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『瀬戸と春樹 ―天使の皮を被ったサイコパスな後輩に、人生を丸ごと乗っ取られる話―』  作者: 八雲 律


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第3話 蜜の罠と異常な献身

 西日に照らされたグラウンドに、ホイッスルの音が長く響き渡る。 部活動終了の合図だ。土埃の匂いと、火照った皮膚をなでる夕風。佐倉春樹は、流れる汗を拭うことさえ忘れ、数メートル先でチームメイトと肩を並べる瀬戸悠真の背中を、網膜に焼き付けていた。

「悠真、今日の最後のスライディング、キレてたな」

 声をかけたのは、二年生の神崎悟だ。瀬戸と同じディフェンスラインを守る相棒であり、中学からの付き合いだという。神崎はひょろりと高い背中を丸め、瀬戸の肩に馴れ馴れしく腕を回した。

「……ああ、神崎のカバーがあったからな」

 瀬戸は短く答え、薄く笑った。その、信頼しきった戦友に向ける眼差し。 春樹は、胸の奥でどす黒いものが沈殿していくのを感じた。

(汚い……。神崎先輩の手、砂だらけじゃないか。そんな手で、僕の先輩に触らないでほしい)

 春樹は足元に転がっていたボールを拾い上げると、いつもの「天使」の微笑みを顔に貼り付け、二人の元へ駆け寄った。

「瀬戸先輩、お疲れ様です! これ、冷たいお水です」

 春樹はあらかじめ用意しておいた、キンキンに冷えたペットボトルを瀬戸に差し出す。神崎の腕が瀬戸の肩から離れるよう、絶妙な角度で二人の間に割り込んだ。

「おう、サンキューな、春樹。気が利くな」

 瀬戸がそれを受け取り、喉を鳴らして水を飲む。首筋を伝う水滴。春樹はその一滴さえも、自分が拭ってあげたいという衝動に駆られる。

「あ、佐倉。俺の分は?」

 神崎が冗談めかして手を差し出してきた。春樹は、一瞬だけ神崎の瞳の奥を見つめた。神崎の目は笑っているが、どこか観察するような、冷ややかな光が混じっている。

「すみません、神崎先輩! 瀬戸先輩の分しか冷やしていなくて……。あ、でも、あそこの水道なら、今ちょうど誰も使ってませんよ。」

 春樹は首をかしげ、申し訳なさそうに、けれど完璧な親切心を持って微笑んだ。 神崎は一瞬、面食らったような顔をしたが、すぐに鼻で笑った。

「はは、そうかよ。悠真、俺、先に着替えてるわ。後で飯行こうぜ」

「ああ、すぐ行く」

 神崎が部室へと歩き出す。春樹はその背中を見送るふりをして、心の中でその存在を塗りつぶした。

 部室は、汗の匂いと男たちの熱気で満ちていた。 瀬戸がロッカーの前でユニフォームを脱ぎ捨てる。鍛え上げられた広背筋が、夕闇の差し込む室内で鈍く光る。春樹は自分の着替えもそこそこに、瀬戸の動きを注視していた。

「悠真、この前の数学のプリント、持ってるか?」

 神崎が、隣のロッカーから身を乗り出して瀬戸に話しかける。

「バッグの中にある。勝手に取れ」

「悪いなー。お前の整理整頓、相変わらず潔癖レベルだな」

 神崎の手が、瀬戸のプライベートな領域であるバッグへと伸びる。 春樹の視界が、真っ赤に染まった。

(……許せない。僕だってまだ、先輩のバッグの中身を全部は把握していないのに。そんな汚れた手で、先輩の私物に触れるなんて。神崎先輩は、先輩の優しさに甘えすぎている)

 春樹は、自分のロッカーにしまっていた「あるもの」を手に取り、自然な足取りで二人に近づいた。

「瀬戸先輩、神崎先輩! あの、もしよかったらこれ、食べてください!僕、家で多めに作っちゃったんです」

 差し出したのは、小さなジップロックに入った、蜂蜜漬けのレモン。 女子マネージャーもいないこの部活で、そんな家庭的な差し入れは異質だったが、春樹がやると「気が利く後輩の献身」として成立してしまう。

