第5話 元王子との商談
ギィィ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉がわずかに開きました。
隙間から覗いたのは、落ち窪んだ目と、白髪の混じったボサボサの髪。
かつて「太陽の君」と呼ばれた美貌の王子の面影は、どこにもありませんでした。
薄汚れた服を着たその男は、眩しそうに目を細め、私たちを見ました。
「……どちら様で」
彼は私を見ても、すぐに誰だか気づきませんでした。
それもそうでしょう。
私が着ているのは上質な旅装束、隣には威風堂々とした公爵、そして愛らしい娘。
今の彼とは住む世界が違いすぎます。
「お久しぶりです、ローランド様。エルロッド商会のヴィオラです」
私が名乗った瞬間、彼の顔色が土気色に変わりました。
「ヴィ、ヴィオラ……? まさか、そんな」
彼は後ずさり、自分の惨めな姿を隠そうとするように身を縮めました。
かつて私を「地味だ」と嘲笑った男が、今は私の視線に耐えられずに震えています。
「うぅ……うぅ……」
小屋の奥から、苦しげな呻き声が聞こえました。
部屋の隅、藁を敷いた粗末なベッドに、骨と皮だけになった元国王が横たわっていました。
熱にうなされ、虚空に向かって手を伸ばしています。
「ロケット……私の、愛しい……」
ローランド様はハッとして、床に額を擦り付けました。
土下座です。
プライドの塊だった彼が、なりふり構わず頭を下げています。
「頼む! ヴィオラ、いや公爵夫人! 手紙を読んでくれたのならわかるだろう! 母上のロケットを、父に返してくれ!」
「……返してくれ、ですか」
私は冷静にその言葉を繰り返しました。
ルーカス様が、無言で私の肩に手を置きます。
彼の体温が、私に落ち着きを与えてくれます。
「勘違いしないでください。あれは私が盗んだものではありません」
私は静かに告げました。
「あの日、あなたは言いましたね。『君の荷物は邪魔だ』『全て持って行け』と。ですから私は、その命令に従って正規の手続きで回収したのです。あれは正当な私の所有物です」
「わかっている! 私が愚かだった! だから買い戻したいと言っているんだ!」
「買い戻す? 失礼ですが、今のあなたにそれだけの資産があるようには見えませんが」
私は荒れ果てた室内を見渡しました。
金目のものは何一つ残っていません。
「命ならある! これから一生かけて働いて返す! 奴隷にでも何にでもなってやる! だから……父の最期だけは、安らかに逝かせてやりたいんだ!」
彼は涙を流して叫びました。
その姿に、私は少しだけ驚きました。
自分勝手で傲慢だった彼の中に、これほど強い「父への愛」が残っていたとは。
どうやら、失って初めて気づく大切さがあるというのは、本当のようです。
「……わかりました」
私はポシェットから「黒い木箱」を取り出しました。
そして、その中から一つのペンダントを取り出しました。
金の鎖、繊細な彫刻。
前王妃様のロケットです。
「ああっ、それだ……!」
ローランド様が手を伸ばそうとしましたが、私はそれを引いて躱しました。
「タダでは渡しません。これは商談です」
「な、何を……金なら……」
「金貨など要りません。私が欲しいのは、もっと確かな『精算』です」
私はロケットを指先で弄びながら、彼を見下ろしました。
「ローランド様。私はあなたに感謝しているのです」
「……は?」
彼は呆けたように顔を上げました。
嫌味だと思ったのでしょう。
ですが、私の声には一点の皮肉もありませんでした。
「あの日、あなたが私を追い出してくれなければ、私はルーカス様と出会うことはありませんでした。この子を産むことも、商会を作ることもできなかったでしょう」
私は隣の夫と、足元の娘を見ました。
リナは不思議そうに首を傾げています。
「あなたが私に『全て持って行け』と言ってくれたおかげで、私はその『荷物』を元手にして、世界一の幸せを掴むことができました。本当に、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げました。
それは、勝利宣言などではありません。
心からの、過去への決別でした。
ローランド様は口を開けたまま、言葉を失っていました。
怒りでも、悲しみでもなく。
ただ圧倒的な「格差」を見せつけられ、自分が捨てたものの大きさを理解したのでしょう。
彼の目から、光が消えました。
もう、私に嫉妬することさえできないほど、私たちは遠い場所にいるのです。
「商談を成立させましょう」
私はロケットを彼の前に置きました。
カチャリ、と乾いた音がしました。
「商品はこれです。対価は、あなたの『記憶』で結構です」
「記憶……?」
「ええ。今後一切、私のことを思い出さないでください。謝罪も、感謝も、後悔も不要です。ただ、私たちが存在しなかったかのように、静かに暮らしてください」
それが、私にとって一番の平穏です。
彼らの不幸を願うことも、幸福を祈ることもない。
ただの「無関係な他人」になること。
「……わかった。約束する」
彼は震える手でロケットを握り締めました。
そして、這いずるようにして父親の元へ行き、その手にロケットを握らせました。
「父上……母上が、迎えに来てくれましたよ」
元国王の表情が、ふっと安らぎました。
その光景を見て、私は踵を返しました。
もう、見るべきものは何もありません。
「行きましょう、ルーカス様。お腹が空きました」
「ああ。帰りの馬車で、サンドイッチでも食べようか」
私たちは小屋を出ました。
外の空気は、中よりもずっと澄んでいて、美味しく感じられました。
背後で、小屋の扉が閉まる音がしました。
それは、私の長い長い「悪役令嬢」としての物語が、完全に幕を下ろした音でもありました。
「ママ、あのおじちゃん、ないてたね」
リナが私の手を握りながら言いました。
「そうね。でも、あれは嬉しい涙よ。きっとね」
私は娘の手を握り返し、まっすぐに前を見据えました。
空は青く、風は心地よい。
さあ、家に帰りましょう。
私たちの、愛おしい荷物が待っている場所へ。




