第4話 汚れたマーキング
次の日の放課後、春樹は人気のない渡り廊下で、神崎を待ち伏せていた。
「神崎先輩。昨日はありがとうございました。お洗濯、完璧にしてきましたよ」
春樹は「天使」の笑顔で、紙袋を差し出した。中には、春樹が「駅のゴミ箱に捨てたもの」とは別の、神崎のモデルと同じ新品の練習着が入っている。
「……佐倉。お前、悠真に何をしてる?あのプリント、一年生が持ってるはずないだろ」
神崎は紙袋を受け取らず、春樹を壁際に追い詰めた。その目は怒りと、隠しきれない不気味さへの拒絶で満ちている。
「何って……ただの予習ですよ? 先輩、僕の親切がそんなに怖いですか?」
「白々しい……! 悠真はお前を信じてるが、俺は騙されないぞ。何たくらんでる?あいつの周りをうろちょろするな。これ以上何かしてみろ、俺が悠真に全部……」
「全部、何ですか?」
春樹の声から、ふっと感情が消えた。 彼は神崎の耳元に顔を寄せ、鈴の鳴るような声で囁いた。
「『佐倉は異常だ』って言いますか? でも、先輩。瀬戸先輩は、自分のために一生懸命な僕と、僕を邪険にする先輩、どちらを信じるでしょうか」
「おまえ……!」
神崎が怒りで春樹の胸ぐらを掴み上げた、その瞬間だった。 春樹は神崎の腕を自分の方へ強く引き寄せ、自ら後方の壁へと激しく頭を打ち付けた。
ドゴォッ!!
「あうっ……!!」
鈍い音と共に、春樹が床に崩れ落ちる。あまりに派手な倒れ方と衝撃音に、角を曲がってきた女子生徒たちが悲鳴を上げた。
「……きゃあああ! 佐倉くん!?」
「ちょっと、神崎先輩! 何してるんですか!!」
駆け寄ってきた女子生徒たちが、震えながら頭を押さえる春樹を囲む。春樹はわざとらしく顔を歪め、指の間から一筋の血を流しながら、怯えた目で神崎を見上げた。
「……ごめんなさい、神崎先輩。僕、ただ洗濯物を返しに来ただけなのに……。そんなに、僕のことが、嫌いだったんですか……?」
「ち、違う! こいつが自分で勝手に……!」
神崎の弁明は、集まってきた野次馬たちの非難の視線にかき消された。 「ひどい……」「佐倉くんあんなに優しいのに」「神崎先輩ってこんな風に後輩をこきつかってるの?」 ひそひそと交わされる言葉の刃が、神崎のプライドを切り裂いていく。
「……あ、あはは」
神崎は、女子生徒たちの背後で、前髪の隙間から自分を見つめる春樹の瞳を見た。 そこには、涙など一滴もなかった。冷たく、勝利を確信した捕食者の目が、神崎に「死」を宣告していた。
神崎はその場にいられなくなり、逃げるように走り去った。 翌日から、神崎は「風邪」と称して学校を欠席し、部活からも姿を消した。
…神崎が部活を休み始めて、四日が過ぎた。 グラウンドの片隅でボールを片付けながら、春樹は瀬戸の横顔を盗み見る。瀬戸は練習中、何度も神崎がいるはずだったディフェンスラインの空白に視線を送っていた。
「……瀬戸先輩。神崎先輩、今日も欠席ですね」
春樹は、わざとらしく沈んだ声で話しかけた。
「ああ。風邪だって聞いてたが、長引いてるな。明日、様子を見に行ってくる」
「……行かないでください」
春樹が小さく呟くと、瀬戸は驚いたように足を止めた。
「どうした、春樹?」
「いえ……何でもありません。僕が、我慢すればいいだけですから」
春樹は潤んだ瞳で瀬戸を一瞬だけ見つめ、すぐに顔を伏せた。そして、震える手で自分の左腕の袖を少しだけ捲り上げる。そこには、赤紫色の痛々しいアザが、指の跡のように残っていた。
「おい、そのアザ……どうしたんだ」
瀬戸が春樹の手首を掴み、袖をさらに捲り上げる。春樹は「あ、ダメです!」とわざとらしく抵抗しながら、さらに多くの「傷」を瀬戸の目に晒した。
「……誰にやられた」
瀬戸の声から温度が消えた。春樹は唇を噛み、涙をこぼしながら、断続的に言葉を紡ぐ。
「……神崎先輩です。あの、プリントを貸した翌日……呼び出されて。瀬戸先輩に近づくな、お前が気持ち悪いことをしているのは全部知っているんだって、突き飛ばされて……。僕のせいで、先輩たちの仲が悪くなるのは嫌だったから、黙っていようと思ったんですけど……」
