第1話 極北の地と凍った物流
吐き出した息が、目の前で真っ白な結晶に変わる音がしました。
甲板に出た瞬間、頬を刺すような冷気が襲いかかってきます。
帝都の冬など比較にならない、命を拒絶するような絶対零度の世界。
ここが、世界の物流が滞っている最前線、北の大陸です。
「……寒いですね」
私は分厚い毛皮のコートの襟を合わせ、身震いしました。
収納から取り出した最高級の防寒着ですが、それでも隙間から冷気が忍び込んできます。
「ヴィオラ、こっちへ」
隣に立っていたルーカス様が、すぐに気づいて私を自身のマントの中に招き入れてくれました。
彼の体は、驚くほど温かいです。
氷の魔導師である彼は、逆に冷気を完全に制御できるため、自分の周囲だけを常春のような温度に保つことができるのです。
「ありがとう、ルーカス様。生き返ります」
「君が風邪を引いたら、世界の一大事だからね」
彼は私の肩を抱き寄せ、その体温を分けてくれます。
新婚旅行の時よりも、地下迷宮での冒険を経て、私たちの距離はずっと近くなりました。
今はこうして触れ合っていることが、何よりも自然で、安心できる時間です。
しかし、感傷に浸っている場合ではありません。
私たちの乗る船は、今、重大な問題に直面していました。
「姉御! ダメだこりゃ!」
マストの上から、レオンの声が響きました。
彼は望遠鏡を覗き込みながら、絶望的な声を上げています。
「港が完全に凍ってやがる! 氷の厚さが半端ねぇ! これじゃ接岸どころか、湾に入ることすらできねぇぞ!」
視線の先には、本来なら船が行き交うはずの港湾都市が見えました。
ですが、海面は一面の氷原と化し、数隻の船が氷に閉じ込められたまま放置されています。
陸地の方も、人の気配がありません。
物流が死に、都市機能が停止している証拠です。
「船長が言うには、砕氷の装備がないからこれ以上は進めないってよ。引き返すか?」
レオンが甲板に飛び降りてきました。
寒さで赤くなった鼻をこすっています。
引き返す?
とんでもない。
ここにあるエラーを放置すれば、あと一年足らずで世界中の資源が枯渇します。
帝都での美味しい食事も、温かいお風呂も、すべて失われるのです。
「引き返しませんよ。道がないなら、作ればいいだけです」
私はルーカス様の腕から離れ、船首へと歩み出ました。
かつて地下迷宮で、瓦礫の山を片付けた時と同じです。
邪魔なものがあるなら、収納してしまえばいい。
「アルファ、氷の厚さと範囲を計測して」
私の影から、メイド姿のオートマタ・アルファが現れました。
彼女もまた、この過酷な旅の同行者です。
『了解、マスター。……計測完了。港までの距離、約二キロメートル。氷層の平均厚、三メートル。推定総重量、数万トンクラスと推測します』
「数万トン。……いい運動になりますね」
私は手袋を外し、極寒の空気に手をかざしました。
腰のポシェットに入っている「黒い木箱」が、私の魔力に呼応して熱を帯びます。
地下の制御室で「インベントリ・マスター」としての権限を得た今、私の収納魔法は以前とは桁違いの出力を発揮できます。
「ルーカス様、船が揺れますから、しっかり掴まっていてくださいね」
「わかった。君の『大掃除』を特等席で見せてもらうよ」
ルーカス様は楽しそうに笑い、私の腰を支えてくれました。
私は深く息を吸い込み、海面を見下ろしました。
目の前に広がるのは、自然が作った強固な拒絶の壁。
ですが、私にとってはただの「片付けるべき障害物」であり、「活用すべき資源」です。
「収納、広域指定。対象――『海水氷』」
私の言葉と共に、黒い箱から青白い光のグリッドが放たれました。
光は扇状に広がり、前方の氷原を覆い尽くします。
「転送先指定――座標『南方熱帯海域』。……実行!」
シュルルルルッ!
空気を切り裂く音と共に、海面で信じられない現象が起きました。
分厚い氷の層が、まるで巨大な怪物に飲み込まれるように、次々と虚空へ吸い込まれていきます。
バリバリバリッ!
