第3話 物理的断捨離と、輝きだす塔
私は窓に手をかけ、錆びついた鍵を強引に回しました。
ガキリ、と音がして、重たい窓が開きます。
新鮮な風が吹き込み、淀んでいた空気が少しだけ揺らぎました。
「さて、始めますか」
私は白いエプロンを取り出し、手際よく装着しました。
髪も邪魔にならないよう、リボンで一つに結びます。
その時、玄関の扉が開く音がしました。
「た、ただいま戻りました……って、あなたは!?」
入ってきたのは、初老の男性でした。
両手に抱えきれないほどの買い出し袋を持っています。
彼は私と、ソファーで安らかに眠るボロボロの青年を見て、袋を取り落としました。
「坊ちゃま! 生きておいででしたか!」
彼は駆け寄り、主人の寝顔を確認して涙ぐみました。
「よかった……三日間、研究室に籠もったきり出てこられないので、もうダメかと……」
「あの、あなたは?」
「失礼しました! 私はこの屋敷の執事、セバスチャンと申します」
彼は深々と頭を下げました。
執事。
ということは、この青年はそれなりの身分ということでしょうか。
「ご主人は、ひどい栄養失調でした。スープを飲ませて寝かせましたが、この環境では病気になります」
私は床のゴミ山を指差しました。
セバスチャンは肩を落としました。
「お恥ずかしい限りです。主……ルーカス様は、レグルス帝国の筆頭魔導師であり、公爵位を持つお方なのですが……」
「公爵様、ですか」
「はい。ですが、研究に没頭すると食事も睡眠も忘れ、片付けも一切させてもらえず……私一人ではどうにもならず……」
なるほど。
天才肌の偏屈者、というわけですね。
過去の家政婦たちが逃げ出したのも納得です。
触っていいものと悪いものの区別がつかず、怒鳴られたりしたのでしょう。
ですが、私には関係ありません。
私には「検索機能」がありますから。
「セバスチャンさん。私がここを片付けてもよろしいですね?」
「え? あ、はい。ですが、ルーカス様は資料を動かされるのを極端に嫌がります。どれがゴミでどれが資料か、私にも判別不能で……」
「問題ありません。見ていてください」
私はニッコリと微笑み、右手を床にかざしました。
「収納、展開」
脳内に、部屋にある全ての物体の情報が流れ込んできます。
『腐敗したパン』『書き損じの羊皮紙』『壊れた魔導回路』『重要な論文の下書き』『脱ぎ捨てた靴下(左)』……。
全て見えています。
私は脳内でフォルダ分けを行いました。
「ゴミ」「洗濯物」「研究資料」「実験器具」に分類。
「まずはゴミを一掃します」
私が指を弾くと、部屋中の明らかなゴミ――生ゴミ、塵、埃、壊れたガラクタ――が一瞬で消え去りました。
「なっ!?」
セバスチャンが目を剥いています。
「次は洗濯物です」
床に散乱していた服が消えます。
これらは収納内の「洗濯機機能(水流操作による洗浄)」エリアへ放り込みました。後でまとめて洗いましょう。
床が見えました。
残っているのは、山のような書類と実験器具だけです。
「ここからが本番ですね」
私は残った書類に触れました。
収納には入れず、魔法で「ソート(整列)」をかけます。
宙に舞った羊皮紙が、日付順、カテゴリ順に自動的に並び変わり、机の上に積み上がっていきます。
実験器具も、種類ごとに棚へ収まっていきました。
わずか十分後。
足の踏み場もなかったリビングは、モデルルームのように片付いていました。
窓ガラスも磨き上げ、床にはワックスをかけました(収納に入っていたオウェル城の備品です)。
「こ、これは……魔法、ですか?」
セバスチャンが震えています。
「はい。収納魔法の応用です」
その時、ソファーで眠っていたルーカス様が身じろぎしました。
眩しい光に目を細め、ゆっくりと起き上がります。
「……眩しい。天国?」
「いいえ、ご自宅です」
私が声をかけると、彼はハッと目を見開きました。
「君は……さっきの……」
彼は周囲を見回し、絶句しました。
ピカピカの床。
整理整頓された机。
そして、心地よい風と陽の光。
