⑧
誤字脱字のご指摘ありがとうございます。
面白いと思って頂けましたら評価ボタンを押して下さいますと大変励みになります。
どうぞよろしくお願いいたします。
陽は中天に昇る頃合いだった。
だが分厚い瘴気の雲と、飛び交う魔物達たちによって、見上げる空の全てが暗雲と化している。
青々と生い茂っていた草原は見る影もなく死体の山で埋め尽くされ、僅かに見える地面も焦げ付き、血にまみれ、絶望の色に染まっている。
終わらぬ襲撃に騎士たちの疲労はすでに限界を越えていた。
襲い掛かる敵へと降り下ろした剣が宙を斬る。
剣を握る指先に、もはや感覚はない。
盾を上げようとした腕が、震えて止まった。肩が、肘が、まるで他人のもののように動かない。
甲冑のあちこちが歪にへこみ、プレートを繋ぐ革紐もゆるみ、あるいは千切れている。
──敵はどこだ。
兜の中は灼熱のようで、吐く息とこぼれる汗が視界を塞ぐ。
「おい、しっかりしろッ!」
ガァンっと間近で音が響き、吸血大蝙蝠の頭に鈍くメイスが食い込んだ。
ありがとう、と礼を言いかけた相手が目の前にワイバーンに攫われる。
その肉が降り注ぐ瞬間、何の感情も浮かばなかった。
悼むより先に、次の敵の影を探していた。
自分が生きている事すら曖昧に、ただひたすらに武器をふるう。
ここは戦場ではなく、ただ“終わりの来ない罰”のようだと、誰もが思い始めていた。
まだ終わらないのか。
いったいいつまで。
絶望が疲労に追い打ちをかけ、騎士たちの動きを鈍らせる。
明けない夜、永遠の絶望、すべての希望が朽ちかけたその時、基地から一条の光が立ち上る。
「あれは、……」
「奇跡だ、やった、やったぞ!」
「ついに大聖女様がやりとげたッ!!!!」
「光神ロタティアンは我らを見捨てなかった!」
口々にあがる歓喜の声。
誰もが、その瞬間に生き延びたことを信じたのだ。
ミディアも振り返って空を高く仰ぎ見る。
まさしくそれは浄化の光。魔瘴を打ち消す奇跡の術だ。
「ちがう、……」
だが、まだだ。
これは、始まりにすぎない。
ミディアの胸を、理不尽な確信が締めつけた。
奇跡が形を成した時にこそ、あれは牙を剥いたのだ。
風が止んだ。
歓喜を叫ぶ騎士たちが動きをとめる。
顔を見合わせ、空を見上げ、見開いたまなこが奇跡の光にすがりつく。
天の暗雲を貫く光は、その輝きを中心に空が軋むように渦巻いている。
その空が「ドクン」っと脈打った。
赤黒い瘴雲が、薄皮一枚で中身を押し包んだ臓物のように、ぐちゅぐちゅと不規則に蠢いている。
世界を飲み込む怪物の、腹の中にいるかのごとく、空がわななき脈を打つ。
次の瞬間、生臭い瘴気が戦場を凪ぎ払うように吹き下ろす。
折れかけた軍旗が軋みをあげ、瀕死の騎士は膝さえもつけずに転がった。
生き残った軍馬がいななきながら地に倒れる。
あまりの風に呼吸すらもままならない。
ミディアの小さな体は抵抗むなしく浮き上がる。
ヴェルドレッドがその手を掴んでいなければ、吹き飛ばされた事だろう。
そして──、風が止んだ。
倒れ伏した騎士たちが起き上がる。
ミディアもようやく空を振り仰いだ。
誰もがその光景に息を飲む。
天を埋め尽くすは絶望の羽音。
視界のすべてが数え切れぬほどの魔物で覆われる。
だがそれでも足りぬとばかりに、暗雲はなおも魔物を産み落とす。
バジュンっと弾ける音がして、魔物が地面に激突する。
もはや飛行型だけでなく、無差別に産み落とされていく魔物は、肉の雨となって戦場に降り注ぐ。
無様につぶれた肉塊が、びちゃびちゃと音を立てて蠢いた。
一拍、二拍……不気味な沈黙ののち、震える肉がねじくれながら形を成す。
そして──魔物たちの甲高い咆哮が戦場を裂いた。
「撤退ッ!! 全軍、後退陣形へ移行ッ!!」
ヴェルドレッドの決断は早かった。
すぐさま指揮台の上で黒銀の双翼旗が振り上げられる。
「伝令班、全区画へ展開! 第五小隊以北は即時離脱!」
伝令兵たちは一斉に駆け出し散開した。
撤退をしめす赤い司令旗が、混戦となった草原を疾駆する。