「神崎が、そんなことを……?」
瀬戸は呆然と立ち尽くした。親友の神崎が、自分を慕う健気な後輩に暴力を振るっていた。蜂の件のあと、神崎の余所余所しい態度や、春樹が時折見せていた怯えるような仕草。それら全てが、瀬戸の頭の中で一つの「真実」として繋がっていく。
「信じられませんよね……。神崎先輩は、僕が先輩の数学を手伝っているのが、自分への当てつけだと思ったみたいで。……先輩、僕、もう怖くて。神崎先輩が部活に戻ってくるなら、僕……」
春樹は瀬戸の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。瀬戸の逞しい体が、怒りと困惑で硬くなるのを感じる。春樹は心の中で、勝利の産声を上げていた。
(神崎先輩、お疲れ様。先輩が僕に抱いた『恐怖』を、そのまま先輩への『罪』に書き換えてあげましたよ)
実際のアザは、昨夜、春樹が自分の部屋で、瀬戸の写真を眺めながら自ら付けたものだった。痛みなど感じなかった。これが瀬戸を独り占めするための代償だと思えば、むしろ甘美な刺激ですらあった。
週があけ、神崎が久しぶりに部室に姿を見せた。
「……悠真。少し話せるか? この前のプリントのことなんだが、佐倉のやつ、やっぱりおかしいぞ」
神崎は、自分が調べた春樹の不審な点——瀬戸の周辺を徘徊していた目撃情報など——を伝えようと、瀬戸に歩み寄った。だが、瀬戸は神崎が差し出した手を、冷酷に振り払った。
「触るな。……神崎、お前には失望した」
「……え?」
「春樹に何をしたか、白状しろ。あいつの腕のアザ、お前がやったんだろ」
部室の空気が凍りつく。神崎は目を見開き、背後に立つ春樹を見た。春樹は、他の部員の陰で、瀬戸には見えない角度から、神崎に向かってゆっくりと口角を上げた。その瞳には、一切の涙などなかった。
「……は、ハメられたんだよ、悠真! こいつが自分でやったんだ! 佐倉、お前、いい加減にしろ!」
激昂した神崎が春樹の襟元を掴もうとした瞬間、瀬戸がその間に割り込み、神崎を力任せに突き飛ばした。
「春樹に触るなって言っただろ!」
瀬戸の怒声が部室に響き渡る。突き飛ばされた神崎は、ロッカーに背中を強打し、崩れ落ちた。瀬戸は怯える春樹を自分の背後に庇い、かつての親友を、ゴミを見るような冷徹な目で見下ろした。
「……もう、俺の前に現れるな。部活も、辞めてくれ」
「……本気か、悠真。こいつの嘘を信じて、俺を切るのか?」
「春樹は嘘なんてつかない。あいつはいつだって俺のために、ボロボロになるまで尽くしてくれてるんだ」
神崎は力なく笑った。瀬戸の目は、もう春樹という毒に完全に冒されている。何を言っても届かない。神崎は床に落ちたバッグを拾い上げ、ふらふらとした足取りで部室を出て行った。
部員たちが去り、静まり返った部室。 春樹は、まだ怒りで肩を震わせている瀬戸の腰に、後ろからそっと手を回した。
「……瀬戸先輩。ありがとうございます。僕を守ってくれて」
「……すまない、春樹。俺がもっと早く気づいていれば」
瀬戸は、春樹の細い手を握り返した。その手は、優しさと、後輩を守らなければならないという使命感に満ちていた。
「いいんです。これで、邪魔なものは何もなくなりました。……これからは、僕だけが先輩を支えます。誰にも邪魔させません」
春樹は心の中でほくそ笑み、瀬戸の背中に顔を押し当て、深く息を吸い込んだ。 神崎という最後の「不純物」が消えた。瀬戸の心は今、怒りと悲しみ、そして春樹への申し訳なさで脆くなっている。
(あぁ、いい匂い……。先輩、聞こえますか? 僕の心臓の音。先輩を閉じ込めるための、檻の扉が閉まる音です)
窓の外では、不穏な雨雲が空を覆い始めていた。 次の練習日——あの土砂降りの雨の密室で、春樹のマーキングはさらに深く、瀬戸の肉体へと刻まれていくことになる。