氷が砕ける音が轟き、真っ白だった視界に、濃い青色の海面が切り拓かれていきます。
ただ収納するだけではありません。
吸い込んだ端から、即座に遥か南の海へ転送しています。
収納内に入れておくだけでは、いつか容量を圧迫しますし、何より冷えすぎてしまいますから。
南の海なら、この程度の氷はすぐに溶けて、程よい水温調整になるでしょう。
「す、すげぇ……海が割れていく……」
レオンが口をあんぐりと開けて見ています。
船員たちも言葉を失っていました。
船の進路に沿って、一直線に氷が消滅し、道が出来上がりました。
モーゼの海割れならぬ、ヴィオラの氷回収です。
「全速前進! 氷が再び閉じる前に港へ入ります!」
私の号令で、船が動き出しました。
砕けた氷の欠片を押しのけ、私たちは死に絶えていた港へと滑り込みました。
◇
接岸した港は、静まり返っていました。
波止場には雪が積もり、クレーンは凍りついて動いていません。
しかし、私たちの船が着いた音を聞きつけ、街の方からポツリポツリと人々が現れました。
皆、痩せこけ、ボロボロの防寒具を身に纏っています。
その目は虚ろで、希望を失っているように見えました。
「……何者だ? こんな凍った海を越えてくるなんて」
一人の男が、警戒心剥き出しで声をかけてきました。
手には錆びた銛が握られています。
私はタラップを降り、彼らの前に立ちました。
敵意を向けられるのは慣れています。
かつては「悪役令嬢」と呼ばれ、帝都では「横領犯」と疑われたこともありました。
そのたびに私は、言葉ではなく「結果」で示してきました。
「エルロッド商会、会頭のヴィオラです。商売に来ました」
私はニッコリと微笑み、背後の船を指差しました。
「温かいスープと、新鮮な野菜、それに防寒具はいかがですか? 今なら、特別価格で提供しますよ」
「なっ……食い物だって?」
人々の目に色が戻りました。
この極寒の地で、最も価値あるもの。
それは金銀財宝ではなく、今日を生き抜くためのカロリーです。
「商会メンバー、展開! 緊急市場を開きます!」
私の指示で、レオンとザック、そしてアルファが動き出しました。
何もない雪の広場に、次々とテントが設営され、コンロに火が灯されます。
収納から取り出した大鍋からは、帝都で仕込んできたシチューの良い香りが漂い始めました。
「う、うわぁぁぁ!」
「いい匂いだ! 夢じゃない!」
人々が銛を捨て、駆け寄ってきます。
最初は警戒していた男たちも、子供たちがシチューを頬張る姿を見て、涙を流して感謝の言葉を口にしました。
「ありがとうございます……! もうダメかと思っていました……」
「お礼には及びません。これは商売ですから」
私は代金として、現地の通貨や、彼らが持っていた珍しい鉱石を受け取りました。
ただ施すだけでは、彼らのプライドを傷つけ、依存を生んでしまいます。
対価を払って得ることで、彼らは「客」としての尊厳を取り戻すのです。
それが、私の流儀です。
市場が賑わいを取り戻す中、私はルーカス様と二人、少し離れた場所に立ちました。
「またやったね、ヴィオラ」
ルーカス様がホットワインのカップを渡してくれました。
「君が行くところ、必ず笑顔が生まれる。君は最高の商人だよ」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておきます」
温かいワインを一口飲み、私は視線を上げました。
街の向こう、吹雪に霞む雪山の中に、異様な存在感を放つ影が見えました。
雲を突き抜けるほど巨大な、黒い塔。
周囲の雪景色とは明らかに異質な、人工的な建造物。
『警告。前方に高濃度の魔力反応』
アルファが私の横に来て、静かに告げました。
『あれこそが、北の大陸の物流拠点。メインサーバー「極光の塔」です』
「あそこが、詰まりの原因ですね」
私はカップを握り締めました。
あの塔の中で、何かが世界の循環を止めている。
それを解消しない限り、この市場の賑わいも一時的なものに過ぎません。
「行きましょう。あそこを片付けない限り、春は来ませんから」
「ああ。君が凍えないように、僕がずっと隣にいるよ」
ルーカス様が私の手を握りました。
その力強さに、不安な心も溶けていくようでした。
私たちは賑わう市場を背に、吹雪く荒野へと足を踏み出しました。
目指すは世界の心臓部。
最後の大掃除が、幕を開けようとしていました。




