第5話 鉄の皇女の無理難題
「三日で水を運びなさい。湖一つ分を、隣国の砂漠へ」
エリーゼ皇女は扇子で口元を隠し、涼しい顔で言い放ちました。
店内の空気が一瞬で凍りつきます。
湖一つ分。
三日。
隣国までは、早馬でも一週間はかかります。
物理的に不可能です。
常識的に考えれば、ですが。
私はカウンター越しに、この美しい暴君を見返しました。
「……それは、商会への正式な依頼でしょうか。それとも、ただの無茶振りでしょうか」
「テストよ。あなたがただの『公爵の妻』か、それとも帝国にとって有益な『駒』となり得るかどうかのね」
彼女は扇子をパチリと閉じ、私を真っ直ぐに見据えました。
「隣国の国境付近で深刻な干ばつが起きているの。民は飢え、水不足で死者も出ている。我が国としても支援物資を送りたいけれど、通常の馬車輸送では間に合わない上に、途中で水が蒸発してしまうわ」
「そこで、私の収納魔法を使えと?」
「ええ。騎士団からの報告書を読んだわ。戦場で『湯気の立つ豚汁』を出したそうね。それに、あの『鮮度抜群の魚』……。あなたの魔法なら、大量の水を鮮度そのままに、一瞬で運べるのでしょう? 違うかしら」
彼女の情報網は正確でした。
私の「収納」が時間停止と無限容量を持つことを、既に見抜いているようです。
「ヴィオラ、断っていい」
後ろで控えていたルーカス様が、低い声で割り込みました。
不機嫌さを隠そうともせず、皇女を睨んでいます。
「エリーゼ、君ね。僕の妻を運送屋か何かと勘違いしていないか? 彼女を危険な国境地帯へ行かせるなんて、僕が許さない」
「あら、ルーカス。過保護ね。私は彼女の意思を聞いているのよ」
エリーゼ様は挑発的に微笑みました。
「できないならそれでもよろしくてよ? ただし、その程度の器なら、今後この国で商売を続けるのは難しいでしょうね。私の支援なしで、あのガストンと戦えるかしら」
脅しです。
ですが、同時にチャンスでもあります。
皇女の覚えがめでたくなれば、ガストンの嫌がらせなど一蹴できます。
何より、困っている人々がいるのに、能力がある私が動かない理由はありません。
私はルーカス様の腕にそっと手を添えました。
「大丈夫です、ルーカス様。私に行かせてください」
「ヴィオラ……」
「これは商機です。皇室御用達の看板を手に入れる、またとない機会ですから」
私は不敵に笑ってみせました。
ルーカス様はしばらく渋い顔をしていましたが、やがて深いため息をつきました。
「……わかった。君がそう言うなら。でも、僕も行くよ。護衛としてね」
「ふふ、心強いです」
私はエリーゼ様に向き直りました。
「お引き受けいたします、殿下。ただし、成功報酬は弾んでいただきますよ?」
「いいわ。期待しているわよ、エルロッド商会」
エリーゼ様が満足げに頷いた、その時です。
彼女が持っていた杖の先端にある青い宝石が、ブゥンと低く唸りを上げました。
淡い光が明滅し、私のポシェット――中にあの「古代の箱」が入っている――と共鳴するように震えました。
「……?」
エリーゼ様が怪訝な顔で杖を見つめました。
「珍しいわね。この『導きの杖』が反応するなんて」
「その杖は?」
「王家に伝わる古い魔道具よ。まあ、今は関係ないわね」
彼女はすぐに興味を失ったように杖を収めました。
ですが、私は胸騒ぎを覚えました。
あの箱と、皇女の杖。
何かが繋がっているのでしょうか。
「出発は明朝よ。手配は任せるわ」
エリーゼ様は踵を返し、風のように去っていきました。
嵐が過ぎ去った後の店内で、私はレオンを呼びました。
「レオン、店番を頼める? しばらく留守にするわ」
「へいへい。姉御も大変だな。皇女様の無茶振りに付き合うなんて」
レオンは呆れつつも、どこか楽しそうです。
「気をつけてな。ガストンの野郎、皇女様が来たのを見て焦ってたぜ。何仕掛けてくるかわかんねぇぞ」
「ええ。わかっているわ」
ガストンがこのまま黙っているはずがありません。
今回の任務を妨害し、私の信用を失墜させようとするでしょう。
「準備しましょう、ルーカス様。まずは水を確保するために、水源へ向かいます」
「了解。僕が最高の水を凍らせずに確保してみせるよ」
私たちは顔を見合わせ、頷きました。
新婚旅行の次は、救難活動という名の出張業務です。
しかしこの時の私は、ガストンが単なる嫌がらせではなく、命に関わる罠を仕掛けていることまでは予想していませんでした。
帝都の影で、悪意が牙を剥いて待ち構えていたのです。




