第5話 ダンジョン・ロジスティクス
帝国の歴史書には、十年に一度、地脈の乱れにより魔物が溢れ出す「氾濫」が起きると記されています。
その警報は、唐突に鳴り響きました。
カン、カン、カン!
塔の外から、早鐘の音が聞こえてきます。
私は干していたシーツを急いで取り込みながら、空を見上げました。
遠くの空が、不気味な紫色に淀んでいます。
「ヴィオラさん!」
ルーカス様が階段を駆け下りてきました。
いつもの寝ぼけ眼ではありません。
その瞳は鋭く、冷徹な「氷の公爵」の色をしていました。
「緊急招集だ。北の渓谷で大規模なスタンピードが起きた。僕も行かなきゃならない」
彼は素早く外套を羽織りました。
「留守を頼む。戸締りをして、決して外には出ないように」
「お待ちください」
私は彼の袖を掴みました。
「補給は? 騎士団の兵站はどうなっているのですか?」
「……最悪だ。発生が急すぎて、輜重隊の馬車が間に合わない。現地へ着く頃には、前線の武器も食料も尽きているだろう」
ルーカス様は苦虫を噛み潰したような顔をしました。
強力な魔法使いがいても、それを守る壁役の騎士たちが飢えて倒れれば、戦線は崩壊します。
私は即座にエプロンの紐を締め直しました。
「では、私も行きます」
「は? 駄目だ! 戦場だぞ!」
「戦場だからこそです。私の『収納』があれば、輜重隊を待つ必要はありません。武器も、食料も、薬も、数千人分なら余裕で運べます」
「でも……!」
「ルーカス様」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめました。
「あなたは前線で魔法を撃ち続ける。その間、誰があなたの背中を守る騎士たちに飯を食わせるのですか? 冷たい乾パンで戦えますか?」
彼は言葉を詰まらせました。
私の頑固さを知っている彼は、やがて深くため息をつきました。
「……わかった。ただし、僕の半径五メートル以内から離れないこと。いいね?」
「承知いたしました。最強の護衛がいるなら安心ですね」
◇
戦場は地獄の様相でした。
オークやゴブリンの群れが、黒い波のように押し寄せています。
騎士たちは必死に剣を振るっていますが、疲労の色は隠せません。
剣は刃こぼれし、鎧は凹み、動きが鈍っています。
「氷結」
ルーカス様が杖を振るうと、最前線の魔物数十体が瞬時に氷像へと変わりました。
さすがの威力です。
ですが、敵の数が多すぎます。
「くそっ、予備の剣がない!」
「腹が減って力が入らねぇ……」
騎士たちの悲鳴が聞こえました。
補給部隊はまだ到着していません。
このままではジリ貧です。
「ルーカス様、今です!」
私は彼の背中に隠れながら叫びました。
「展開許可を!」
「頼む、ヴィオラ!」
合図と共に、私は前に出ました。
戦場に似つかわしくない、白いエプロン姿で。
「収納、検索・抽出――『騎士団用武装セットA』」
私は虚空に手をかざしました。
ズラララッ!
騎士たちの目の前に、研ぎ澄まされた剣、新品の盾、そして回復ポーションの山が出現しました。
オウェル城から「回収」しておいた、最高品質の予備装備です。
「な、なんだこれ!?」
「新品の剣だ! ポーションもあるぞ!」
「使ってください! 在庫は無限にあります!」
私は声を張り上げました。
騎士たちは驚愕しつつも、新しい武器を手に取り、ポーションを煽りました。
生気が戻った彼らは、再び魔物の群れへと突っ込んでいきます。
ですが、まだ足りません。
武器があっても、体力が尽きれば終わりです。
空腹は士気を下げます。
「次、行きます!」
私は収納リストを高速でスクロールしました。
オウェル城の厨房にあった食材。
昨夜、私が大量に仕込んでおいた作り置き。
収納内は時間が止まっています。
つまり、「出来立て熱々」のまま保存されているのです。
「給仕の時間です!」
私は戦場の後方に、長机を展開しました。
そして、その上に次々と「それ」を並べていきます。
湯気の立つ大鍋。
具沢山の豚汁。
握りたての塩おにぎり。
そして、肉厚のローストチキン。
殺伐とした戦場に、暴力的なまでに食欲をそそる香りが広がりました。
「……え?」
「いい匂いがするぞ?」
騎士たちが鼻をヒクつかせながら振り返りました。
「交代で食事を摂ってください! 温かい豚汁とおにぎりです! スタミナがつきますよ!」
私はお玉を持って叫びました。
戦場で、豚汁。
常識外れもいいところですが、効果は絶大でした。
「う、うめぇぇぇ!」
「温かい! 体が熱くなる!」
「生き返るぞ!」
傷ついた騎士たちが、涙を流しながらおにぎりを頬張っています。
冷え切った体に、熱い汁物が染み渡ります。
ただの食事ではありません。
これは「生きる希望」です。
「補給部隊が来たぞー! いや、女神様だ!」
「俺たちの後ろには女神がついている! 負ける気がしねぇ!」
騎士団の士気が、爆発的に跳ね上がりました。
腹が満ち、武器が新品になった騎士たちは、鬼神の如き強さで魔物を押し返していきます。
「すごい……」
ルーカス様が、魔法を撃ちながら呟きました。
その横顔には、呆れと、そして深い誇らしさが滲んでいました。
「兵站を一瞬で解決するなんて。君一人で、一個師団以上の価値があるよ」
「褒め言葉として受け取っておきます。さあ、ルーカス様も」
私は彼に、特製のハチミツレモン水を差し出しました。
魔力消費には糖分が必要です。
「ありがとう」
彼はそれを一気に飲み干すと、ニヤリと不敵に笑いました。
魔力が満ち溢れるのがわかります。
「さて、僕の女神にかっこいいところを見せないとね」
彼は杖を高く掲げました。
空気が凍りつきます。
「全軍、突撃! 僕が道を切り開く!」
その日。
帝国の歴史上初めて、「死傷者ゼロ」でのスタンピード鎮圧が成し遂げられました。
戦場の中心で、エプロン姿の女性が豚汁を配っていたという伝説と共に。




