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『瀬戸と春樹 ―天使の皮を被ったサイコパスな後輩に、人生を丸ごと乗っ取られる話―』  作者: 八雲 律


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第5話 雨の密室、甘い熱

 叩きつけるような雨音が、プレハブ造りのトレーニングルームに反響している。 梅雨の湿気と、数人の部員が発する熱気。窓は白く曇り、外の世界との境界線は曖昧になっていた。

 神崎が部を去ってから、瀬戸のプレーにはどこか精彩を欠く瞬間が増えていた。長年隣にいた相棒を、自分の手で切り捨てたという事実。それが正しい選択だったと信じながらも、瀬戸の心には正体不明の空洞が空いている。

(……神崎。あいつ、今頃どうしてるんだ……)

「瀬戸先輩。……また、神崎先輩のこと考えてますか?」

 背後から、鈴を振るような甘い声が届いた。 振り向くと、春樹が心配そうに小首を傾げている。その透き通るような瞳に見つめられると、瀬戸は自分が「裏切り者」を案じていることに、奇妙な罪悪感を覚えるのだった。

「いや……別に。少し、体が重いだけだ」

「無理しないでください。先輩には、僕がついていますから」

 春樹はふわりと微笑み、瀬戸の背中にそっと手を添えた。その手のひらの熱が、濡れたTシャツ越しにじわりと伝わる。

 その日のメニューは、雨天により室内での筋力トレーニングに変更された。 狭い室内に重苦しい金属音が響く。瀬戸は、自分の心の乱れを振り払うように、普段以上の高負荷でスクワット台に向かっていた。

「……っ、ぐ……!」

 三セット目の後半。瀬戸の右足に、電気が走るような鋭い痛みが走った。 踏ん張りが揺らぎ、バーベルの重みに体が沈みかける。

「危ない!」

 誰よりも早く、春樹が瀬戸の体を受け止めた。 瀬戸がバーベルをラックに戻すのを必死に支え、そのまま倒れ込むような彼を、自分の細い体で受け止める。

「……悪い、春樹。少し……右のふくらはぎを……攣ったみたいだ」

 瀬戸は荒い息を吐きながら、ベンチに腰を下ろした。 鍛え上げられた太腿が、過度の負荷と痛みでわずかに痙攣している。

「見せてください。……あぁ、すごく熱を持ってる。すぐに揉みほぐさないと……」

 春樹は迷うことなく、瀬戸の足元に膝をついた。 他の部員たちが「大丈夫か?」と声をかけるが、春樹はその全てを、慈愛に満ちた、けれど拒絶を孕んだ笑顔で制した。

「皆さん、メニューを続けてください。瀬戸先輩のクセは、いつも一番近くで見ていた僕が分かっています。……僕が、責任を持って治しますから」

 部員たちは、その「天使」の気迫に押されるように、再び自分のトレーニングに戻っていった。 部屋の隅。雨音に遮られた、二人だけの歪な聖域。

 春樹は、瀬戸の練習用タイツの裾を、膝の上までゆっくりと捲り上げた。 露わになった、逞しく、汗ばんだふくらはぎ。春樹は、その肉体をまるで世界にたった一つしかない、自分だけの宝物を確認するかのように、熱に浮かされた瞳で見つめた。

 だが次の瞬間、春樹の瞳に冷酷な光が混じる。 この脚は、つい先日まで神崎と肩を並べて走っていたものだ。神崎の汗が飛び、神崎の視線が注がれていた肉体。その事実が、春樹の胸に耐え難い嫉妬の毒を回らせる。

(……汚れてる。神崎先輩の残り香が、まだここにこびりついているみたいだ。僕が全部、上書きしてあげなきゃ)

 春樹は、至宝を扱うような手つきで、けれど捕食者が獲物の感触を確かめるような残酷さを持って、その肌に触れた。

「……っ。おい、春樹……」

 春樹の指先が、瀬戸の肌に沈み込む。 汗の匂い、男の体温、筋肉の躍動。春樹の指先は、マッサージという名目を超え、執拗に瀬戸の肌をなぞり、「神崎の記憶」を削り落として「僕の色彩」で塗りつぶすかのように、深く、深く食い込んでいった。

「痛みますか? 先輩。……でも、我慢してくださいね。僕が、先輩の痛みも全部、吸い取ってあげますから」

 春樹の指先に力がこもる。瀬戸は、その力加減が驚くほど正確であることに気づく。まるで、自分の体の弱点を、自分以上に知り尽くしているかのような。

「お前……本当に、よく見てるんだな」

「はい。誰よりも。神崎先輩よりも、ずっと深く。……先輩の体も、心も、僕に任せてくれればいいんです」

 春樹は顔を上げ、瀬戸を見上げた。 潤んだ、熱っぽい視線。その瞳の奥には、献身を隠れ蓑にした、どろどろとした所有欲が渦巻いている。だが、疲労と痛みの中にいる瀬戸には、それが「自分を救ってくれる慈悲」にしか見えなかった。

「……そうだな。今は、お前だけが頼りだ、春樹」

 瀬戸の無防備な言葉が、春樹に最後の一線を越えさせる勇気を与える。 春樹は、瀬戸の足を自分の膝の上にしっかりと固定し、ふくらはぎの裏側から、膝裏の敏感な部分へと指を滑らせた。

「……っ、そこは、マッサージと関係……っ」

「いいえ。ここを解さないと、また攣ってしまいますよ」

 春樹はわざとらしく小首をかしげ、いたずらっぽく、けれど冷徹に笑った。 瀬戸の体が、春樹の指の動きに合わせてピクリと跳ねる。瀬戸は、自分が後輩に翻弄されているような、言いようのない背徳感に襲われた。だが、その指先が与えてくる熱と快感は、神崎を失った心の穴を、甘く、毒々しく埋めていく。

「先輩のこの足は、僕を追いかけるためにあるんですよね? 誰のところにも行かないように、僕が、魔法をかけてあげます」

 春樹は、瀬戸の足首に顔を寄せた。 そして、マッサージのついでを装い、瀬戸の肌に自分の唇を一瞬だけ押し当てた。 瀬戸は、それが単なる接触なのか、それとも意図的な愛撫なのか、判断がつかなかった。ただ、頭が白く霞み、春樹という存在に絡め取られていく恐怖と快感だけが、雨音と共に増幅していく。

(……逃げないでくださいね、先輩。もう、外の世界には、先輩の味方は一人もいないんですから)

 春樹は、瀬戸の膝に自分の頬を擦り寄せ、幸福そうに目を細めた。 雨はまだ降り続いている。 プレハブの密室で、春樹の指は、瀬戸の肉体のすみずみにまで「僕のものだ」という見えないマーキングを刻み続けていた。

 瀬戸はただ、自分を全肯定してくれる春樹の細い指先に、自らの重力ごと預けることしかできなかった。


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