第2話 隣国のゴミ屋敷と、うずくまる美青年
馬車の車輪が、石畳を軽快に叩く音が聞こえます。
国境を越えて一週間。
レグルス帝国の帝都は、活気に満ち溢れていました。
通りには魔導ランプが並び、人々は忙しなくも楽しげに行き交っています。
古い伝統に縛られ、静まり返っていたオウェル王国とは大違いです。
私はギルドの掲示板の前で、腕を組みました。
「さて、まずは仕事ですね」
オウェル王国の国家予算並みの資産を持っていますが、遊んで暮らすつもりはありません。
なにより、私はじっとしているのが苦手なのです。
私の能力を活かし、適正に評価してくれる場所で働きたい。
それがここに来た目的ですから。
掲示板には、魔物討伐や護衛の依頼が並んでいます。
私は「生活・雑務」の欄に目を走らせました。
そこで、一枚の羊皮紙が目に止まります。
他の依頼書とは違い、何度も張り替えられた跡があり、端がボロボロになっていました。
『急募:屋敷の清掃および家事全般』
『報酬:金貨10枚/月(昇給あり)』
『条件:口が堅いこと。根性があること。多少の異臭に動じないこと』
金貨10枚。
一般的なメイドの年収に匹敵する金額です。
破格すぎて怪しいことこの上ありません。
私は受付の女性に声をかけました。
「すみません。この依頼を受けたいのですが」
受付嬢は私の顔を見て、それから依頼書を見て、あからさまに顔をしかめました。
「あー……その依頼ですか。お嬢さん、やめておいた方がいいですよ。今月だけでもう十人が逃げ出していますから」
「十人も? 何か危険な魔獣でも住み着いているのですか?」
「いえ、もっと厄介です。『賢者の塔』の主がね……まあ、行けばわかりますけど」
彼女は同情するような目で私を見ました。
「精神的なダメージが大きいみたいですよ。それでもいいなら手続きしますが」
「構いません。掃除には自信がありますので」
私は微笑んでサインをしました。
精神的ダメージ?
婚約破棄され、国を追放されたことに比べれば、大抵のことは些事です。
帝都の外れ。
鬱蒼とした森の中に、その塔はそびえ立っていました。
石造りの立派な塔ですが、窓ガラスは汚れ、外壁には蔦が絡まり放題です。
「管理が行き届いていませんね……」
職業病でしょうか。
この蔦を取り除くだけで、建物の寿命が十年は伸びるのに、と計算してしまいます。
私は重厚な扉の前に立ち、ノックをしました。
返事はありません。
代わりに、扉の隙間から、なんとも言えない淀んだ空気が漏れ出ています。
「失礼いたします。ギルドから参りました、ヴィオラです」
私は扉を押し開けました。
ギィィ、と錆びついた音が響き、視界が開けます。
「…………」
言葉を失いました。
そこは、エントランスホールのはずでした。
しかし、床が見えません。
天井まで積み上げられた本の山。
得体の知れない機械のパーツ。
脱ぎ捨てられた衣服。
飲みかけのカップ、食べかけの皿、カビの生えたパン。
そして、床を這うように広がる羊皮紙の海。
足の踏み場がない、とはこのことです。
埃と古紙、そして腐敗したような酸っぱい臭いが鼻をつきます。
「これは……やりがいがありますね」
私は呆れるどころか、武者震いしました。
頭の中で、即座に「分別」と「廃棄」のカテゴリ分けが始まります。
この惨状を、どう効率よく攻略するか。
パズルのようでワクワクしてきました。
私はスカートの裾をつまみ、慎重にゴミの山を乗り越えて進みました。
まずは依頼主に挨拶をしなければなりません。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
返事はありません。
奥のリビングらしき空間へ進むと、さらに状況は悪化していました。
実験器具と生活ゴミが地層のように重なっています。
その時です。
ゴミの山の陰に、何かを見つけました。
「……え?」
ボロ布の塊かと思いましたが、違います。
人です。
ソファーらしきものの残骸の上で、男性がうずくまっていました。
髪は伸び放題で顔が見えません。
衣服は実験着のようですが、あちこち破れてススだらけです。
肌は病的なほど白く、ピクリとも動きません。
「もしもし! 大丈夫ですか!」
私は慌てて駆け寄りました。
死体でしょうか。
十人が逃げ出した理由は、これだったのでしょうか。
恐る恐る脈を確認します。
……弱々しいですが、打っています。
「う……あ……」
彼がかすかに呻きました。
唇はカサカサに乾いています。
これは、ただの栄養失調と脱水症状ですね。
「今、何か用意します」
私はすぐに「収納」を展開しました。
オウェル城の厨房から回収しておいた、最高級の備蓄食料リストを開きます。
取り出したのは、陶器のカップに入った「野菜と鶏肉のポタージュ」。
収納内は時間が止まっていますから、作りたてのように湯気が立っています。
栄養価が高く、消化に良いものです。
私は彼の背中に手を回し、ゆっくりと上体を起こしました。
驚くほど軽いです。
「少しずつ飲んでください。温かいスープです」
カップを彼の口元に運びます。
彼は虚ろな目をわずかに開け、匂いに反応して鼻を動かしました。
そして、震える唇でスープを啜ります。
「……っ」
一口、二口。
喉が鳴る音が聞こえました。
乾いた砂に水が染み込むように、彼の体に生気が戻っていくのがわかります。
「おい……しい……」
消え入りそうな声でした。
彼は私の手をつかみ、カップを傾けさせようとします。
「焦らないで。まだたくさんありますから」
私は残りのスープをゆっくりと飲ませました。
続いて、柔らかい白パンを取り出します。
これも一口サイズにちぎって口に入れてあげると、彼は夢中で咀嚼しました。
しばらくして。
カップとパンが空になると、彼はふぅと深く息を吐き、私の腕の中で脱力しました。
伸び放題の前髪の間から、宝石のような瞳が私を見上げています。
透き通るような、アイスブルーの瞳。
汚れを拭えば、相当な美貌の持ち主であることが窺えました。
「……あなたは、女神様?」
彼はぼんやりと呟きました。
意識がまだ朦朧としているようです。
私は苦笑して首を横に振ります。
「いいえ。本日付けで雇われた、家政婦です」
「家政婦……?」
彼は私の手を、両手で包み込みました。
冷たい手でしたが、スープのおかげか、ほんのりと熱が戻ってきています。
「行かないで……」
それは、迷子の子供のような声でした。
握る力は弱々しいのに、必死さが伝わってきます。
「もっと、君の料理が食べたい。君がいないと、僕はもう……」
そこで言葉が途切れ、彼は私の肩に頭を預けて眠ってしまいました。
規則正しい寝息が聞こえてきます。
私はため息をつき、彼を……この塔の主であろう青年を、ゴミのないスペースへ寝かせ直しました。
収納から清潔な毛布を取り出し、かけてあげます。
これもオウェル城の客室用最高級品です。
「困った人ですね」
私は部屋を見渡しました。
見渡す限りの混沌。
そして、その中心で無防備に眠る美青年。
普通なら逃げ出すでしょう。
でも、私は腕まくりをしました。
私の料理を食べてくれました。
私の手を必要としてくれました。
そして何より、この汚部屋は、私の「整理整頓魂」に火をつけました。
「まずは、彼の寝る場所を確保するところからですね」
私は静かに、しかし力強く宣言しました。
「徹底的に、やらせていただきます」
私の第二の人生は、このゴミ屋敷の大掃除から始まるようです。




