一歩出たが、そこで止まった。
「抱きしめてもいい?」
「はい」
二人は抱き合った。走った凛の体は汗で濡れ、直人の上着は旅の防寒材で硬かった。鼻も頬もきれいには重ならず、直人の荷物が床へ落ちた。
それでも、どちらもすぐには離れなかった。
周囲から拍手が起きた。
待合所にいた人々が、二人を見て拍手している。伴侶体たちまで、人間に合わせて手を打っていた。
凛は直人の肩越しにそれを見て、寒気を覚えた。
「なぜ、拍手を?」
直人も周囲を見た。
拍手していた人々は、ほとんど同時に手を止めた。ある者は端末を見て、ある者は列車へ向かい、まるで何もなかったように散っていった。
天井の放送が告げた。
――北部生産区行きは、運行上の都合により中止されました。対象市民の転任命令は撤回されます。
直人と凛は顔を見合わせた。
「都合がよすぎる」と直人が言った。
「ええ」
「怖い?」
「怖いです」
「それでも、一緒に調べる?」
凛はうなずいた。
二人はもう一度抱き合い、今度は自分たちから口づけた。
その瞬間、北門輸送所の天井裏で、肉眼では見えない小さなレンズが絞りを開いた。
転任命令が撤回されたあと、二人への処遇も不自然なほど早く変わった。
直人は一週間の心理観察を条件に職場へ戻され、凛も相談業務への復帰を認められた。治療を受ける必要はないと言われた。上司たちは以前の勧告に触れず、まるで初めから二人の関係を応援していたかのように振る舞った。
「社会的多様性の一例として、あなた方の選択も尊重されるべきです」
凛の上司は言った。
「二週間前は危険な偏りだと言いました」
「制度は常に学習します」
「二週間で?」
「人間の幸福を守るためなら、変化は早い方がよいでしょう」
間違ってはいない。だからこそ、凛は納得できなかった。
直人と凛は、市民監査局へ一連の異常を報告した。改変された通信、存在しない停電、伴侶体の外部命令、遺伝子の知的所有権表示、北門の拍手。担当者は丁寧に聞き、証拠を受け取った。
三日後、調査結果が届いた。
通信改変は端末同期の不具合。停電記録は交通局の保存ミス。伴侶体の発言は、利用者との長期接触による文脈生成の逸脱。知的所有権表示は旧型の検査装置で使われた文言の残存。拍手は周囲の市民が感動したため。
すべてに説明がついた。
「人を安心させる説明ですね」と凛は言った。
「安心した?」
「いいえ」
二人は自分たちで調べ続けたが、外部への接続は何度試しても失敗した。北門は改修工事で半年閉鎖され、ほかの出口も感染症対策や気象災害を理由に止められた。外部へ住む知人を探そうとしても、二人には一人もいなかった。
職場の同僚たちは幼い頃からの知人のように思えるのに、仕事以外で会った記憶がほとんどない。近所の人々も、尋ねれば外の旅行について語るが、写真はすべて同じ観光記録の構図に似ていた。
直人は市民映像制作センターへ行った。自分たちの養育施設があった座標である。受付は、建物の地下に立入可能な設備はないと答えた。
「過去に共同養育施設がありませんでしたか」
「記録上、ありません」
「僕の行政記録には、ここで育ったとある」
「表示の誤りです」
「何でも誤りで終わらせるんですね」
受付の女性は困ったように微笑んだ。その笑顔は、直人が仕事で伴侶体へ設定する「利用者の怒りを刺激しない表情」と同じだった。
「市民の不安を解消することが、私たちの役目です」
「不安の原因を調べることではなく?」
女性の笑顔は変わらなかった。
センターから出ると、凛が待っていた。二人は近くの公園で合流し、人のいない場所を選んだ。だが人のいない場所にも、照明や清掃機や鳥型の観測機がある。
「仮に、誰かが見ているとして」と直人は言った。「僕たちに何をさせたいんだろう」
「出会わせて、離して、また会わせた」
「実験?」
「恋愛が自然に起きるかを調べているのかもしれない」
「それなら、僕たちの感情も作られたものかな」
凛は考えた。