「お、マジか。春樹、女子力たけーな」

 神崎がレモンを一枚つまもうとした、その時。 春樹はわざとらしく、自分の手を滑らせた。

「あ……っ!」

 ジップロックから溢れた蜂蜜の液が、神崎の練習着の袖と、彼が持とうとしていた瀬戸の数学のプリントに、べったりと付着した。

「わ、ごめんなさい! 神崎先輩、僕、なんてことを……!」

 春樹は顔を青くし、涙目になって謝罪した。慌てて神崎の袖を自分のタオルで拭い始めるが、それは汚れを広げているようにしか見えない。

「あーあ、悠真、悪い。借りようとしたプリントがベタベタだ……」

 神崎が困り果てて、蜂蜜まみれになった二年生の数学のプリントを持ち上げる。 瀬戸はそれを見て、申し訳なさそうに眉を下げた。「気にするな、神崎。……ただ、これじゃお前、課題が解けないな」

「そうだよな。……参ったな、誰か他の奴に借りるか」

 神崎が肩をすくめたその瞬間、春樹が「待ってました」とばかりに、自分のバッグから一冊のファイルを取り出した。

「神崎先輩、本当にすみません! あの、お詫びと言ってはなんですけど、僕が持っている二年生の数学プリントの写しを貸します!」

「え……? お前、一年生だろ。なんで二年のプリントなんて持ってるんだ?」

 神崎が怪訝そうな顔で春樹を見つめる。瀬戸も不思議そうに視線を向けた。春樹は一瞬だけ瞳を揺らし、けれどすぐに「天使」の献身的な笑顔を作った。

「あの……僕、瀬戸先輩が数学の課題で居残りしてるって聞いて。……少しでもお役に立ちたくて、二年生の教科書を先に買って、予習しておいたんです。これ、先生にお願いして貰った予備のプリントに、僕が解き方をまとめておいたものです。よければ使ってください」

「……春樹」

 瀬戸は絶句した。自分のために、そこまで。 一年生が二年生の勉強を先取りしてまで、自分の居残りを心配してくれていた。その健気すぎる思いに、瀬戸の胸には強い罪悪感と、それを上回る愛おしさが込み上げる。

「……悪いな、春樹。俺のためにそんなことまで。神崎、そういうことなら春樹のを借りてやれよ。こいつ、俺のために一生懸命作ってくれたんだ」

「……。ああ、そうだな。……サンキュー、佐倉」

 神崎は、背筋に冷たいものが走るのを感じながら、春樹のファイルを受け取った。 一年生が、わざわざ学年違いの教科書を買い、予備のプリントまで入手して、完璧な対策ノートを作っている。それはもはや「健気な後輩」の域を超えていた。

(こいつ……、怖い。悠真のことを、どこまで調べてるんだ?)

 神崎の抱いた直感的な恐怖を、瀬戸の感動した声が塗りつぶしていく。

「あ、神崎先輩。その練習着も僕が持ち帰って洗ってきます。蜂蜜は落ちにくいですから、僕のせいですし……ね?」

「……。ああ、頼むわ」

 神崎が脱ぎ捨てた練習着を、春樹は恭しく受け取った。 その日の帰り道。春樹は、神崎の練習着を瀬戸の目が届かない隙に、駅のゴミ箱に叩き込んだ。そして、瀬戸の汚れたプリントを胸に抱きしめ、暗い悦びに浸った。

「汚い練習着、手に持つだけで気持ち悪い。神崎先輩。……先輩の隣には、不純物は必要ないんですよ」

 隣を歩く瀬戸は、自分を家まで送ってくれる優しい後輩の横顔を見て、「本当にいい奴だな」とだけ思っていた。二人の影が、長く、不気味に伸びて重なり合う。


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