第2話 吐息の距離、周到な罠
昇降口を出てすぐ、二人は田んぼのあぜ道に差し掛かった。あたりは刻々と夕闇に染まり始め、虫の音がうるさいほどに響いている。
春樹は、先ほど瀬戸に頭を触られた右の側頭部をそっと撫でた。残された体温と、微かに香る爽やかな石鹸の匂い。
(先輩の優しさ、やっぱり僕を試している。僕がどこまで本気か。…もう後戻りはしない)
「瀬戸先輩、明日の朝練、僕が一番にボール磨きしておきますね」
「ん?ああ、悪いな。気が利くな、春樹は」
瀬戸の言葉はいつも通り、何の含みもない感謝の言葉だ。しかし春樹は、これを「先輩が僕の献身を受け入れたサイン」だと受け取った。
次の日の放課後。グラウンドには土砂降りの雨が降り注ぎ、部活は急遽、部室棟の横にある小さなトレーニングルームでの筋力トレーニングに変更された。
部員たちがざわめきながら狭いトレーニングルームに集まる中、春樹は先回りして、使用済みのベンチプレス台やダンベルの汗を拭き始めた。もちろん、狙いは瀬戸が使う器具だ。
トレーニングが始まり、春樹は瀬戸の斜め後ろで、プッシュアップのメニューをこなしていた。瀬戸は背中の筋肉を鍛えるローイングマシンに向かう。
ギィ、ガチャン。
鍛錬の音と部員たちの荒い呼吸音だけが、密室に響く。春樹は、瀬戸が上半身を反らした際に、Tシャツの裾からわずかに覗く引き締まった腹筋を目で追った。
(はぁ……先輩の体のライン、なんて美しいんだろう。この鍛錬は、すべて僕のためだと思ってもいいんですよね)
その時、ローイングマシンのワイヤーが引っかかるような異音が響いた。
「あれ、やばいな。ワイヤーが変に食い込んでる」
瀬戸がマシンを止めて呟いた。コーチは別メニューを指導中で、部員たちは自分のメニューに集中している。
春樹は、待ってましたとばかりに立ち上がった。
「瀬戸先輩、僕、機械いじり得意なんです!ちょっと見せてください」
春樹はマシンに近づき、瀬戸のすぐ横に膝をついた。春樹の顔と、瀬戸の逞しい太腿の距離が、一気に縮まる。春樹の心臓が、耳元でドクドクと鳴り響いた。
「悪いな。ここ、ワイヤーのカバーが外れてて…」
瀬戸は少し前かがみになり、春樹にワイヤーの食い込み部分を指し示した。その時、瀬戸の汗が混じった、わずかに熱を持った息が、春樹の耳元にかかった。
春樹は、指先の震えを必死に抑えながら、無造作に外れていたワイヤーカバーをカチリと押し込んだ。しかし、その手は意図的に、ワイヤーを固定する瀬戸の逞しい手の甲に、一瞬だけ触れた。
「直りました。これで大丈夫です、先輩」
た
春樹は満面の笑みで立ち上がった。彼の瞳は、暗い密室の中で、熱っぽい光を放っている。
「助かった。さすがだな、春樹」
瀬戸は満足そうに微笑み、再びマシンに座り直した。
(今の接触は、偶然じゃなかった。僕の熱意を、受け入れてくれた証拠だ)
春樹は、汗を拭う瀬戸のタオルを見つめる。そして、ふと思いついた。
「先輩、僕のタオルと交換しませんか?先輩のほうがたくさん汗かいてるから、僕のほうが大きくて吸水性がいいんです。遠慮しないでください」
これは、瀬戸の匂いが染み込んだタオルを手に入れるための、春樹の周到な策略だった。
瀬戸は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑顔で答えた。
「はは、いいのか?じゃあ、借りるわ。サンキューな」
瀬戸は自分のタオルを春樹に渡し、春樹の新品のようなタオルを受け取った。春樹は胸に熱い歓喜を覚えた。瀬戸の愛用していた、汗と体温の染み込んだタオルの匂いを、春樹は誰にも気づかれないように深く吸い込んだ。
(これで、先輩の一部が、僕のものになった)
瀬戸は春樹のタオルで無邪気に汗を拭いている。春樹の心の中では、自分たちの関係は、もう誰も邪魔できない領域に進んでいると確信していた。
だが、瀬戸の頭の中は単純だ。
(春樹は本当に優しい後輩だ。こんなに気が利く一年生は他にいない。弟みたいに可愛いな)
狭いトレーニングルームの片隅で、二人の間には、深くて甘美な誤解が、ますます深く、濃く積み重なっていくのだった。




