第8話 毒の入った献身
神崎との接触から数日。瀬戸の心には、無意識のうちに暗い影が落ちていた。 神崎が叫んでいた「一年前のリストバンド」や「自分から壁にぶつかった」という言葉。それを否定し、春樹を選んだのは自分だ。だが、時折見せる春樹の「完璧すぎる微笑み」に、瀬戸は説明のつかない寒気を感じるようになっていた。
そんな瀬戸のわずかな動揺を、春樹が逃すはずもなかった。
「……っ、う……」
放課後の部室。着替えを終えた瀬戸が後ろを振り向くと、ベンチに座ったままの春樹が、胸を押さえて激しく呼吸を乱していた。顔は青白く、額には脂汗が浮かんでいる。
「春樹!? どうした、大丈夫か!」
「……すみません、先輩。最近、あまり眠れなくて……。神崎先輩に、あんな風に言われたのが、ショックで……」
春樹は力なく笑おうとして、そのまま瀬戸の腕の中へ崩れ落ちた。瀬戸は慌ててその体を抱きとめる。春樹の体温は異常に低く、小刻みに震えていた。
「おい、顔色が悪いぞ。今日はもう、俺が家まで送ってやる」
「……いえ、いいんです。先輩に迷惑は、かけられません。僕が、一人で耐えればいいだけですから……」
春樹は弱々しく首を振った。だが、その指先は瀬戸のシャツを、引きちぎらんばかりの力で握りしめている。「行かないで」という、沈黙の絶叫。
瀬戸は、春樹をタクシーに乗せ、彼が暮らすマンションへ向かった。 春樹の両親は共働きで不在がちだという。静まり返ったリビングのソファに春樹を横たえ、瀬戸はキッチンで水を用意した。
「……先輩」
春樹の声は、今にも消え入りそうだった。
「僕、怖かったんです。……先輩がいつか、僕を捨てて、神崎先輩のところに戻ってしまうんじゃないかって。神崎先輩に言われた通り、僕は異常なんだって、先輩に嫌われるのが……何より、死ぬよりも怖くて」
春樹は、瀬戸の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。
「僕の心臓、壊れちゃいそうなんです。先輩がいないと、呼吸の仕方も忘れちゃう。……ねえ、約束してくれますか? どんなことがあっても、僕を一人にしないでって。僕を見捨てないと、言ってください……」
春樹の瞳から、大粒の涙が瀬戸の手にこぼれ落ちる。 その涙は毒のように瀬戸の心に浸透した。神崎の忠告を「嫉妬」として切り捨てた手前、今さら春樹を疑うことは、自分の選択を間違いだと認めることになる。瀬戸にはもう、春樹を信じ、守るという道しか残されていなかった。
「……ああ、約束する。俺が、お前を支えてやる。だから、そんな顔をするな」
瀬戸がそう告げた瞬間。春樹の胸の内で、甘い悦びが弾けた。
(……落ちた。先輩はもう、僕を哀れむことでしか、自分を保てない)
春樹の不調は、わざと睡眠不足を重ねたうえでの自作自演だった。だが、瀬戸の前で演じる「壊れそうな天使」は、あまりに完璧で、美しかった。
「嬉しい……。……先輩。僕、先輩に見てほしいものがあるんです」
春樹は、ふらつく足取りで立ち上がると、奥の寝室へと瀬戸を促した。
「本当は、もっと後にするつもりだったんですけど……。先輩に『約束』してもらったから、僕の全部を知ってほしくて」
瀬戸は、得体の知れない不安に胸を騒がせながら、春樹の後に続いた。 春樹がゆっくりとドアを開ける。
「僕の、聖域です。……先輩への愛が詰まった、僕だけの檻なんです」
そこは、カーテンが閉め切られた薄暗い空間だった。 一歩足を踏み入れた瞬間、瀬戸の全身を総毛立つような戦慄が駆け抜けた。
壁一面を埋め尽くす、膨大な数の写真。 中学生の頃、試合中にシュートを外して悔しがる自分の顔。雨の日に駅のホームで電車を待つ、無防備な後ろ姿。コンビニで水を買う横顔。 それら全てが、瀬戸の預かり知らぬ場所から、「何者か」によって記録され続けてきたものだった。
中央のデスクの上には、神崎が言っていた「一年前のリストバンド」や「飲みかけのペットボトル」が、まるで聖遺物のように飾られた祭壇がある。
「……春樹……。これは、なんだ……?」
瀬戸の声が震える。 隣で、春樹が今まで見たこともないような、陶酔しきった笑顔で微笑んだ。
「僕の愛です。……ねえ、先輩。神崎先輩は正しかったんですよ。僕は、出会う前からずっと、先輩のことだけを思って生きてきたんです」
瀬戸は恐怖で足がすくみ、部屋を飛び出そうとした。 しかし、春樹は素早くドアの前に立ち、カチリ、と鍵をかけた。
「逃げないでください。……先輩は今、『約束する』って言ったばかりじゃないですか。僕を、見捨てないって」
月の光も届かない密室で、春樹の瞳が爛々と輝く。 瀬戸は悟った。自分は、春樹という名の「献身」を飲み干した瞬間に、もう後戻りできない場所まで連れてこられていたのだと。
「先輩。……さあ、僕に魔法をかけてください。二人だけの、永遠の魔法を」




