第8話 春を呼ぶ風
世界が、白一色に染まりました。
私の視界を埋め尽くしたのは、雪でも氷でもありません。
魔力炉から溢れ出した、圧倒的な光の奔流でした。
「ぐっ……!」
爆風のような熱波が押し寄せます。
本来なら、私たちは消し炭になっていたでしょう。
ですが、そうはなりませんでした。
「させないよ!」
隣でルーカス様が叫びました。
彼が展開した何重もの氷の結界が、暴れ狂う熱エネルギーを包み込み、優しく、しかし力強く押さえ込んでいます。
氷と炎。
相反するはずの二つの力が、ここでは奇跡的なバランスで共存していました。
彼が私の「無茶」を、完璧な技術で「現実」へと変換してくれているのです。
「ヴィオラ! 今だ! 最後の押し込みを!」
「はいっ!」
私は「黒い木箱」を両手で握りしめ、残った全ての魔力を注ぎ込みました。
南の熱気を、一滴残らずこの炉へ。
ドクンッ!
巨大な鼓動が、塔全体を揺らしました。
光が収束していきます。
暴走しかけていた熱が、ルーカス様の氷によって冷却され、最適な温度へと調整されながら、炉の中心へと吸い込まれていきました。
そして。
ゴォォォォォ……。
低く、力強い回転音が響き始めました。
死に絶えていた心臓が、再び血液を送り出す音です。
青白く凍りついていた炉の表面から氷が剥がれ落ち、中から鮮やかな紅色の輝きが漏れ出しました。
『臨界点、突破。エネルギー循環、正常値へ復帰』
ベータの声が震えていました。
『魔力供給ライン、オールグリーン。……再起動、成功だ』
その言葉を聞いた瞬間、私の膝から力が抜けました。
ガクンと崩れ落ちそうになったところを、ルーカス様が抱き留めてくれます。
「やったね、ヴィオラ」
「ええ……やりました。本当に、無茶苦茶な大掃除でしたけど」
私は彼の胸に顔を埋め、荒い息を整えました。
汗だくです。
北の極地にいるはずなのに、今のこの部屋は、まるで真夏のようでした。
ふと、頬に柔らかな風が当たりました。
熱風ではありません。
湿り気を帯びた、優しい風です。
「見てください」
ルーカス様が窓の外を指差しました。
分厚い氷に閉ざされていた窓ガラスが溶け、外の景色が見えます。
そこには、信じられない光景が広がっていました。
猛吹雪が止み、厚い雲が割れ、太陽の光が降り注いでいます。
そして、雪原の彼方から、目に見えるほどの勢いで「緑」が広がってきていました。
凍りついた木々が息を吹き返し、雪解け水が川となって流れ出しています。
春です。
私たちが、世界に春を取り戻したのです。
『……信じられん』
ベータのアバターが、私たちの近くに降りてきました。
彼は窓の外の景色と、再稼働した炉を交互に見つめ、呆然と呟きました。
『物理法則を無視した熱転送。相反する属性の融合。そして、論理的勝算の薄い作戦への断行』
彼は私に向き直りました。
その瞳には、以前のような冷徹な侮蔑の色はありません。
あるのは、理解を超えたものへの畏敬と、純粋な驚きでした。
『人間とは、これほどまでに非論理的なのか』
「ええ。効率だけでは割り切れないのが、人間という生き物ですから」
私はルーカス様の腕の中から答えました。
「無駄なこと、馬鹿なこと、計算に合わないこと。でも、だからこそ生み出せる『熱』があるのです。それをゴミだと切り捨てるなら、この景色は見られなかったでしょう?」
『……肯定する。私の計算では、この結果は導き出せなかった』
ベータは静かに目を閉じ、そして深く頭を下げました。
それは、システム管理者としての敗北宣言であり、新たな主への恭順の証でした。
『ヴィオラ・エルロッド。貴女の論理を、私のデータベースにおける最優先事項として登録する』
「認めてくれるのですか?」
『ああ。人間は不確定要素が多く、管理コストが高い。だが……世界を救うだけの「可能性」も秘めている。有益な存在であると再定義した』
ピロン。
軽やかな電子音が鳴り響きました。
空中に浮かんでいたウィンドウに、新しいメッセージが表示されます。
『メインサーバー「極光の塔」、制御権限を譲渡。管理者:ベータから、ヴィオラ・エルロッドへ』
塔の全ての機能が、私の掌にある「黒い木箱」とリンクしました。
今、私は名実ともに、この星の物流を握る「インベントリ・マスター」となったのです。
「ありがとうございます、ベータ。これからは、あなたも私の大切なスタッフですよ」
『……スタッフ? 私がか?』
「ええ。これだけのシステム、私一人では管理しきれませんから。優秀な補佐役が必要です」
私が手を差し出すと、ベータは少し躊躇した後、照れくさそうにその小さな手を私の掌に乗せました。
ホログラムのはずなのに、そこには確かな温度があるような気がしました。
『マスター! 聞こえますか!』
通信ウィンドウが開き、アルファの興奮した声が飛び込んできました。
画面の向こうでは、エリーゼ殿下やレオンたちが歓声を上げています。
『世界中のエラーランプが、次々と消えていきます! 北の大陸だけではありません。砂漠も、森林も、全ての拠点が正常化しています!』
メインスクリーンを見上げると、真っ赤だった世界地図が、美しい緑色へと塗り替えられていくのが見えました。
滞っていた血流が戻り、星全体が健康を取り戻していく。
それは、私が今まで見てきたどんな宝石よりも美しく、価値のある輝きでした。
「終わったのですね」
「ああ。君が直したんだ」
ルーカス様が私の肩を抱き寄せました。
長い長い、大掃除でした。
オウェル城を追い出されたあの日から始まった、私の「片付け」の旅。
ゴミ屋敷を掃除し、戦場の補給線を繋ぎ、地下迷宮を整理し、そして今、世界そのものをメンテナンスし終えました。
「疲れました」
私は素直に言いました。
もう、指一本動かせそうにありません。
「帰ろう、ヴィオラ。僕たちの家に」
「はい。……お腹が空きました。温かいスープが飲みたいです」
「僕が作るよ。君に教わった通りにね」
私たちは笑い合いました。
窓の外では、春を告げる鳥たちがさえずり始めています。
世界は巡り続ける。
そして私たちの人生も、これからも続いていくのです。
この輝くような春の光の中で、私は確信していました。
私の「収納」には、まだまだたくさんの幸せが入る余地があるのだと。




