⑤
「さてそれじゃあ、……お仕事しますか」
ミディアは砦から少し離れた物見の塔――石造りの立派な塔の最上部にいた。高さは四階建てほど。壁面には苔がこびりつき、かつては屋根付きの見張り台だったらしい。
そんな所にいてゴブリンから見つからないのか。そもそもどうして物見の塔にゴブリンがいないのか。
答えは簡単。
発情期のゴブリンたちは極めて知能が低下する、らしい。
1に繁殖、2に繁殖、3,4も繁殖と行動のすべてが繁殖に向かうため、食事も睡眠もとりそこねて死んでしまう個体すらいるそうだ。
雌が極めて少ない場合などは一匹の雌に大量の雄がむらがって窒息死することすらあるという。
魔塔の研究者の間では、そうして死んだゴブリンの塊を「ゴブ玉」などと呼んでいる。「今回の繁殖地ではゴブ玉が3つも見つかったぞ」といった文脈で使われる。なかなかご趣味のいいネーミングだ。
ちなみにゴブ玉をばらしてみたところ雌が一匹も発見されなかったという悲劇的なこともあるらしい。
本来なら、この塔にもゴブリンの見張りがいるはずだった。
だが今の彼らは、それどころではない。
砦から離れて動き出すゴブリンがいるとすれば、あり余る性欲を発散する相手を探すときだけ。
当然、相手としては人間が狙われる。しかも、できるだけ数が多い集落が好ましい。
……わざわざ物見の塔を襲う理由はない。
と、ディアドラさんは言っていた。
信じたい。心の底から信じたい。 ここに押し寄せられたら、櫓ごと潰されて圧死する。
とにもかくにも。
ミディアは、魔法陣を展開するための絶好の足場を手に入れた。
あとは、準備を進めるだけだ。
塔からは周囲が一望できる。
ゴブリン達が占拠している砦は山の頂上に立っており、その先に広がるのは荒れ果てた土地と滅びた都市の残骸だ。
「あれが……灰燼都市エジスーラ」
見渡すかぎりの荒涼たる砂地。
大地には、竜の頭蓋骨を思わせる巨大な化石が、あちこちで朽ちかけていた。
そこに点在するのは、地をえぐるように口を開けた窪地ばかり。
かつてこの都市は、難攻不落の戦艦のように砂の海にそびえ立ち、人々の希望の御旗だったという。
幾星霜を経た今――
戦艦は、巨大な棺へと成り果てた。
外壁は、民なき今もなお堅牢だった。
だが市街地は、焦げついた大通り、折れた尖塔、破壊されたバリスタが瓦礫に埋もれ、見る影もない。
エジスーラ。
そこを治めていたのは、ラシャド王家と同じく、光神ロタティアンの寵児エダンの血を引く一族だった。
もとはドラゴンに弓引く反逆の砦として築かれ、後には西方の大国ヴァルドラグとの大戦において、最前線を守り続けた。
しかし、肥沃だった地は荒廃し、やがて独裁的な軍事国家へと変貌を遂げる。
かつての盟友――ラシャド王国にまで、侵攻の刃を向けるようになった。
この砦は、エジスーラの侵攻を食い止めるために築かれたものだ。
だが、すべては百年前の一夜に崩壊した。
エジスーラは、突如現れた巨大な魔瘴に飲み込まれたのだ。
魔瘴――黒き霧。
そこからは、とめどなくモンスターがあふれ出す。
どれほど堅牢な城塞であろうと、内側から襲われればひとたまりもない。
魔瘴は今も、大陸各地に出現しては甚大な被害をもたらしている。
小規模なものから、都市ごと呑み込むものまで、その規模は様々だ。
エジスーラを滅ぼした魔瘴は――間違いなく、史上最大級だった。
魔瘴は恐怖だ。
この世界のすべての民は、常にその出現に怯えながら生きている。
そして、唯一その魔瘴を祓う力を持つのが――『教会』に仕える聖女たちだった。
『教会』が大陸において不動の地位を誇るのは、その奇跡に他ならない。
「そういえば、『未来視』では、大聖女様らしき人がいたっけな」
ミディアは小さく呟き、遠い空に思いを馳せた。
大聖女――
それは、巨大な魔瘴ですら封じることができる、特別な聖女を指す呼び名だ。
聖女が生まれるときには、必ずその力を必要とする災厄が起きる。
巨大魔瘴の出現か、あるいは他国との大規模な戦争か。
魔瘴が現れたとき、聖女たちは『奇跡』の術をもってそれを封じる。
小規模な魔瘴なら各地の教会にいる聖女たちで封印できるらしいが、巨大魔瘴ともなれば、大聖女ほどの力がなければ太刀打ちできない。
『教会』は、それを「神のもたらされる慈悲」と呼んでいた。
……けれど。
魔瘴は、現れた瞬間から周囲の命を容赦なく奪っていく。
もし本当に神の慈悲があるならば、魔瘴そのものが現れないようにしてくれればいいのに。
「な~んて、私が考えても仕方ないけどね」
ただ――
