第3話 スラムの計算少年と採用面接
腐った水と、焦げた油の臭いが鼻をつきます。
帝都の華やかな大通りから一本入っただけで、世界は一変しました。
崩れかけたレンガの壁、泥だらけの道、そして虚ろな目をした人々。
スラム街。
ここは、帝国の光が届かない場所です。
「ヴィオラ様、やはり引き返しませんか? ここは危険です」
セバスチャンが眉をひそめて周囲を警戒しています。
確かに、物陰から射るような視線をいくつも感じます。
ですが、私は歩みを止めません。
「いいえ。ここにこそ、私が求めている人材がいるはずですから」
その時でした。
脇の路地から、赤毛の少年が弾丸のように飛び出してきました。
ドンッ!
わざとらしく私にぶつかり、彼はよろめく振りをして走り去ろうとしました。
「っと、ごめんよ姉ちゃん!」
一瞬の早業でした。
私の腰のポシェットから、革袋が消えています。
鮮やかな手並みです。
でも、相手が悪かったですね。
「待ちなさい」
私は一歩も動かず、冷静に声をかけました。
「収納、検索――『私の財布』」
私の脳内に、財布の位置情報が表示されます。
まだ半径五メートル以内。
私は即座に、少年の進路にある「木箱」を収納から取り出し、彼の足元に出現させました。
ドサッ!
「うわっ!?」
何もない空間から現れた障害物に、少年は派手に躓いて転びました。
彼は泥だらけになりながら起き上がり、信じられないものを見る目で私を見ました。
「な、なんだ今の!? 魔法か!?」
セバスチャンがすかさず駆け寄り、少年の襟首を掴み上げます。
「小僧、主人の持ち物を返しなさい」
「放せ! 俺じゃねぇ!」
少年は暴れますが、懐から私の財布がポロリと落ちました。
動かぬ証拠です。
私はゆっくりと彼に近づき、目線の高さを合わせました。
赤毛に、痩せこけた体。
年齢は十五、六歳でしょうか。
しかし、その目は死んでいません。ギラギラとした知性と反骨心が宿っています。
「名前は?」
「……レオンだ。衛兵に突き出すなら早くしろよ」
レオンはふてぶてしく言い放ちました。
私は財布を拾い上げ、中身を確認しました。
金貨が三枚。
「レオン。あなた、これを盗んでどうするつもりだったの?」
「パンを買うに決まってんだろ。あと、妹の薬代だ」
「パン一つ銅貨四枚として、金貨三枚なら何個買える?」
唐突な問いかけに、彼は一瞬きょとんとしました。
しかし、即座に答えました。
「七百五十個だ。まとめ買いなら八百はいける」
速い。
金貨と銅貨のレート換算を一瞬で行いました。
この帝国の通貨制度は複雑で、大人でも計算を間違える人が多いのに。
私はニヤリと笑いました。
見つけました。原石です。
「計算が速いのね。じゃあ、もう一つ問題よ」
私は収納から、湯気の立つカップを取り出しました。
濃厚なコーンスープです。
甘い香りが漂うと、レオンのお腹がグゥと鳴りました。
「このスープ、原価は銅貨十枚。でも、ここで私があなたに売るとしたら、いくらなら買う?」
「はあ? 何言ってんだ……」
「答えたら、タダであげるわ」
彼はゴクリと喉を鳴らし、私の目を睨みました。
「……銅貨五十枚だ。ここはスラムだ。温かくてまともな飯なんて滅多にねぇ。付加価値がつく」
「正解」
私はカップを彼に手渡しました。
彼は警戒しながらも、一口飲むと、目を見開いて一気に飲み干しました。
震える手でカップを握りしめています。
「……うめぇ」
「おかわりもあるわよ。ただし、次は労働の対価としてね」
私はハンカチで彼の泥だらけの顔を拭いてあげました。
「私、新しいお店を始めるの。計算が速くて、街の裏道に詳しいスタッフを探しているのよ」
「店? 俺を雇うってのか? 盗人だぞ?」
「私の目をごまかそうとした度胸と、その計算能力を買うわ。報酬は、一日三食の温かい食事と、成果に応じた給金。もちろん、妹さんの薬代も前借りさせてあげる」
レオンは呆然としていました。
衛兵に捕まると思っていたところに、破格の提案。
彼は疑うように私を睨みましたが、その瞳の奥には、すがるような希望の光が見えました。
「……本当に、飯が食えるのか?」
「ええ。私の収納には、一生分の食料が入っているもの」
「……わかった。やってやるよ。あんたについていけば、飢え死にだけはしなさそうだ」
「決まりですね。よろしく、レオン」
こうして、エルロッド商会に最初の従業員が加わりました。
彼はぶっきらぼうですが、根は素直なようです。
帰り道、彼はボソリと言いました。
「姉御、いいもん拾ったな。俺は地下遺跡の入り口も知ってるんだぜ。役に立つぞ」
「地下遺跡?」
聞き捨てならない単語が出ましたが、今は商会の準備が先です。
私はその情報を頭の片隅に「収納」しました。
数日後。
帝都の一等地に、小さな店がオープンしました。
元々は公爵家が所有していた空き物件です。
ガストン氏は「売る物がない店など開かせておけ」と高を括っているようですが、そうはいきません。
看板には『エルロッド商会』の文字。
「さあ、開店ですよ!」
私が扉を開けると、そこには見たこともない商品を求めて、すでに人だかりができていました。
レオンが慣れない手つきで呼び込みをしています。
私たちの最初の商品は、新婚旅行で仕入れてきた「氷漬けの海産物」。
内陸の帝都では決して食べられない、究極の鮮魚です。
商人ギルドの鼻をあかす、反撃の狼煙が上がりました。