旗が翻るたびに、騎士たちは目を見開き、盾をかざして後方を振り向いた。
「全軍撤退! しんがりは第三突撃隊! 遅れるなッ!!」
戦場に号令が飛ぶ。
翼竜の炎に背を焼かれ、獣の牙を脇腹に受け、それでも伝令兵は命を賭して駆け抜けた。
たなびく旗が狂乱の戦場の律となり、騎士たちの導となって道を拓く。
怯え、絶望し、膝をついていた騎士たちが力を振り絞って立ち上がる。
「――進めッ!!基地までは持ちこたえろ!!」
「第二小隊、負傷者を運べ!」
ヴェルドレッドは愛馬にまたがるとミディアの痩躯を抱え上げる。
「舌を噛むなよッ!」
黒馬は勇ましく地を蹴った。ミディアはしがみつくだけで精一杯だ。
重い振動に揺さぶられ、前哨基地の前門へとたどり着く。
あれほど混乱していた騎士たちが、今は一丸となって動いていた。
隊列を組み速やかに前哨基地へと帰還する。
最後まで踏みとどまっていた部隊は、すでに死を覚悟していただろう。
「移動式バリスタ、全て外に出せ!!!! 構えッ、ってぇええええええええ!!!!!」
雪崩のごとく押し寄せる魔物の群れに、無数のボルトが撃ち込まれる。
引き返した別部隊が、膝をつく騎士を助け起こすと、門を目指して一心不乱に駆けだした。
「第二射、よく狙えッ!!!! 味方にあててくれるなよ!! ってぇえええええ!!!!!」
鈍い音とともに魔物の群れがはじけ飛ぶ。
もつれる足でしんがり部隊が駆け込むと、バリスタ部隊もすぐさま基地に飛び込んだ。
「閉門ッ!!!!」
号令とともに跳ね橋門を支えるロープが断ち切られ、門が轟音をたてて閉ざされた。
***
「状況は」
ヴェルドレッドが兜を外すと、滝のような汗が流れ落ちる。
すぐにやって来たのはコルテア卿だ。部下の錬金術師が冷えた水筒を手渡すと、半分を喉に流し込み、残りは頭からかぶって息を吐く。
前哨基地は撤退した騎士たちによってあまりにも過密になっていた。
重傷者を寝かす場所すらほとんどない。その場にしゃがみこむことすら難しいほどだ。
騎士の誰もが怪我を負い、指先を動かすことすら難しいほどに疲弊していた。
指揮官の声を聞いても反応できない者も多く、仲間の騎士に小突かれてようやくよろよろと動き出す。
血にまみれて、あちこちへこんだ鎧や兜を脱ぎ捨てる者も多かった。
鎧を繋ぐ革紐は千切れてしまっていたし、鎧そのものが変形しすぎて体に食い込んでしまっている。
常ならば、騎士の誇りとして磨き上げられていた兜も、今は基地のあちこちに無造作に投げ捨てられている。
魔術師が水魔法で飲み水を作り出し、錬金術師の装置がそれを素早く冷やしていく。
給水所が稼働しはじめれば、騎士たちは少しばかり生気を取り戻した。
水を飲みながらふいに泣き出した若い騎士は、戦友を失ったのだろうか。
皆、鉛のように重い体を引きずりながらも、少しずつ規律を取り戻していく。
整列し、順番に給水を受け、重傷者は基地の一角に集められる。
指揮官の声も枯れ果ててほとんど出なくなっており、それらはほとんどが無言で行われた。
「浄化の奇跡は、無事に完成いたしました」
ヴェルドレッドの問いかけに答えたのはコルテア卿だった。
視線を向ければ大聖女モレアンキントがいまだ祈りを捧げていた。
その周囲を神殿騎士たちが油断なく守りを固めている。
「あとは魔瘴を塞ぎきるまで持ちこたえられるか……。やれそうか?」
「結界魔法を組み込んだ障壁が生きております。いましばらくは耐えられるでしょう」
だが、魔瘴を封じ込めたとして、魔物の群れがすべて消え去るわけではない。
必中の一手を差し、この前哨基地は崩れ去る。
それは予感ではない。
あの空を見れば誰しも感じることだろう。
死は間近にある。
夕刻まで、生き抜くことは叶うまい。
「そうか。……では、コルテア卿、ミディア嬢以下余名を選抜し、コンコルドまで落ちのびられよ」
「はっはっは、このように先行き短い老いぼれに生き延びろと?」
「若枝を導くにはあなたのようなしぶとい老いぼれこそ必要だ」
「ま、ま、ま、待って下さいッ!!」