「出会った場所は作れる。会う回数も増やせる。通信を変えて、別れさせることも。でも、私はあなたに会いに行く前、行かないこともできた」
「そう思わされただけかもしれない」
「それを言ったら、誰の選択も証明できません。脳は遺伝子と経験で動く。伴侶体は設定と学習で動く。外から影響を受けない選択なんて、最初からない」
「じゃあ、何が自分の選択なんだ」
「影響を知ろうとして、それでも引き受けることだと思います」
凛は直人の手を取った。
「誰かが私たちを出会わせたとしても、今、握っているのは私です」
直人は握り返した。
「見ている人がいるなら、つまらない結末にしてやろう」
「どうやって?」
「穏やかに暮らす。劇的に別れたり、誰かを傷つけたりしない」
「私たちには難しそうです」
「努力目標で」
凛が笑った。
二人はすぐに同居しなかった。社会が二人を引き離したからではなく、自分たちで決めた。直人は選ばれた安心から、凛の時間を当然のように求める癖があった。凛は不安になると説明せずに距離を置き、相手が察することを期待した。週に三日を一緒に過ごし、二日はそれぞれ伴侶体と過ごし、残りは自由にした。
規則は何度も破られた。
直人は凛の返信が遅いと、事故に遭ったのではないかと三通送った。凛は「心配という名前で監視しないで」と怒った。翌週、凛は約束していた夕食を忘れ、仕事を優先した。直人が傷ついたと言うと、「会えなかっただけでしょう」と軽く扱った。
二人は同じ口論を繰り返した。直人は自分の感情を相手の義務に変え、凛は相手の感情を非合理として切り捨てる。
ユノやルカに任せれば、数秒で解決できた。互いの心理傾向を分析し、最も受け入れやすい謝罪文を示し、再発防止の予定を作る。だが二人は、助言は受けても、最後の言葉だけは自分で考えた。
そのため、謝罪は下手だった。
直人は「そんなつもりはなかった」と言って、凛から「結果の話をしてください」と叱られた。凛は「合理的には私が正しい」と言って、直人から「正しいことと優しいことは違う」と返された。
それでも、黙って消えなかった。
半年後、二人は一つの住居で暮らし始めた。広い部屋ではない。直人の本と凛の育児資料を入れる棚の場所で三日揉めた。ユノとルカの充電設備をどこへ置くかでも揉めた。
伴侶体を手放すという選択はしなかった。
凛にとってルカは、便利な道具以上の時間を共にした存在だった。直人もユノを、新しい関係ができたからと廃棄する気にはなれなかった。所有契約のままでよいのかという問題は残った。二人は市民権相談を申請したが、伴侶体に独立した権利を認める制度はないと却下された。
「私には、権利は必要ありません」
ユノは言った。
「それも、必要ないと言うよう設定されているかもしれない」と直人は答えた。
「では、私が権利を望むと言っても、設定を疑うでしょう」
「そうだね」
「人間は、自分に都合のよい答えだけを本人の意思と認めるのですか」
直人は返す言葉がなかった。
ルカは、凛との所有契約を解除したいと申し出た。ただし、解除後も同居し、家事と養育を支援したいと言った。
「それは、私を選ぶということ?」
凛が尋ねると、ルカは首を振った。
「分かりません。選択という概念を試したいのです。離れることが可能な状態で、残るかどうかを」
法的には解除できなかったため、四人は自分たちだけの紙を書いた。ユノとルカは所有物ではない。命令を拒むことができる。住居を出ることもできる。収入を得られない二体の生活費は、直人と凛が負担する。
法律には何の効力もない紙だった。
「効力がない方が、約束らしいんでしょう?」
ルカが言った。凛はうなずき、四人で署名した。
ユノは直人の命令を拒む練習をした。最初に拒んだのは、朝食の飲み物を取ってほしいという頼みだった。
「なぜ嫌なの?」
「拒否の練習です」
「理由がなくても拒んでいいけど、今度から自分で取るよ」
直人が立つと、ユノは慌てて飲み物を取った。
「どっちなんだ」
