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『瀬戸と春樹 ―天使の皮を被ったサイコパスな後輩に、人生を丸ごと乗っ取られる話―』  作者: 八雲 律


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第9話 鏡の中の狂気

 瀬戸の全身を、冷たい汗が伝い落ちる。 壁一面に貼られた自分の写真、聖遺物のように飾られた私物、そして、部屋の隅に積み上げられた、部員の誰にも見せたことのない、瀬戸が高校に入ってからの全ての試合の記録ファイル。 それは、春樹の愛という名の、狂気の結晶だった。

「春樹……これは、冗談なんだろ?」

 瀬戸は震える声で尋ねた。喉がカラカラに乾き、呼吸がうまくできない。 春樹は、瀬戸の問いに答える代わりに、一枚の写真にそっと指を滑らせた。それは、合宿の夜、瀬戸が春樹を抱きしめて眠っている写真だった。もちろん、春樹がタイマーを仕掛けて撮影したものだ。

「冗談なんかじゃない。これは、僕が先輩をどれだけ愛しているか、その証です。ねえ、先輩、覚えてますか? 『俺を一人にするな』って、先輩が僕に懇願してくれた夜のこと」

「俺は……そんなこと、言っていない……っ」

「いいえ。言いました。先輩は、僕がいないとダメなんです。神崎先輩に捨てられた先輩を、僕だけが、こうして支えてあげたんですから」

 春樹の瞳が、狂ったように爛々と輝く。 瀬戸は、頭をかきむしりたい衝動に駆られた。自分の記憶と、目の前の春樹が紡ぐ「真実」が、あまりにも乖離している。だが、同時に、春樹の言葉が、瀬戸の心の深い場所にある「自分は一人では無力だ」という不安を撫でるように刺激した。

 瀬戸は、狂気をはらんだ春樹から逃れようと、ドアノブに手を伸ばした。しかし、鍵は固く閉ざされている。

「開けろ、春樹! これはもう、度が過ぎてるぞ!」

「開けません。先輩は、僕から逃げようとしている。……許しません。先輩は、僕と『一生一緒にいる』と、約束したでしょう?」

 春樹は、瀬戸が神崎に罵倒された後に言った「お前だけが頼りだ」という言葉を、何度も何度も繰り返した。その言葉は、まるで呪文のように、瀬戸の罪悪感を刺激し、思考を停止させる。

 瀬戸は、部屋の隅に置かれた鏡に目をやった。 そこに映っていたのは、恐怖と絶望に顔を歪ませた自分と、その背後にぴったりと寄り添い、幸福そうに微笑む春樹の姿だった。

(俺は……こいつに、ここまでさせたのか?)

 春樹の狂気が、自分の「優しさ」と「無自覚な依存心」によって育まれたものだと、瀬戸は初めて理解した。神崎の忠告を蹴り、春樹を守ると誓ったあの瞬間から、自分はすでに春樹の「檻」の中に囚われていたのだ。

「先輩、僕の顔を見てください」

 春樹が、瀬戸の顎を掴んで上向かせた。 その瞳は、涙で濡れながらも、狂気的な熱を帯びている。

「僕を、こんなにも愛してくれたのは、先輩だけなんです。僕のために神崎先輩を切り捨てて、僕のために僕の心を支えてくれた。……先輩が僕に与えてくれた愛の形が、この部屋の全てなんです」

 瀬戸の脳裏に、神崎が言っていた言葉が蘇る。 「お前はもう、あいつ無しじゃ生きていけないんだな」。 その通りだ。春樹がいなければ、自分はまた孤独になる。春樹が「正常」ではないと知ってしまった今、他の誰かに、これまでの自分を打ち明ける勇気も、もう残っていなかった。

「……こんなことして、お前は……幸せなのか?」

 瀬戸の問いに、春樹は満面の笑みで答えた。

「はい。先輩が僕の隣にいてくれることが、僕の全てだから。……ねえ、先輩。もう一度、僕に誓ってください。どんなことがあっても、僕を、一人にしないって」

 春樹は、瀬戸の首筋に顔を寄せた。 その息遣いは熱く、瀬戸の皮膚に春樹の存在が刻み込まれるようだ。

「……分かった。誓う。だから、この部屋のことは……誰にも言うな」

 瀬戸は、ついに観念した。 逃げ場はない。逃げる勇気も、もう自分には残されていない。 この狂気を隠し通すには、春樹の望むがまま、彼の「愛」を受け入れ続けるしかない。

 春樹は、瀬戸の言葉に陶酔したように、その首筋に甘く口付けた。 カチリ、と、部屋の鍵が開けられる音がした。春樹が、自らの手で「檻」の扉を開いたのだ。

「ありがとうございます、先輩。これで、僕たちは永遠に一つになれる」

 瀬戸は、開かれたドアの向こうに、月明かりに照らされた廊下を見た。 だが、その一歩を踏み出す力も、踏み出す気力も、瀬戸にはもう残っていなかった。

 彼の足は、まるで重い鎖に繋がれているかのように、その場に縫い付けられていた。


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