第10話 愛おしき荷物たち
重厚なガラス扉を開け放つと、夜の冷気がドレスの肌を心地よく撫でました。
バルコニーは静寂に包まれていました。
背後にあるパーティー会場の喧騒が、まるで遠い異国の出来事のように微かに聞こえるだけです。
手すりの向こうには、帝都の夜景が宝石箱をひっくり返したように輝いています。
「……綺麗な夜だね」
隣に並んだルーカス様が、夜空を見上げて呟きました。
月明かりに照らされた彼の横顔は、出会った頃よりも少し大人びて、頼もしさを増しています。
けれど、私に向ける眼差しの優しさだけは、あのゴミ屋敷でスープを飲ませた時から変わりません。
「ええ。最高の誕生日プレゼントです」
私は手すりに寄りかかり、夜風を吸い込みました。
これまでの人生で、数えきれないほどの夜を過ごしてきました。
オウェル城で一人、帳簿と向き合った孤独な夜。
追放され、見知らぬ国へと向かった不安な夜。
そして、この人と出会い、愛を知った温かい夜。
その全てが積み重なって、今のこの景色があるのです。
「ヴィオラ。改めて、おめでとう」
ルーカス様が私の手を取り、指先に口づけを落としました。
「君が生まれてきてくれてよかった。僕を見つけてくれて、本当によかった」
「……もう、ルーカス様ったら」
私は照れ隠しに笑いました。
でも、胸の奥がじんわりと熱くなります。
「私の方こそ、感謝しています。あの日、あなたが私の作ったスープを『美味しい』と言ってくれたから。私の魔法を『美しい』と言ってくれたから。だから私は、自分の価値を信じることができたのです」
私はポシェットから、愛用の「黒い木箱」を取り出しました。
かつては世界を救う鍵であり、今は娘のおもちゃ箱。
そして私にとっては、人生の記録そのものです。
蓋を開けると、中はガランとしていました。
オウェル領での在庫処分を経て、過去の遺物はもうありません。
あるのは、リナが入れたどんぐりや、キラキラした石ころだけ。
隙間だらけの、愛おしい空間です。
「空っぽになっちゃったね」
ルーカス様が箱を覗き込みました。
「いいえ、空っぽではありませんよ」
私は首を横に振りました。
「ここには、未来を入れるためのスペースがあるんです。無限の、可能性のスペースが」
私は箱を夜空に向けました。
星の光が、箱の中に吸い込まれていくように見えます。
「収納、保存」
私は小さく唱えました。
物理的な物は何も入れません。
ただ、今のこの瞬間。
頬を撫でる風の温度。
遠くから聞こえる笑い声。
隣にいる人の体温。
そして、胸いっぱいに広がる幸福感。
それら全てを、記憶として、空気として、箱の中に閉じ込めました。
『保存完了。カテゴリ:永遠の宝物』
箱から微かな光が溢れ、そして静かに消えました。
目には見えません。
でも、私にはわかります。
この箱はずっと重くなったと。
「……何を入れたんだい?」
「内緒です。私だけの、とっておきのコレクションですから」
私は悪戯っぽく微笑んで、箱の蓋をパタンと閉じました。
大切なものは、目に見えないことが多いのです。
それを知ることができたのも、この魔法のおかげかもしれません。
「ヴィオラ」
ルーカス様が私を抱き寄せました。
彼の腕の中にすっぽりと収まると、世界で一番安全な場所にいるような気がします。
「君の荷物が重くなったら、いつでも言ってくれ。僕が半分、いや全部持つから」
「ふふ、頼もしいですね。でも、半分でいいですよ」
私は彼の胸に頬を寄せました。
「重さを分け合うのも、夫婦の楽しみですから」
「……そうだね。じゃあ、一緒に持とう。これからもずっと」
私たちは星空の下、静かに口づけを交わしました。
長く、甘く、そして深い口づけ。
言葉などなくても、心と心が溶け合っていくのがわかります。
遠い昔。
ある夜会で、私は言われました。
『君の荷物は邪魔だ。全て持って行け』と。
あの時の私は、絶望の淵にいました。
自分には何もないと思っていました。
でも、それは間違いでした。
私は全てを持って出たのです。
自分の足で歩く自由を。
自分の手で掴む未来を。
そして、何よりも大切な、自分自身という荷物を。
城の中身を空にして、私はここに来ました。
そして今、私の手の中には、城一つ分よりもずっと価値のある、温かな愛が満ちています。
「帰りましょうか、ルーカス様。リナと、みんなが待っています」
「ああ。帰ろう」
私たちは手を繋ぎ、バルコニーを後にしました。
背後で、夜風が優しく吹き抜けていきます。
私の人生という名の収納は、まだまだ容量がいっぱいになりそうにありません。
明日も、明後日も。
愛しい荷物たちは、増え続けていくのでしょうから。
本当に、素敵な「拾い物」だらけの人生です。
「荷物は全部持って行け」と言われたあの日。
全ての家財道具を持って城を出た私の選択は、間違いなく「大正解」だったのです。
(完結)
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