ミディアもまた手渡された水筒で喉を潤していたが、慌てて二人の間に割り込んだ。
「こ、こたびの作戦を提案したのは私です! ならば私は、最後の瞬間までここにいます!」
「だからこそだ、ミディア嬢。貴女は誰よりもこの作戦を熟知している。あれを止める術を知っている。だからこそ逃げるのだ」
ヴェルドレッドの声は穏やかで揺るぎなかった。
その大きな手をミディアの肩に乗せると、まっすぐに視線を重ねて言葉をつむぐ。
「……完全なる勝利とは、歴史にそのありようを刻み込み、過ちを繰り返さぬ事によってこそ得るものだ。故に、貴女は生き残らなければならない。ここに生きた、我らの証として生きるのだ」
数多の戦場を駆け抜けた戦士であるが故の、あまりにも重い言葉だった。
繰り返してはならない。
きっとそれは、彼自身の多くの悔恨から絞り出された言葉なのだ。
その目は真摯な光を宿しており、決してミディアを子供と侮っているわけではない事が見てとれた。
証人として、次世代への架け橋として生きて欲しい、と。
あまりにも一途な願いなのだ。
「わ、わたし、は……」
ミディアは大きく息を吸い込んだ。
冷静に、思考を研ぎ澄ます。
考えろ。なにが正しいか考えろ。
最善の道を見つけ出せ。
息をする。
顎をあげて背筋を伸ばす。
考えろ。
思考こそが小さなミディアの武器なのだ。
「……僭越ながら、ロストバラン家ミディアより一つ進言がございます」
俯いていたミディアが顔をあげる。
真正面からヴェルドレッドに向き合うと、よどみなく声をあげた。
その目に宿るのは決意の炎。
「前哨基地の結界魔法の術式は、かつて私が鷹巣砦に用いたものを組み込んであると伺いました。ならば、術式を組み換え、この場に残るすべての術者とともに結界魔法を強化します。
奇跡の術式が成ったのであれば、エーテル変換装置も術式の強化に回すことが出来るでしょう」
「……防御を固め、それで如何にする」
「援軍を待ちます」
ミディアは小さな拳を握りしめる。
「今しばし持ちこたえれば、我が父ロベルトが、ヴェルドレッド卿のご子息ご息女たるアレクシス殿とアレクシア嬢が来ることでしょう。
私は──、父を信じます。ヴェルドレッド卿も二人を信じて下さい。彼らならば、必ずや活路を開けます!」
ヴェルドレッドは低くうなった。
揺れている。
彼の軍人としての天秤が、策を秤にかけて揺れている。
確信したミディアはさらに言い募った。
「これは、賭けではありません。構築可能な『策』です。
私がここに残ることで、前哨基地の防御力は格段に向上します。――これは、持ちこたえるための具体的な布石。その間に騎士団は回復に努め、増援を待つ。
多面的な戦略であり我らの布陣を、一段と盤石なものとします」
ミディアはヴェルドレッドと見つめあう。
黒騎士の逡巡を悟ったコルテア卿が一歩前に踏み出した。
「この身もひとこと進言させていただきましょう。魔瘴から生み出された魔物は、自らの命を顧みず戦いに身を投じる。故に、こちらが籠城の構えを見せれば闇雲に突撃を繰り返すことでしょう。
すなわち、持ちこたえる時間が長ければ、それだけ自滅を誘うことになる」
コルテア卿はそこで一度言葉を切ると、皺だらけの顔で微笑んだ。
「ミディア嬢を死地に留め置いたこと、ロベルト卿が激怒した折には、この老いぼれも一緒に頭を下げましょう」
そこまで聞くとヴェルドレッドも喉の奥で笑みを転がした。
「無論だ。俺の頭一つじゃ足りんと言い出すかもしれんからな。
……ミディア嬢、すぐに取り掛かってくれ。コルテア卿、錬金術師たちのサポートを任せる」
ヴェルドレッドは騎士たちに振り返ると声をはった。
「医療部隊! 重傷者と軽傷者を選り分けろ。重傷者は癒しの奇跡を。
第一小隊から第三小隊は休憩。第四小隊以降、動けるものは基地の補強に回れッ! 一刻の後に交代せよ!」
ミディアは勢いよく頭を下げると魔術師たちに向かって駆け出した。
次回で最終回となります。
あと一回、ミディアの戦いを見届けて下さい。