あの『未来視』が正しかったなら、本当に大聖女が現れるのだとしたら。
それは、巨大な魔瘴が再びこの地に現れることを意味している。
あのとき見た、腐敗臭と異様な色に染まった空。
あれはきっと、魔瘴の気配に違いない。
……覚えておかなくては。
さておき、今やるべきは――睡眠魔法の構築だった。
砦を見下ろしながら、距離と効果範囲を測る。
必要な魔法の規模を、慎重に思案する。
まずは基本となる魔法陣。
花の精霊、ルピトピエラの名を紡ぐ。
ミディアは、愛用の杖を取り出した。
飛鯨の骨で作られた軽く頑丈な杖。
先端には魔力変換率を高めるシトリューン――黄色い鉱石がはめ込まれている。
木製の長い杖を選ぶ魔術師は多い。理由は単純だ。
短い杖では、地面に魔法陣を描くとき腰が痛くなる。
杖の先でそっと地面をなぞる。
じわじわと魔力を送りながら杖で描く。魔力の粒子がこびり付き紋が浮かび上がっていく。
花の精霊の陣式を描き、その横に新規構造体――拡張術式を加えていく。
睡眠 → 増幅(範囲拡張:円形) → 増強(出力倍率 ×1.5) → 増強(速度強化) → 安定化(暴走防止) → 安定化(魔力揺らぎ制御) → 増幅(効果時間延長) → 増幅(範囲拡張:円形)
――まだ、圧が足りない。
ミディアは冷静に再評価し、構造式の末尾にさらなる出力増強の術式を追加する。
「出力ピークがまだ低い……変換効率のロスもある。再帰構造、もう1セットいける」
→ 増幅(範囲拡張:円形) → 増強(出力倍率 ×1.5) → 増強(速度強化)
――これで、どうだ。
いや、まだ。あと一段、あとひと押し。
ミディアの手が止まらない。
精霊の術式とリンクする拡張フレームは次第に複雑さを増していく。
だが彼女の瞳に迷いはなかった。頭の中で術式が、組まれ、走る。
「……うん、これで大丈夫」
魔法陣、完成。
けれど、問題はここからだ。
完成した魔法陣に、隅々まで魔力を満たさねばならない。
時間をかけ、丁寧に、確実に。
「あら、やだ。びっくりしたわ。凄い魔法陣ね」
ちょうど周囲の見回りをすませたディアドラが戻ってきた。
所せましと描かれた魔法陣に驚いて足を止めている。
「お、お帰りなさい、ディアドラさん。それ、踏んでも大丈夫です。魔力を流し続けている限りは消えません」
ディアドラはどこか恐る恐るという足取りで魔法陣の中に入ってきた。なんだかんだ陣を踏まないようにしている姿は、猫が器用に障害物を避けているようで微笑ましい。
魔術師以外の人からすれば、魔法陣は踏んだだけでも何かが起こるように見えるらしい。
実際、踏むことによって発動するものもあるので、用心にこしたことはないだろう。
「これで魔法陣は完成なの?」
「魔法陣は完成です。あとは魔力を流し込んで発動させるだけなんですけど……私、魔力変換が異常に遅いので、時間がかかっちゃうんです」
「あら、それじゃあ邪魔しない方が良かったかしら?」
「い、いえ、大丈夫です。あとはじわじわ流すだけなので、喋ってても平気だし、多少離れても平気だし、何なら寝てても平気です」
ミディアが普通の魔術師ならば。
魔法陣が完成すれば、ばばんっと魔力を流してすぐにでも発動してしまえる。
だが魔力効率が異常に悪いミディアには、一気に魔力を流すことはできなかった。
「そもそも普通の魔術師は魔法陣を描く作業もほとんど必要ないんですよ。まぁその魔法の規模にもよりますけど」
「そうなの? 私は魔法はあまり詳しくないのよ。ほら『魔塔』の人たちって秘密主義じゃない?」
「あー……それ、ちょっと違うんです」
ミディアは、説明に迷いながら言葉を選んだ。
「実践向きの魔術師は、魔法の原理にあまり興味がないし、研究者タイプは……人付き合いが苦手で、うまく話せないだけなんです。
秘密ってわけじゃないんですよ。ただ、『魔塔』が管理してる呪文は、勝手に使うと怒られるだけで」
「そうなの? それじゃあ是非、後学のために教えて欲しいわ」
ディアドラにそう言われて、ミディアは胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。
魔術師の多くは、魔法を「どう使えるか」しか気にしない。
「なぜそうなるのか」を知りたがる人は、ほとんどいないのだ。
「そ、そうですね。時間も、ありますし、私なんかで良かったら」
「私なんかじゃないわ。私はね、子猫ちゃんから聞きたいのよ」
ふふふっと笑うディアドラに、思わず頬が赤くなる。
誰かに求められるのは、とても嬉しいことだった。