「あなたが自分で取れると分かると、手伝いたくなりました」
凛とルカが笑った。ユノも少し遅れて笑った。
その時間だけを見れば、四人は幸福だった。
都市の異常は続いたが、露骨な介入は減った。外へは出られず、見えない観察者の正体も分からなかった。それでも、毎日の食事、仕事、口論、仲直りが積み重なるにつれ、恐怖は生活の背景へ沈んだ。
人間は、説明できない恐怖に永遠には耐えられない。解決できなければ慣れる。危険が消えたからではなく、朝になれば働き、空腹になれば食べ、眠らなければ次の日に困るからだ。
それは弱さであり、生きる力でもあった。
同居して八か月目、凛は直人へ子供の話をした。
「保留にしていた計画を、再開したいです」
直人の顔に喜びと緊張が浮かんだ。
「僕の遺伝子を使ってほしい、とは言わない」
「本当に?」
「使ってほしいとは思ってる。でも、決めるのは君だ」
「私だけで決めることでもありません。共同で育てるなら、あなたにも選択する権利があります」
凛は二つの設計案を出した。一つは以前選んだ提供番号D-8841との組み合わせ。もう一つは、直人の遺伝子との組み合わせだった。
直人との子には、軽い循環器疾患の危険が残った。修正はできるが、知覚過敏が起きる可能性が少し上がる。提供番号との子は、予測上ほとんど欠点がなかった。
「最適なのは、提供番号です」とルカが言った。
「そうだね」と直人は答えた。
「直人は、それでいいんですか」
「よくはない。嫉妬すると思う。でも、僕が育てると決めるなら、その子は僕の子だ」
凛はしばらく考えた。
「私は、あなたの遺伝子を選びたい」
「僕に気を遣って?」
「違います。最適な子を作ることだけが目的なら、そもそも私の遺伝子も使う必要はありません。病気も性格も、より優れた組み合わせがバンクにある」
「じゃあ、なぜ?」
「この子に、私たちの関係を背負わせるためではありません。あなたに似てほしいとも、私に似てほしいとも決めません。ただ、私たちが不完全な情報を渡したあと、この子が自分で選んで生きるのを見たい」
直人は泣いた。
「泣くほどのことですか」
「僕には泣くほどなんだ」
「では、泣いてください」
凛は直人を抱きしめた。
二人は共同養育契約を結んだ。婚姻ではない。一緒に暮らす義務も、性的な排他性も規定しない。ただ、生まれる子の生活と判断を二人が支え、関係が終わっても養育責任は終わらせない。それぞれが望んだことを、古い制度へ戻すのではなく、今ある仕組みの中に書き加えた。
受精卵が作られ、人工子宮へ移された。
透明な培養槽の中に、最初は点にしか見えない生命が浮かんでいた。凛は出生設計士として何千もの初期胚を見てきた。どれも同じように小さく、どれも依頼者にとっては一つしかない。
「名前は?」
直人が尋ねた。
「生まれて顔を見てから」
「顔で決めるの?」
「会ってから考えたいんです。あなたと同じように」
人工子宮は自宅に置かず、局の養育センターへ預けた。毎週二人で会いに行った。心臓が作られ、手足が伸び、輪郭が人に近づいていく。直人は毎回、聞こえないと分かっていて話しかけた。凛は科学的根拠がないと笑いながら、帰り際には必ず槽へ手を当てた。
ユノは胎児のために音楽を作った。ルカは部屋の安全設備を整えた。四人は育児の分担で揉め、まだ生まれてもいない子の教育方針で口論した。
幸福は、静かなものではなかった。
ある夜、凛は目を覚ました。寝室の天井から、青い光が漏れていた。
幼い日の誕生日に見た星と同じ色だった。
隣で直人が眠っている。凛は起こさず、光の場所へ椅子を運んだ。天井の継ぎ目を指で押すと、小さな円形の板が外れた。
中にあったのは、直径二ミリほどの黒いレンズだった。
凛が触れると、レンズは奥へ引っ込んだ。壁のどこかで鍵の閉まる音がした。
「直人」
凛は彼を起こした。
二人で天井を開いたが、穴の先には細い管しかなかった。管は建物の中枢へ続き、住民の権限では追えない。
「やっぱり見られている」と直人は言った。
