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どうぞよろしくお願いいたします。

 重病人の枕元に忍び寄る死神のように夜が野営地を包み込んでいた。


 増やされた松明の灯りは、かえって闇の濃さを際立たせる。

 丘陵の起伏に沿って連なる灯火は、まるで大海に漂う小舟のように頼りない。


 昨夜に比べて騎士たちは砦の外壁へより近く、ひしめくように身を寄せていた。

 彼らの寝床となる草地は、背が低い草ばかりが生えており、快適な寝床とは程遠い。

 今宵は霜が降り地面はじっとりと湿っていたため、厚いマントを下敷きにしても体温を徐々に奪われる。

 夜になり強くなった海風もまた彼らの体力を奪っていく。

 べたつく風はそれ自体が不快であったし、今はさらに強烈な腐敗臭が混ざっている。

 その全てが、これから始まる長い夜が悪夢となることを告げていた。


 「また、獣が来るのか」

 「アランの首が跳ねられて……頭は体から数十メートルも離れてたって……」

 「近くにいたんだ。あの呻き声、まだ耳から離れねえ……」


 厳格な規律に縛られる騎士たちが、こうして囁き合うなど普段ならあり得ない。

 だが今宵ばかりは、眠りにつけぬ者が多かった。

 横になる者も少なく、鎧を着たまま剣を抱き、ただ目を閉じている。


 野営地の外れでは、昨夜命を落とした者たちが、薪とともに火葬に付されていた。

 遺体はひとところに集められ、薪と交互に積み上げられた上で火が放たれた。

 しかし、砦に運び込める薪の量は限られる。

 生木も混ざっていたのだろう。火はこの夜半になってもまだ燻り続けている。

 肉と脂の焼けるねばつくような甘い臭いは、魔瘴の腐敗臭よりも耐えがたい。

 昨日まで肩を並べて戦っていた仲間の、その死の臭いが、今夜の空気に重く重くのしかかる。


 ミディアはヴェルドレッドとともに前哨基地の外に築かれた櫓の上にいた。

 本来、物見やぐらは基地の内部にあったのだが、飛行系モンスターに備えて防御網を張ったために、基地の外にも急ごしらえの櫓が建てられたのだ。


 「寒くないか? 必要になるまで中で休んでいても構わないぞ」

 「さ、寒さは、平気、です。そ、その、休もうにも、眠れなかった、ので。そ、それにヴェルドレッド卿のそばに、いるのが、い、一番安心、するので」

 「そら嬉しいが、ロベルトの奴に殴られそうだな」


 ヴェルドレッドは喉を鳴らして笑ったが、その瞳は鋭く闇夜を見つめている。

 どこかで馬のいななきが響き、甲冑が擦れ合う音がする。

 まだ年若いミディアも、幾度となく夜を越してきた。

 だが今宵の闇はまるで生きているようで、漆黒のそこかしこに濃厚な気配が潜んでいる。


 夜が敵意を持っている。

 明確にそう感じたのははじめてのことだ。


 寒くないと言ったものの、指先はかすかに震えていた。

 爪から血の気が失せているのは寒さよりも恐怖と緊張のせいだろう。


 「あ、あの、鷹巣砦では、クニャンが過ごしているとお伺いしました」

 「マヌマム族の巫女殿だな。彼女にはこちらも大いに助けられている」

 「はい、グエムス族との仲介役を買って出ているとか」

 「ああ、もとより我らに害意はない。ノズガリアの民はむやみに夜の森へと踏み込むことは滅多にないからな。侵略戦争などもっての他だ。

 ……まぁこれは単純に利益の問題でな。あれだけ深い森を切り開いたところで、得られるものはあまりないんだ」


 ヴェルドレッドの声に苦笑が混じる。


 「では何故、グエムス族は敵対していたのでしょうか。

 コボルト達は領地に踏み入った者たちに対して攻撃的になるのだと思っていました」

 「そこが難しいところでな。まっとうな民は夜の森には近づかん。だがまっとうでない者たちにとってあの森は良い隠れ蓑になる。

 とはいえ、あの森の深さは並大抵の人間では堪え切れん。夜盗どもが逃げ込もうがそのまま帰らぬ者となるのが関の山だ。だとしても、人間が踏み込んだという事実は確かにある」

