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『瀬戸と春樹 ―天使の皮を被ったサイコパスな後輩に、人生を丸ごと乗っ取られる話―』  作者: 八雲 律


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第10話 聖域の浸食

 秋の日は短く、グラウンドを照らすオレンジ色の光は、部員たちの長い影を芝生の上に引きずり出している。 サッカー部の練習風景は、一見すると以前と変わらない活気に満ちていた。だが、その中心にいる瀬戸悠真を囲む空気だけは、どこか薄氷のような危うさと、他者の介入を許さない拒絶感が漂っていた。

「……瀬戸のやつ、またキレが増してないか?」

 部員の一人が、給水中に小声で漏らした。 確かに、瀬戸のプレーは神がかっていた。無駄のない動き、精密なパス、そして相手の隙を冷酷に突くシュート。かつての瀬戸は、仲間と声を掛け合い、泥臭くゴールを狙う「熱い男」だった。しかし今の彼は、まるで高性能なAIが制御しているかのように、感情を排して「最適解」だけを叩き出している。

 その「制御」を担っているのが、ベンチの隅に座る佐倉春樹であることを、部員たちは直感的に理解していた。

「佐倉、また何か特別なメニューでも組んだのか? 瀬戸のスタミナ、後半になっても全然落ちねえな」

 三年生の先輩が声をかけるが、春樹は微笑むだけで答えない。その瞳は常にグラウンドを走る瀬戸の、その一挙手一投足を、瞬きすら惜しむように捉え続けている。春樹の手元のタブレットには、瀬戸の心拍数、走行距離、果ては発汗量までが詳細に記録されていた。

 それはもはや、後輩が先輩をサポートする範疇を遥かに超えている。 春樹は瀬戸を「育成」しているのではない。自分の理想という型に嵌め込み、磨き上げ、世界で自分だけが理解できる「完璧な作品」に変造しているのだ。

「……あいつ、ちょっと怖えよな」

 先輩は、春樹の視線が瀬戸の肉体を、なぞるように追いかけているのを見て、背筋に走る戦慄を隠せなかった。

 練習後、部室の空気はさらに重苦しいものへと変わる。 瀬戸は他の部員と談笑することもなく、隅のベンチに座り込む。すると、春樹がまるで影が分離したかのようなタイミングでその背後に立ち、瀬戸の肩に手を置いた。

「瀬戸先輩、お疲れ様です。今日の第三クォーター、右膝の踏み込みがわずかに浅かったですね。後で入念にケアしましょう。……今夜は、僕の家で夕食を食べていってくださいね。先輩の体質に合わせた、特別なプロテイン配合のメニューを用意していますから」

「……ああ。分かった」

 瀬戸の声は低く、どこか抑揚を欠いていた。 かつてなら「みんなでファミレス行こうぜ」と騒いでいたはずの男が、今や春樹の提示するスケジュールに従うだけの操り人形のようになっている。

「瀬戸、たまには一緒に帰らねーか?」

 かつてのチームメイトが、勇気を出して声をかけた。神崎がいなくなった後、瀬戸を孤立させてはいけないという、彼らなりの気遣いだった。 だが、その言葉が終わる前に、春樹の視線が鋭くその部員を射抜いた。

「すみません。瀬戸先輩の今のコンディションだと、余計な寄り道は疲労を蓄積させるだけなんです。先輩を本当に思うなら、休ませてあげてください」

 春樹の言葉は丁寧だが、その裏には「僕と先輩の聖域を汚すな」という明確な拒絶があった。 部員は春樹の、貼り付いたような「天使の笑顔」の下にある底知れない敵意に気圧され、「……ああ、そうだな。悪い」と引き下がるしかなかった。

 部員たちが去り、静まり返った部室。 瀬戸は、鏡の中に映る自分を見た。 かつての親友、神崎を切り捨てたあの日から、自分の世界は劇的に狭まった。その代わりに手に入れたのは、圧倒的な「結果」と、自分を神のように崇める春樹という存在だ。

 瀬戸は知っている。春樹が自分のロッカーを掃除するふりをして、使用済みのソックスや空のペットボトルを持ち帰っていることを。 瀬戸は知っている。春樹の部屋の壁が、隠し撮りされた自分の写真で埋め尽くされていることを。 そして瀬戸は、自分がそれを「拒絶していない」ことも自覚していた。

 外界の人間は、自分に期待し、裏切り、去っていく。神崎ですら、自分を「無能」だと見下していた(と、春樹に教えられた)。 そうであれば、自分を完璧だと信じ、二十四時間監視し、守り、コントロールしてくれるこの少年の中に閉じこもる方が、どれほど楽だろうか。

「先輩。……何を考えているんですか?」

 春樹が、瀬戸の首筋に顔を寄せた。 その吐息は熱く、瀬戸の肌を麻痺させる毒のように染み込んでいく。

「……お前の言う通りだと思ってな。お前がいれば、俺は完璧だ」

「はい。その通りです。先輩には、僕だけがいればいい。他の誰にも、先輩の本当の輝きは理解できないんですから」

 春樹は、瀬戸の指に自分の指を一本ずつ絡めていった。 それは、複雑に組み合わさった「知恵の輪」のようであり、一度噛み合ったら二度と外れない、鋼鉄のギアのようでもあった。

 二人は校門を出て、夕闇の中を歩き出す。 瀬戸は春樹のリードに身を任せ、ただ前だけを見て歩く。春樹は一歩下がりながらも、瀬戸の腕を離さない。

「先輩。明日の朝、迎えに行きますね」

「ああ」

「ずっと、僕のそばにいてくださいね」

「……ああ。約束だ」

 瀬戸の返答に、春樹は幸福感に満ちた、恐ろしいほど純粋な笑みを浮かべた。

 その様子を、校舎の屋上から見下ろしている部員たちがいた。 「……なぁ。あの二人、やっぱりおかしくないか?」 「ああ。瀬戸は上手くなってるけど、なんていうか……あいつ、もう生きてる人間って感じがしないよ」 「佐倉のやつ、瀬戸を飼ってるみたいだ」

 彼らが感じた違和感は、もう「噂」の域を超え、確信に変わりつつあった。 だが、誰もそれを声に出して止めることはできない。 瀬戸が望んでその檻に入り、自ら鍵をかけてしまったことを、彼らは本能で察していたからだ。

 二人の姿が、街灯の届かない暗闇の向こうへと消えていく。 それは、逞しく伸びようとする一本の「茎」に、しなやかな「蔓」が隙間なく巻き付き、やがてその本体を絞め殺すように覆い隠して、一つの異形な植物へと変えていくような、終わりなき「侵食」の風景だった。

 空には、何もかもを見通すような冷淡な月が浮かんでいた。 「天使」という名の捕食者に、その身も心も、すべてを捧げた男。 瀬戸悠真は、自ら作り上げた聖域という名の檻の中で、春樹という唯一の真実に抱かれながら、静かに、そして確実に壊れていった。


(完)



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