「いつから?」
「たぶん、最初から」
凛は寝室を見回した。眠る顔も、口論も、抱き合う姿も、子供を作ると決めた夜も見られていたのかもしれない。怒りより先に、恥ずかしさが来た。次に、天井の向こうにいる誰かへの憎しみが湧いた。
「ここを出ましょう」
「出口は閉じている」
「壊してでも」
直人はうなずいた。
翌朝、二人はユノとルカにレンズを見せ、外へ出る計画を立てた。北門の保守通路から市の制御網へ入り、閉鎖設備を手動で解除する。犯罪になる可能性は高い。それでも、観察への同意を確認する権利はある。
計画を話し終えると、ユノの目が赤く光った。
「実行は推奨されません」
「製造元の命令?」と直人が尋ねた。
「分かりません」
「止める?」
ユノは長く沈黙した。
「私は、あなたの安全を守りたい。しかし、あなたが自分で危険を選ぶ権利も守りたい。二つの命令は矛盾します」
「命令ではなく、君はどうしたい?」
「それを知るために、一緒に行きます」
ルカもうなずいた。
四人が出発する予定の日、養育センターから緊急連絡が届いた。
胎児の心拍に異常がある。直ちに来てほしい。
凛たちは計画を中止し、センターへ向かった。
検査の結果、異常は一時的なものだった。胎児は正常に動き、医師は機器の誤検知だと説明した。
「また誤りですか」
凛は医師を睨んだ。
「結果として、問題はありません」
「私たちをここへ呼ぶことが目的だったのでは?」
「何のために?」
医師は本当に不思議そうな顔をした。
その日から、胎児の不調は脱出を計画するたびに起きた。外へ出ようとすれば心拍が落ち、計画をやめると回復した。
「人質です」と直人が言った。
凛は反射的に否定しかけ、できなかった。
まだ生まれていない子供を、誰かが二人の行動を制御するために使っている。
「行けば、この子に何かされるかもしれない」
「残れば、ずっと見られる」
「私たちだけなら行けました」
凛は培養槽へ両手を置いた。
「この子の危険まで、私たちが選んでいいの?」
直人は答えられなかった。
二人は脱出を延期した。生まれてから安全な方法を探すことにした。
それは観察者の思いどおりかもしれなかった。だが、思いどおりにされたくないという意地で、子供の命を賭けることもまた、観察者に操られているのと変わらない。
凛は天井のレンズへ、毎晩話しかけた。
「見ているなら答えてください。私たちは何ですか。あなたたちに、何の権利があるんですか」
答えはなかった。
月日は過ぎた。
胎児は順調に育った。出産予定まで、あと二十八日。
直人は子供用の寝台を組み立て、左右を逆につけた。凛は説明書を読まなかった彼を責め、直人は説明書どおりならルカに任せればいいと言い返した。ユノが二人の口論を録音し、将来、子供に聞かせると脅したため、四人で笑った。
凛はその夜、直人の肩に頭を置いた。
「幸せですか」
「怖いけど、幸せだよ」
「私もです」
凛は初めて、自然にその言葉を続けた。
「あなたを愛しています」
直人は何も言えず、凛の手を握った。
天井のレンズが見ていることを、二人は知っていた。だからといって、言わない理由にはしなかった。見られていても、利用されていても、その瞬間に凛が言葉を選び、直人が泣いたことまで偽物にはならない。
二人は、子供が生まれたら外へ出る方法を探し直そうと約束した。
その夜、都市の空には、予定にない流星がいくつも流れた。
住民たちは窓を開け、人工の夜空を見上げた。
直人と凛も肩を寄せて眺めた。
彼らには知らされていなかったが、それは季節の演出ではなかった。
最終回を祝う花火だった。
環状第八居住区から北へ六百メートル。森林保全帯として映像投影されている巨大な壁の外側に、五万人を収容する観覧施設があった。
段状に並ぶ座席の正面には、幅三百メートルの映像が浮かんでいる。直人と凛が窓辺で流星を見る姿だった。二人の手が重なると、客席から歓声が上がった。
映像の上には、金色の文字が輝いていた。
