第4話 オウェル王国の崩壊
平穏とは、淹れたてのコーヒーのような香りがするものだと初めて知りました。
レグルス帝国に来て数日が経ちました。
「賢者の塔」での生活は、驚くほど快適です。
朝、鳥のさえずりと共に目覚める。
洗いたてのシーツの感触を楽しむ。
そして、キッチンで朝食の支度をする。
「……おはよう、ヴィオラさん」
リビングに、寝癖をつけたルーカス様が現れました。
まだ眠そうに目を擦っていますが、顔色は以前とは比べ物にならないほど健康的です。
「おはようございます、ルーカス様。コーヒーが入っていますよ」
「ん……いい匂い」
彼は椅子に座り、私が差し出したカップを両手で包み込みました。
ボロボロだった研究着はもうありません。
清潔なシャツと、プレスされたズボン。
私が整えた銀髪が、朝日を浴びてキラキラと輝いています。
「どうですか、昨夜の研究は」
「最高だったよ。資料がすぐに見つかるんだ。探す時間がゼロになったから、計算に集中できる」
彼は嬉しそうに微笑みました。
「君が来てくれてから、研究スピードが三倍になった。君は僕の女神だ」
「女神ではなく、管理官です」
私は焼きたてのトーストにバターを塗りながら答えました。
照れ隠しに少しそっけなく返してしまいますが、悪い気はしません。
ここでは、私の「収納」も「管理能力」も、全てが感謝されます。
「邪魔だ」「貧乏くさい」と罵られた日々が、まるで遠い過去のようです。
窓の外には、穏やかな森と青空。
平和です。
本当に、平和そのものでした。
そう、ここ「レグルス帝国」では。
◇
一方その頃。
国境を越えた先にあるオウェル王国の王城は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていました。
「ない! ない! どこにもないぞ!」
ローランド王子の怒鳴り声が、ガランとした石造りの廊下に響き渡ります。
彼は真っ赤な顔で、騎士団長に詰め寄っていました。
「おい! 俺の着替えはどうした! いつまで寝間着でいさせるつもりだ!」
「も、申し訳ありません殿下! 衣装部屋が空っぽなのです! 礼服どころか、下着一枚残っておりません!」
「な、なんだと!?」
王子は絶句しました。
寒々しい石の床の上で、彼は薄手の寝間着一枚で震えています。
絨毯も、タペストリーも、暖炉の薪さえも消え失せているため、城内は極寒でした。
そこへ、文官が青ざめた顔で走ってきました。
「で、殿下! 大変です! 執務室の書類が……過去の政務記録も、税収の帳簿も、外交資料も、全て消えています!」
「はぁ!? 紙切れなどどうでもいい! それより飯だ! 朝食はまだか!」
「そ、それが……」
今度は料理長が、へたり込みながら現れました。
「厨房に……食材がありません。鍋も、包丁も、皿も、水瓶すら……」
「……は?」
王子は呆然と立ち尽くしました。
服がない。
書類がない。
飯がない。
城としての機能が、完全に停止していました。
「ど、泥棒だ……! 誰か入り込んだに違いない! 衛兵! 犯人を捕らえろ!」
王子が喚き散らしますが、側近たちは困惑した顔を見合わせるだけです。
やがて、年配の宰相が重い口を開きました。
「殿下。泥棒ではありません」
「何だと!? じゃあ誰がやったと言うんだ!」
「ヴィオラ様です」
その名を聞いた瞬間、王子の顔が憎悪に歪みました。
「あいつか! あの地味女か! やはり嫌がらせか! すぐに捕まえて処刑してやる!」
「お待ちください、殿下」
宰相は冷ややかな目で王子を見ました。
「ヴィオラ様は、殿下のご命令に従っただけです」
「は?」
「昨晩の夜会で、殿下は仰いましたね。『君の荷物は邪魔だ』『君が管理している私物は、全て持って行け』と」
「言ったが、それがどうした!」
「この城の備品、食料、衣服、そして書類。それらは全て、ヴィオラ様が私財で購入し、彼女の魔法で管理していたものです」
「……へ?」
王子の口が半開きになりました。
「つまり、殿下が『持って行け』と命じたから、彼女は『自分の管理物』を全て回収したのです。法的にも、彼女の行動は何一つ間違っておりません」
沈黙が落ちました。
冷たい風が、窓枠越しにヒューと吹き抜けます。
窓ガラスもヴィオラの所有物だったため、ありません。
「う……嘘だ……」
王子はガタガタと震え出しました。
「あいつが……あんな地味な女が、城の全てを管理していたと言うのか? そんなはずは……」
「事実です。我々は予算不足を、彼女の『収納』と『献身』に甘えて誤魔化していたのです」
宰相は深いため息をつきました。
「ちなみに、宝物庫の金貨もありません。あれも彼女の商会の売上でしたから」
「金も……ない……?」
王子は膝から崩れ落ちました。
今日、隣国からの使者を迎える予定がありました。
しかし、着る服もない。
出す食事もない。
座らせる椅子すらない。
国の威信は地に落ちるでしょう。
「ど、どうすれば……」
王子は涙目で宰相を見上げました。
「連れ戻すのです」
宰相は静かに告げました。
「ヴィオラ様がいなければ、この国は三日と持ちません。なんとしてでも彼女を見つけ出し、謝罪して、荷物を……いえ、城の中身を戻していただかねば」
「くっ……!」
王子は拳を石の床に叩きつけました。
痛みに顔を歪めますが、絨毯がないので当然です。
「わかった……捜索隊を出せ! あの女を引っ立ててこい! 俺に恥をかかせた罪、償わせてやる!」
「殿下、『丁重に』お連れするのです。これ以上怒らせたら、本当に国が滅びますぞ」
◇
「ん? くしゅん」
私は小さくくしゃみをしました。
誰かが噂でもしているのでしょうか。
「大丈夫? 風邪?」
ルーカス様が心配そうに覗き込んできます。
「いえ、なんでもありません。ただの埃でしょう」
私は微笑んで、空になったカップを片付けました。
オウェル城での騒ぎなど、知る由もありません。
仮に知ったとしても、「在庫管理の不手際ですね」と一蹴するでしょうけれど。
「さあ、今日はお天気がいいので、お布団を干しましょうか」
「うん。手伝うよ」
「あら、珍しい」
「君の役に立ちたいからね。それに……」
彼は少し顔を赤らめて、ボソッと言いました。
「君が洗ったシーツは、太陽の匂いがしてよく眠れるんだ」
平和な日常。
しかし、その平穏な日々に、元婚約者の魔の手が迫っていることになど、私はまだ気づいていませんでした。