「僕の部屋……? 資料は? あの書きかけの論文は?」
彼は慌てて机に駆け寄りました。
そして、綺麗に積み上げられた書類の塔を見て、震える手で一番上の一枚を取りました。
「……ある。日付順に……関連資料ごとに……」
彼は振り返り、信じられないものを見る目で私を見ました。
「君がやったの? 内容を読んで分類したわけじゃないよね? 一瞬で?」
「魔力パターンとインクの劣化具合で分類しました。内容は見ていません」
「すごい……」
彼はボソボソとした口調でしたが、瞳は熱っぽく輝いていました。
「誰も僕の部屋を片付けられなかった。触るとわからなくなるから。でも、これは……完璧だ。僕の頭の中より整理されている」
「お気に召したなら光栄です」
「君は魔法の天才だ。収納魔法って、こんなに美しい魔法だったんだね」
美しい。
地味で貧乏くさいと言われ続けた私の魔法を、彼はそう表現しました。
胸の奥が、少しだけ温かくなります。
「さて、お部屋が綺麗になったところで」
私は彼の前に立ち、そのボサボサの頭を見下ろしました。
「次はその頭と体を綺麗にしましょう。セバスチャンさん、お湯の準備を」
「は、はい! 直ちに!」
ルーカス様は抵抗しませんでした。
されるがままに浴室へ連れて行かれ、一時間後。
さっぱりとした姿で戻ってきました。
伸び放題だった髭は剃られ、髪も私がハサミを入れて整えました。
少し長めの銀髪が、サラサラと揺れています。
そこに立っていたのは、幽霊ではなく、息を呑むような美青年でした。
切れ長の涼しげな目元。
通った鼻筋。
陶器のような肌。
黙っていれば、絵画から抜け出てきたようです。
喋り出すと、自信なさげに背中を丸めてしまうのが残念ですが。
「……ありがとう。体が軽い」
彼は照れ臭そうに頬をかきました。
「それに、いい匂いがする」
「夕食の準備もできていますよ」
テーブルには、収納から出したての温かいシチューと、焼きたてのパンを並べておきました。
オウェル城の料理長が作った最高傑作です。
ルーカス様とセバスチャンさんは、涙を流しながら食事をしました。
「温かい」「野菜の味がする」と、当たり前のことに感動しています。
この人たちの食生活は、一体どうなっていたのでしょう。
食後。
ハーブティーを飲みながら、ルーカス様が真剣な顔で私に向き直りました。
「あの、ヴィオラさん」
「はい」
「君は、住む場所を探しているんだよね?」
「ええ。職と住居を」
彼はゴクリと喉を鳴らしました。
そして、私の手をそっと握りました。
彼の手は、もう冷たくありませんでした。
温かくて、大きくて、少し骨ばった手。
「僕と、契約してくれないかな」
「契約、ですか?」
「うん。雇用契約でもいいし、もっと……その、深い契約でも」
彼は耳まで真っ赤にして、それでも真っ直ぐに私を見つめました。
「僕には君が必要だ。君がいないと、僕はまたゴミの中で死んでしまう」
「……脅し文句としては最低ですね」
「事実だよ。僕の魔力も、地位も、資産も、全部君のために使う。だから、僕の人生を管理してほしい」
それは、実質的なプロポーズに聞こえました。
公爵様からの、あまりにも切実で、不器用な求婚。
私は握られた手を見つめました。
ここには、私を必要としてくれる人がいます。
私の魔法を「美しい」と言ってくれる人がいます。
悪い話ではありません。
いえ、最高条件の就職先です。
私はにっこりと微笑みました。
「承知いたしました。ただし、私の管理は厳しいですよ?」
「望むところだ」
ルーカス様は、とろけるような笑顔を見せました。
それは、「氷の公爵」という異名には似つかわしくない、春の日差しのような笑顔でした。
こうして。
私の新しい職場と、新しい主人が決まりました。
とりあえずの目標は、この生活能力ゼロの天才様を、人間らしい生活ができるように更生させることですね。
私は収納リストに、新しいカテゴリを追加しました。
『管理対象:ルーカス・フォン・レグルス』。
さあ、忙しくなりそうです。