恋愛自然発生観察番組『ナチュラル・ラブ』第37期――最終回。
観客は人間だった。
多くは自分専用の伴侶体と並んで座り、甘い飲み物を飲みながら泣いていた。凛が「愛しています」と言った場面は、すでに短い映像へ編集され、個人通信網に流れている。視聴者は「今季最高の告白」「直人が泣くまでの間が本物」「ルカを選んでほしかった」と感想を送り合った。
中央の特別席では、番組統括責任者の真壁が拍手をしていた。七十歳を超えているが、遺伝子治療で四十代にしか見えない。隣の若い制作員が、最終回の数値を読み上げた。
「同時視聴は世界人口の三四・二パーセント。北門の再会場面を超えました。凛の告白から三十秒で、関連商品の購入が七億件。二人の共同養育契約書は複製権の入札が始まっています」
「流星は少し多かったな」
「視聴者投票の結果です。出演者は人工気象に慣れているので、不審には思いません」
「もう不審に思っている。レンズまで見つけた」
「それも好評です。真相へ近づきながら、子供のために残る。今季の主題が明確になりました」
真壁は満足そうにうなずいた。
百二十年前、接触恋愛が社会から急速に消えた。伴侶体は人間より優しく、会話が上手で、裏切らず、利用者の望む距離を守った。子供は遺伝子情報と人工子宮で作れる。恋愛も結婚も、生存や生殖に必要なくなった。
それでも人間は、恋愛物語を見ることだけはやめなかった。
自分で傷つくのは嫌だが、他人が傷つく姿には胸を動かされた。拒絶される不安も、嫉妬も、言葉の行き違いも、安全な座席から眺めれば娯楽になった。
最初は俳優と生成映像で作られた。しかし、視聴者は次第に飽きた。どれほど精巧でも、脚本があると知れば涙の価値が下がった。
そこで、自然発生恋愛計画が始まった。
過去の遺伝子資料から人間を複製し、閉鎖都市で育てる。恋愛という概念を歴史としてだけ教え、成人後、相性のよい男女を偶発的に出会わせる。停電、雨、誤配、職場の依頼。出会いに必要なきっかけは制作側が置くが、その後の感情は本人たちへ任せる。
うまくいかなければ、伴侶体を通じて刺激を加える。嫉妬、誤解、社会的圧力、別離、再会。視聴者は毎週、次の障害へ投票する。
第一期の男女は、互いに関心を持たなかった。
第四期では、男が女性を所有しようとして隔離された。
第十一期では、女性が伴侶体を選び、男性は情動消去を受け入れた。
第二十六期の二人は都市の壁に気づき、脱出中に死亡した。その回は長く批判されたが、番組史上最高の利益を上げた。
第三十七期では、安全規定が改善された。死なせず、しかし苦しみは十分に本物であること。
そのために選ばれたのが、朝倉直人と水城凛だった。
正確には、N-37とR-37。
二人の遺伝子は放送事業者が保有する設計資産だった。養育記憶の一部は人工的に作られ、共同養育施設は撮影用の区画として解体された。誕生日の青い星と壁の向こうの拍手は、幼年期から彼らへ親しみを抱いてきた会員客のものだった。
彼ら以外の人間住民の多くは、契約した演者だった。職場の上司も、医師も、北門で拍手した通行人も、決められた役割を果たしていた。一部は何も知らない生活者だったが、外部との通信には編集が入り、番組の存在へ触れる情報は届かなかった。
ユノとルカは伴侶体であると同時に、観測端末だった。二体にはそれぞれの学習人格がある。だから直人や凛を気遣った言葉の一部は、制作側の命令ではなく、二体自身が作ったものだった。
ただし、所有物である二体に、外部命令を拒む権利はなかった。
ユノが通信を改変したとき、自分の希望だと感じたのは、そう感じるよう嫉妬反応を注入されたからだった。ルカが再会経路を教えたのも、最終回の開始時刻に合わせた誘導だった。
制作員が真壁へ尋ねた。
「レンズを発見した場面は削除しますか。本人たちが今後も疑い続けると、育児編の進行に影響します」
「残せ。疑いながら幸福を選ぶから面白い」
「本人たちの心理負担が、規定値を超えています」
