第9話 帰還、そして日常へ
平和とは、インクの匂いと紙擦れの音でできているのかもしれません。
帝都にあるエルロッド商会の本店。
その最奥にある執務室で、私は山積みになった書類と格闘していました。
北の大陸への遠征、そして世界規模の物流システムの再構築。
長期間現場を空けていたツケは、未決裁書類の山となって私の机を占拠していました。
「……ふぅ。これで三割、といったところでしょうか」
私はペンを置き、凝り固まった肩を回しました。
窓の外からは、活気に満ちた帝都の喧騒が聞こえてきます。
世界中からエラーの赤信号が消え、物流が正常化したことで、経済はかつてないほどの賑わいを見せていました。
コンコン、と控えめなノックの音がしました。
「どうぞ」
「失礼します、ヴィオラ様」
入ってきたのは、副店長に昇格したレオンでした。
彼は銀のトレイに手紙の束を乗せています。
「また来ましたよ。貴族院からの招待状に、隣国からの講演依頼。あと、これは皇宮からの親書です」
「……エリーゼ殿下からですね」
私は封を切り、中身を斜め読みしました。
内容は予想通りです。
『世界を救った功績を称え、最高位の勲章を授与したい』とのこと。
私は迷わず、白紙の羊皮紙を取り出しました。
「丁重にお断りします。『一介の商人に過ぎない私には分不相応です。それに、今は在庫整理で忙しいので』と」
「へへっ、さすが姉御。英雄なんて柄じゃないってか」
「ええ。銅像にされるより、帳簿を見ている方が落ち着きますから」
私は苦笑しました。
世界を救ったのは事実ですが、それはあくまで「商売のための環境整備」の一環です。
特別な地位や名誉は、かえって商売の邪魔になります。
私は公爵夫人であり、商会長である。
それ以上の肩書きは不要です。
「それにしても……」
ふいに、強烈な眠気が襲ってきました。
視界がぐらりと揺れます。
「姉御? 大丈夫か?」
「え、ええ。少し目眩が……。やはり、長旅の疲れが出たのかもしれませんね」
最近、どうも調子が優れません。
体が重く、熱っぽく、そしていくら寝ても眠いのです。
食欲もあまりありません。
地下迷宮や極寒の地での激務が、今になって体に跳ね返ってきたのでしょう。
「無理しすぎだぜ。旦那様も心配してたぞ」
レオンが言いかけた時、執務室のドアが勢いよく開きました。
「ヴィオラ!」
飛び込んできたのは、ルーカス様でした。
彼は息を切らし、血相を変えて私に駆け寄りました。
「レオンから聞いたよ。顔色が悪い。すぐに医者に見せよう」
「大げさですよ、ルーカス様。ただの過労です」
「ダメだ。君は我慢強いから、倒れるまで平気なふりをする」
彼は有無を言わさず私を横抱きにしました。
ふわっと体が浮き上がります。
抵抗しようと思いましたが、彼の腕の中があまりにも心地よくて、力が抜けました。
「……わかりました。降参です」
私は彼の首に腕を回しました。
世界を救うために命を燃やそうとした彼が、今は私の顔色一つで狼狽えている。
その過保護さが、今は愛おしく感じられます。
◇
屋敷に戻り、かかりつけの医師による診察を受けました。
ベッドに横たわる私の横で、ルーカス様が祈るように手を握りしめています。
まるで死刑宣告を待つ囚人のような顔色です。
「……先生。妻は、何か重い病気なのですか? 魔力欠乏症とか、古代遺跡の呪いとか……」
「落ち着いてください、公爵閣下」
年配の医師は聴診器を外し、眼鏡の位置を直しました。
そして、私とルーカス様を交互に見て、目尻を下げて微笑みました。
「病気ではありませんよ。むしろ、喜ぶべきことです」
「え?」
「おめでとうございます。ヴィオラ様のお体には、新しい命が宿っています」
一瞬、部屋の時が止まりました。
新しい、命。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかりました。
「……私が、母親に?」
私はそっと自分のお腹に手を当てました。
まだ平らで、何の変化も感じられません。
でも、ここに私とルーカス様の子供がいる。
世界で一番大切な、二人の愛の結晶が。
「あ……あぁ……」
ルーカス様が崩れ落ちるように膝をつきました。
彼は私の手を両手で包み込み、額を押し当てて震えています。
「よかった……本当によかった……」
「ルーカス様、泣かないでください」
「だって、嬉しいんだ。君と僕の家族が増えるなんて……夢みたいだ」
彼のアイスブルーの瞳から、大粒の涙が溢れ出しました。
かつて孤独の中にいた彼が、私と出会い、そして今、父になろうとしている。
その幸福が伝染して、私の目頭も熱くなりました。
「……ふふ、大変になりますね」
私は涙を拭う彼の手を握り返しました。
「私の『管理』すべき対象が、また一つ増えました。それも、とびきり手のかかる可愛い対象が」
「手伝うよ。オムツ替えも、夜泣きの相手も、僕が全部やる。君と子供のためなら、なんだってできる」
「頼もしいですね、パパ」
私がそう呼ぶと、彼は顔を真っ赤にして、それから世界一番幸せそうな笑顔を見せました。
窓の外では、帝都の空が茜色に染まろうとしています。
世界は平和になり、物流は巡り、人々は笑っている。
その日常の中で、私たちにも新しい未来が訪れようとしています。
「ありがとう、ヴィオラ。僕を世界で一番幸せにしてくれて」
「いいえ。幸せにしてもらっているのは、私の方ですよ」
私たちはキスをしました。
それは情熱的なものではなく、陽だまりのような、温かく優しいキスでした。
私の収納には、もうこれ以上ないほどたくさんの宝物が詰まっています。
でも、この新しい命のためのスペースだけは、特別に空けておかなければなりませんね。
「カテゴリS」の、最上位に。
数年後。
この子が大きくなったら、あの黒い木箱をおもちゃにして遊ぶ日が来るのかもしれません。
そんな未来を想像しながら、私は愛する人の腕の中で、幸せな微睡みに身を委ねました。




