第7話 元婚約者の来訪と「返却」
応接室のソファに座る男は、絶え間なく貧乏ゆすりを繰り返していました。
案内されて部屋に入った私は、その姿を見て一瞬、言葉を失いました。
かつて煌びやかな衣装で着飾っていたローランド王子。
今の彼は、サイズが合わない従者の服を身にまとい、頬はこけ、目の下には濃い隈を作っています。
「……遅い! どれだけ待たせる気だ!」
私を見るなり、王子はしわがれた声で叫びました。
その声にも、かつての張りはありません。
ルーカス様が私の腰に手を添えたまま、冷ややかに言い放ちます。
「待たせた覚えはない。勝手に押しかけてきたのはそっちだ、オウェル王太子」
「黙れ! 俺はヴィオラに用があるのだ!」
王子は充血した目で私を睨みつけました。
その視線には、焦りと、隠しきれない苛立ちが混じっています。
「ヴィオラ。迎えに来てやったぞ」
彼は尊大にふんぞり返ろうとしましたが、ソファに深く沈みすぎて格好がつきません。
「城が……少し不便でな。お前がいないと、どこに何があるか分からん無能なメイドばかりだ。だから、特別に戻ることを許してやる」
「……は?」
「感謝しろ。今なら『側室』として迎えてやる。正妃はミナだが、お前には城の管理という仕事をくれてやる。光栄だろう?」
私は耳を疑いました。
この期に及んで、まだ自分が上の立場だと思っているのでしょうか。
城の備品も、金も、服すらもない状況で、よくこれだけの虚勢を張れるものです。
私は深くため息をつきました。
「お断りします」
「……何だと?」
「私は現在、レグルス帝国の公爵家と正式に雇用契約……いえ、婚約をしております。オウェル王国に戻る気はありません」
きっぱりと告げると、王子の顔色がどす黒く変色しました。
「ふざけるな! たかが倉庫番の分際で! 俺が下手に出ればつけあがりおって!」
彼はバンとテーブルを叩きました。
「なら、返せ! お前が盗んだものを全部だ! 服も、宝石も、書類も、鍋の一つに至るまで! あれがないと生活できんのだ!」
「盗んだのではありません。殿下が『全て持って行け』と命じたのです」
「屁理屈はどうでもいい! 今すぐここに出せ! 全部だ!」
王子が唾を飛ばして喚き散らします。
その見苦しさに、隣のルーカス様からピリピリとした殺気が漏れ始めました。
「……ヴィオラ。こんな男の戯言、聞く必要はない。追い出そう」
「いえ、ルーカス様」
私は彼の腕をポンと叩いて制しました。
ここで追い返しても、また来るでしょう。
それに、「返せ」と言われたのなら、お返しするのが元管理者の務めです。
私は一歩前へ出ました。
そして、王子の頭上に手をかざします。
「わかりました。そこまで仰るなら、お返しします」
「ふん、最初からそうすればいいのだ。さあ、俺の豪華な衣装と、ふかふかの寝具を……」
「収納、検索」
私は脳内のリストを操作しました。
『オウェル城回収物』の中から、特定のタグがついているものを抽出します。
タグ名は――『不要物』。
「放出」
ドサッ!
「……へ?」
王子の頭上に落ちてきたのは、豪華な衣装ではありませんでした。
ボトボトボトッ!
次々と落下してくる物体。
それは、洗濯する前の汗ばんだ下着。
生ゴミとして処理する予定だった腐りかけの野菜。
穴の空いた靴下。
そして、城の清掃で集めた大量の塵と埃。
「ぐわっ!? な、なんだこれ!? 臭い! 汚い!」
王子は悲鳴を上げ、ゴミの山に埋もれていきます。
私は手元の扇で鼻を覆いました。
「おや、失礼。殿下が『全て』と仰ったので、私が回収したもののうち、こちらの屋敷では不要なものをお返ししました」
「き、貴様ぁぁぁ!」
王子は生ゴミの汁で汚れた顔を上げ、激昂しました。
頭には魚の骨が乗っています。
「ふざけるな! 金だ! 金目のものを出せと言っているんだ!」
「金目のものは、私の慰謝料と未払い給与として相殺させていただきました。残っているのはその『ゴミ』だけです」
「ぶ、無礼者! 殺してやる!」
王子は腰の剣に手をかけようとしました。
しかし、剣はありません。
私が回収したままですので、彼が腰に差しているのは、ただの棒切れです。
それに気づいた彼は、テーブルの上のナイフに手を伸ばしました。
その瞬間。
ゴォォォォォ……ッ。
部屋の温度が、氷点下まで下がりました。
窓ガラスが音を立てて凍りつき、王子の動きがピタリと止まります。
「……死にたいのか?」
地獄の底から響くような声。
ルーカス様が、右手を王子に向けていました。
その掌には、鋭利な氷の槍が渦巻いています。
「僕の婚約者に刃物を向けたその手。……今すぐ切り落とされたいか?」
「ひっ、ひぃっ!」
王子は腰を抜かし、ゴミの山の上で尻餅をつきました。
帝国の筆頭魔導師、その本気の殺気。
魔力を持たない王子でも、本能で理解したのでしょう。
動けば、死ぬと。
「ヴィオラ、下がって。この汚物を掃除する」
ルーカス様の瞳は、完全に据わっていました。
彼は本気です。
このままでは、オウェル王国の王位継承権第一位が、氷の彫像になってしまいます。
私は静かに、しかし素早くルーカス様の前に立ちました。
「お待ちください、ルーカス様」
「止めるのか? こいつは君を侮辱した」
「ええ。ですが、ここで彼を殺しては、国際問題になります。せっかくの私たちの生活が、台無しになってしまいます」
私は王子の前にしゃがみ込み、ニッコリと微笑みました。
ゴミまみれの王子は、ガタガタと震えながら私を見上げています。
「ローランド殿下。お引き取りください。これ以上騒ぐなら、次は城の『汚水タンク』の中身をお返しすることになりますが?」
「ひっ……!」
王子は弾かれたように立ち上がりました。
そして、捨て台詞を吐く余裕もなく、転がるように部屋を出て行きました。
魚の骨を頭に乗せたまま。
バタン、と扉が閉まります。
応接室には、静寂と、生ゴミの臭いだけが残りました。
「……あーあ。カーペットが汚れてしまいましたね」
私がため息をつくと、ルーカス様が背後から私を抱きしめました。
彼の体は、まだ怒りで小刻みに震えています。
「……ごめん。我慢できなかった」
「いいえ。守ってくださって、ありがとうございます」
私は彼の手を握り返しました。
これで諦めてくれればいいのですが。
けれど、私は知っていました。
愚かな人間ほど、自分の非を認められず、より大きな力を借りて報復しようとするものだと。
「掃除、手伝いますね」
「うん……」
私たちは、二人で静かにゴミの後始末を始めました。
それが、私たちの新しい日常を守るための儀式であるかのように。