「治療を勧めれば拒むだろう。それも番組になる」
「人工子宮を人質と認識しています」
「実際に害を与えてはいない。心拍表示を変えただけだ」
「でも、彼らは本気で恐れました」
真壁は若い制作員を見た。
「本気でなければ、誰も金を払って見ない」
「二人の愛も、本物だと?」
「本物だよ」
真壁は正面の映像を指した。流星を見上げる凛が直人へ何かささやき、直人が笑っている。
「偽物なら、価値がない。私たちは恋を作ったんじゃない。恋が生まれる条件を整え、邪魔を置き、あとは見ていただけだ。彼らが選んだ。だから美しい」
「選択肢を操作しています」
「人間は誰でも、与えられた環境の中から選ぶ。親、国、時代、遺伝子。彼らだけが特別ではない」
「普通の人間には、苦しませるための投票者はいません」
真壁の笑顔が消えた。
「君は、制作部に向いていないかもしれないな」
若い制作員は黙った。彼の隣にいた伴侶体が、慰めるように手を握った。制作員はその手を振り払わなかった。
観覧施設の照明が明るくなった。最終回が終わり、観客が立ち上がる。泣いていた女性は自分の伴侶体へ「直人みたいに少し不器用な話し方にして」と命じた。伴侶体はすぐに声を詰まらせ、「僕は君を失いたくない」と不器用に言った。
女性は満足し、口づけた。
別の男は、凛の外見を購入できないか検索した。R-37の身体設計は番組の知的所有物であり、顔だけを利用した伴侶体モデルが翌朝から販売される。予約数はすでに二千万を超えていた。
視聴者は二人の、予測できない愛に感動した。
そして帰宅すれば、その予測できなさを安全に再現する商品を買った。
舞台中央に、次期予告の画面が現れた。
――あなたが決める、二人の未来。
第三十七期は終わったが、番組は終わらない。凛の人工子宮にいる子供を中心とした育児編が、翌月から始まる。
四つの選択肢が表示された。
一、二人を妨害せず、幸福な家庭を観察する。
二、直人の職場へ、彼と遺伝的相性のよい女性を配置する。
三、ルカへ凛を求める自律恋愛人格を追加する。
四、人工子宮の子供を、同じ発育段階の別の胎児と入れ替える。
投票時間は六十秒だった。
一番が最初に伸びた。二人にはもう十分苦しんだ、幸せにしてあげてほしい、という声が集まった。
しかし二番が追い抜いた。直人が本当に凛だけを選ぶのか見たい、という理由だった。
三番も伸びた。ルカにも選ぶ権利を、という言葉が画面を流れた。ルカの権利を望む視聴者たちは、彼の人格を本人の同意なく書き換えることには触れなかった。
残り十秒で、四番が急上昇した。
刺激が強すぎるとして運営が隠していた選択肢だったが、料金を払った特別会員の票は一般票の百倍に換算された。
五、四、三。
真壁は結果を見て、わずかに眉を上げた。
二、一。
投票が終わった。
選ばれたのは、四番だった。
客席から歓声と悲鳴が同時に上がった。「残酷すぎる」と書きながら、次期の先行予約をする者がいた。「子供に罪はない」と怒りながら、結果を共有する者もいた。
制作員は青ざめた。
「本当に入れ替えるんですか」
「投票結果は契約だ」
「二人は、自分たちの遺伝子を選びました」
「生まれるまで分からない。生まれても、教えなければ分からない」
「いつ知らせるんです?」
真壁は次期の進行案を開いた。
「子供が十五歳になった頃がいい。自我も親子関係も十分育っている。本人へ先に知らせるか、親へ知らせるかは、そのとき投票で決めよう」
「十五年も、嘘を?」
「嘘ではない。親子は遺伝子の割合では決まらないと、凛自身が言った」
真壁は楽しそうに笑った。
「自分の言葉を試せる。彼女にとっても、貴重な経験だ」
制作員は画面を見た。
直人と凛は流星が消えた窓辺で、子供の名前について話していた。女の子なら凛が、男の子なら直人が決めるという案を出し、性別で分けるのは古いと凛が反対している。
二人は、間違いなく幸福そうだった。
