第6話 合宿の夜、天使の寝顔
山間に位置する合宿所は、夜になると考えられないほどの静寂と濃い闇に包まれる。 昼間の過酷な練習で疲れ果てた部員たちは、大部屋の畳の上で泥のように眠りについていた。
午前二時。 瀬戸は、喉の渇きと、ふくらはぎに残る鈍い熱に目を覚ました。 (……あの雨の日以来、ずっと変だ) あの日の春樹の指の感触が、肌の裏側にこびりついて離れない。神崎を失った喪失感を埋めるように、春樹の献身が日ごとに重く、けれど甘く瀬戸を侵食していた。
瀬戸は隣で眠る部員たちを起こさないよう静かに身を起こし、廊下の水道へ向かった。 冷たい水で喉を潤し、ふぅ、と溜息をついて部屋に戻ろうとした時。
「……瀬戸先輩」
闇の中から、透き通るような声がした。 振り返ると、縁側に腰掛け、月光を浴びて佇む春樹の姿があった。白いTシャツ姿の彼は、青白い月の光に透けて、今にも消えてしまいそうなほど儚く見える。
「春樹……起きてたのか」
「先輩が起きる音がしたので。……足、また痛みますか?」
春樹は立ち上がり、音もなく瀬戸に近づいた。 その歩みは迷いなく、獲物を追い詰める蛇のように静かだ。瀬戸は反射的に一歩引こうとしたが、背中に冷たい壁が当たり、逃げ場を失う。
「大丈夫だ。それより、もう寝ろ。明日は朝練もあるんだから」
「……先輩、嘘をつくのが下手ですね」
春樹は瀬戸の胸元に手を置き、トク、トク、と脈打つ鼓動を確かめるように指を這わせた。
「こんなにドキドキしてる。……僕が怖いですか? それとも、神崎先輩がいなくて、本当は寂しくて死にそうなんですか?」
瀬戸の心臓が大きく跳ねた。図星だった。 神崎という盾を失い、むき出しになった瀬戸の孤独を、春樹は正確に抉り取ってくる。
「寂しくなんて……っ」
「いいんですよ、隠さなくても。僕だけは、先輩の全部を知っています。先輩の寂しさを埋められるのは、もう僕しかいないんです」
春樹は瀬戸の首筋に腕を回し、その耳元で熱い吐息を漏らした。
「……神崎先輩、言ってたんですよ。瀬戸は俺がいないと何もできない無能だって。俺がいないと、悠真はただの抜け殻だって」
「なっ……神崎が、そんなことを……?」
「はい。だから僕が、先輩を救ってあげなきゃって思ったんです。……先輩、僕のこと、好きですよね?」
春樹の指が、瀬戸の唇をそっとなぞる。 瀬戸の頭は、混乱と否定したい衝動、そして春樹が与えてくる「理解者」としての心地よさで、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。
「俺は……お前を、後輩として……」
「『として』、なんて言葉で逃げないで。……あの日、部室で僕を抱きしめてくれた時。雨の部屋で僕に足を預けてくれた時。先輩は、僕に何を求めていたんですか?」
春樹は、瀬戸の理性が崩れるのを待つように、じっとその瞳を見つめた。 月の光に照らされた春樹の顔は、神聖な天使のようでありながら、その瞳の奥には底なしの沼が広がっている。
「……っ。やめろ、春樹……」
瀬戸は春樹を突き放そうとしたが、腕に力が入らない。 春樹は、瀬戸が一番弱っている場所——「自分が誰かに必要とされている」という実感——を、毒入りの蜜で満たしていく。
「今夜は、僕の隣で寝てください。……先輩が一人で寂しくないように。僕が、悪い夢から守ってあげますから」
春樹は瀬戸の手を引き、大部屋の隅、自分の布団へと導いた。 他の部員たちの寝息が聞こえる中、瀬戸は導かれるまま、春樹の隣に身を横たえた。
春樹は、瀬戸の腕の中に潜り込むようにして、その胸板に顔を寄せた。
「……ねえ、先輩。約束してください」
「何を……」
「一生、僕から離れないって。もし離れたら……僕、神崎先輩に言われた通り、先輩を壊しちゃうかもしれません」
春樹は、瀬戸のシャツの裾を強く握りしめた。 それは、捨てられた子供のような縋り付きであり、同時に、獲物を決して離さないという執念の告白だった。
瀬戸は、春樹の細い肩が震えているのを見て、思わずその背中に手を回してしまった。 (こいつは、俺がいないとダメなんだ。……俺が、守ってやらなきゃいけないんだ)
それは、春樹が瀬戸の中に植え付けた、致命的な誤解(呪い)だった。 春樹は、瀬戸の腕の中で満足げに瞳を閉じた。
翌朝。 目が覚めた部員たちは、瀬戸と春樹が寄り添って眠っている姿を見て、一様に驚きの声を上げた。 「おいおい、お前ら仲良すぎだろ!」 「佐倉、先輩に甘えすぎだぞー」
冷やかされる中、春樹は寝ぼけ眼をこすりながら、頬を赤らめて瀬戸を見上げた。
「……すみません、瀬戸先輩。夜中にあんなに『離さないで』って言われたから……僕、断れなくて」
「え……?」
瀬戸は絶句した。自分はそんなことを言った覚えはない。 だが、昨夜の混濁した記憶と、今、目の前で恥ずかしそうに微笑む春樹の「天使」のような顔を見て、瀬戸は自分の記憶の方を疑い始めた。
(俺が……春樹を求めたのか? 俺が、こいつを離さないでと言ったのか……?)
周囲の部員たちは、春樹の言葉をそのまま信じ、「瀬戸って意外と寂しがりなんだな」と笑い合う。 瀬戸の周囲には、いつの間にか「春樹がいなければ成り立たない瀬戸悠真」という現実が、既成事実として積み上げられていた。
春樹は、混乱する瀬戸の耳元で、誰にも聞こえないほど小さな声で囁いた。
「……先輩。もう、引き返せませんよ?」
夏の朝の光が差し込む中、春樹の笑顔だけが、不気味なほど鮮やかに輝いていた。