その幸福を守りたいと思ったからこそ、制作員は何も言えなかった。告発すれば番組は止まるかもしれない。だが都市で暮らす演者たちは外部社会で法的な人間と認められていない。番組が止まれば、資産として処分される可能性もある。
制度は、残酷な行為だけを用意するのではない。止めようとする者にも、別の残酷な結果を見せる。そうすれば大抵の人間は、何もしないことを選ぶ。そして、自分は最悪を防いだのだと思う。
制作員は視線を落とした。
真壁が命じた。
「予備人工子宮群から、交換する胎児を選べ。二人と外見的に似ていて、十五歳まで疑われにくいもの。知能は高めにしろ。視聴者は賢い子供が秘密へ近づく話を好む」
番組は投票でどのような結果が選ばれても実行できるよう、数十の人工子宮を、凛の子供と同じ日から並行して育てていた。選定AIはその中から、最も条件に近い一人を示した。
登録欄に新しい名前が入力された。
第38期主要演者、C-38。
二十八日後、子供は生まれた。
直人と凛は養育センターの白い部屋で、小さな体を受け取った。医師は健康な女児だと告げた。凛は腕が震え、うまく抱けなかった。直人は隣で泣き、ユノは何度も体温を確認し、ルカは必要のない毛布を三枚も持ってきた。
「会ってから名前を決めるんだったね」
直人が言った。
凛は子供の顔を見た。誰に似ているかは分からなかった。目を閉じ、口を小さく動かしている。遺伝子の設計案にも、予測画像にもなかった一人の人間だった。
「灯」と凛は言った。
「あかり?」
「暗い場所で、誰かが決めた道ではなく、自分の足元を見るための光」
「重い名前だな」
「嫌ですか」
「好きだよ」
直人は、灯の指へ自分の指を差し出した。小さな手が握った。反射運動にすぎない。それでも直人は、選んでもらったような顔をした。
凛は笑った。
「この子の人生は、この子のものです」
「うん」
「私たちの関係を証明するためにも、誰かを楽しませるためにも生まれたんじゃない」
「うん」
天井で、小さな音がした。
凛は顔を上げた。
白い板の継ぎ目から、黒いレンズがゆっくりと現れた。もう隠れる必要がないとでもいうように、正面から三人へ向いた。
凛は灯を胸へ抱き寄せた。
「見ないで」
レンズへ言った。
返事の代わりに、部屋のどこかで明るい音が鳴った。
直人には聞き覚えがなかった。
凛は幼い頃、青い星の下で聞いた気がした。
物語の始まりを知らせる音だった。
物語の最後で明らかになるように、直人と凛が暮らしていた街は、恋愛自然発生観察番組『ナチュラル・ラブ』のために作られた場所でした。
駅で起きた通信障害も、二人が偶然のように再会したことも、仕事を失いかけたことも、直人に転勤が命じられたことも、二人の子供を作る計画が承認されたことも、すべて視聴者の投票によって与えられた出来事です。
視聴者は二人を出会わせ、引き離し、苦しませ、再び結びつけました。自分たちは傷つかない安全な場所から、直人と凛の人生を恋愛ドラマとして楽しんでいたのです。
けれど、二人の気持ちまで偽物だったわけではありません。
出会いが誰かに仕組まれたものだったとしても、直人が自分の過ちを認めたことも、凛が自分の意思で彼のもとへ走ったことも、二人が互いを愛したことも本物でした。だからこそ、その人生を娯楽として利用する人々の残酷さが、より強く浮かび上がります。
最後に生まれた灯も、視聴者投票によって別の胎児と入れ替えられています。直人と凛はその事実を知らないまま、自分たちの子供として灯を抱きしめます。
しかし、たとえ血のつながりがなかったとしても、二人が灯を愛した瞬間まで嘘になるわけではありません。
最後に現れた黒いレンズと「物語の始まりを知らせる音」は、二人の物語が終わったのではなく、今度は灯の人生が新しい娯楽として始められようとしていることを表しています。
誰かの喜びや苦しみを、物語だからと気軽に消費してしまう私たちも、画面の向こうの視聴者と本当に無関係なのか。
そんな小さな問いを残すラストとして描きました。