 「つまりクニャンは、夜の森に踏み込んだ者たちは人間ではあるけれど、ノズガリアの民ではないと説いてくれたんですね」

 「そういう事だ。夜の森を出入りする場合にはコボルト族のガイドをつけるという条件で話し合いが行われている」


 コボルトのガイドがついていない者は排除の対象にして構わないと言外に匂わせてヴェルドレッドが言う。


 「それはお互いにとっていい歩み寄りになりそうですね」


 会話が終わると、沈黙とともに闇の存在感が増していく。

 再び口を開こうにも、そこに潜む気配に気圧される。


 ──ふとミディアは周囲の静けさに気が付いた。

 甲冑の金属音、馬のいななき、松明が燃える音さえ今はほとんど聞こえない。

 海から吹き上げてくる風が止み、軍旗が力なく垂れさがる。


 沈黙。


 唯一耳に届くのは、自分自身の心音だ。


 「……来たか、……」


 ふいにヴェルドレッドが一歩前に踏み出した。


 「え?」


 ミディアも櫓から身を乗り出すように前に出た。

 目を凝らしても始めそれは分からなかった。だがやがて、丘陵に並ぶ灯火が消えていく事に気が付いた。


 「敵襲ッ!」


 ヴェルドレッドの声に、すぐに警鐘が打ち鳴らされ、騎士たちが守備陣形を形成する。

 丘を駆け下りて来るのは、巨大な一匹の獣だった。

 松明で浮き上がるのは獣の陰で、陰こそが獣であるように斜面を滑るように降りてくる。

 全身をばねに疾駆する巨躯。

 それは、かがり火で照らされて尚も見失いそうになるほど敏捷だ。


 獣は素早いだけでなく狡猾だった。


 盾を並べ、守りを固めた騎士たちの周囲を駆け抜けると、ふいに踵を返して横手から一気に襲い掛かる。

 僅かな油断も見逃さずに踊りかかって切り裂いて防御を崩し、立て直す気配があればすぐに退く。


 ひとりが悲鳴を上げた瞬間、別の方向からも似た声が重なる。

 影が裂けるように走る何かが見えたと思えば、別の場所で甲高い咆哮が響く。

 それは電光石火の素早さで、騎士たちは獣が複数いると錯覚する。


 「こっちにもいるぞ!!!!」

 「第三小隊が襲われたッ!!!!!」

 「あそこだ!!! 茂みの中だ!」

 「10頭はいるぞッ!!!!」


 歴戦の騎士たちは冷静を保っていたものの、まだ若い騎士はすぐに混乱に陥った。

 慌てふためいて逃げ出して、背中を引き裂かれる者もいる。


 「落ち着け!!!! 盾を構えッ! 列を乱すな!」


 ヴェルドレッドが声をはるが戦場は混迷を極めていく。

 これが全てヴェルドレッドの私兵であれば騎士たちも一頭の獣のごとく動くことが出来ただろう。

 だが此度の戦線に投入された騎士は多数で、それゆえに玉石混淆になっている。

 実戦経験の薄い騎士たちは次々に恐怖が感染し、足を引っ張る枷となる。


 「いやだぁああああ、死にたくないッ!!!!」


 泣き叫んで剣を振り回す騎士が松明の上に倒れこむ。その瞬間、樹脂が付着したのか、マントが勢いよく燃え上がった。

 騎士は、燃えるマントをたなびかせ悲鳴をあげながら走り出し、火勢はかえって増すばかりだ。

 そんな有様がそこかしこで起こっている。

 敵の姿が見えないことが、混乱に拍車をかけていた。


 「……ミディア嬢、やれるか?」


 振り返るヴェルドレッドにミディアは小さくうなずいた。

 ここにいるのは、魔法を行使するためだった。そのために櫓の上に陣を描き、じっと待機していたのだ。

 用意した魔法陣は周囲を照らすライティング。

 その効果を一瞬に絞り、威力は十倍にするというものだった。

 使いどころが限定されるような術式も、ミディアならば作り出すのは簡単だ。


 「警鐘、用意!」


 ヴェルドレッドの合図で警鐘が再び鳴らされる。

 カァン、カァンと普段よりも間をあけて打ち鳴らされるその音は、ライティング発動までのカウントだ。

 そして──三度目の鐘。

 ひときわ高く打ち鳴らされる警鐘とともに、ミディアは杖を抱えあげる。


 「閃光よ! 刹那の明星となりて夜を穿てッ! ルクスエクブリオ!!」


 激しい光を解き放つ。

 騎士達は寸前で目を覆い、視界が奪われるのを回避する。

 閃光の直撃を受けた獣は、足を地に縫いつけられたようにたじろいだ。


 「クロスボウ構えッ! 打てぇええええええええッ!!!!!」


 この瞬間を待ち構えていたのは複数ある櫓の射手たちだ。

 閃光が去ると同時にクロスボウを構えると、動きを止めた獣めがけて一斉にボルトを打ち込んだ。

 無数のボルトは見事に獣へ突き刺さる。

 獣はしばし怯んだものの、大地を震わす咆哮とともに再び戦場を駆け出した。

 ヴェルドレッドはその様を、険しい目つきで追いかける。


 「……き、きいて、いない?」


 ミディアの声は驚きと絶望で消え入りそうなほど震えていた。

 あのボルトには全て毒が塗ってあったのだ。

 キアマンサ草──別名・血溜り草とも呼ばれるその植物は、見た目も血のような赤色だ。

 その名の所以は根のしぼり汁が強い毒性を持っており、体内に入れば毛穴という毛穴から出血して死ぬという恐ろしさにある。

 この恐ろしい毒は多くのモンスターにも効果がある。

 ただ、非常に希少であるために、戦いに用いられることは稀だった。

 その希少な毒を用いても、獣の動きはほとんど衰えていないのだ。


 「……悪い予感が当たったな」


 ヴェルドレッドが低く呻くように呟いた。

 ミディアが心配そうに見上げると、その視界のはしに飛び込んでくる陰がある。


 「まずいッ」


 次の瞬間、ヴェルドレッドはミディアの体を抱えあげ、櫓の上から飛び降りた。

 ミディアには何が起こったのか分からない。

 飛び降りると同時に、櫓が音をたてて崩れ落ち、そこに獣が飛び込んできたのだと理解する。

 着地の重い衝撃と、息もつかせず襲いかかる黒い影。

 ヴェルドレッドは盾を構えて獣をいなすと、ミディアを守るように前に出る。

 

 ──獣の気配は間近にあった。


 低くうなる声、鼻をつく強烈な腐敗臭。

 ヴェルドレッドの背後にいて尚も押しつぶされそうな圧迫感に、ミディアは杖を握りしめる。

 ここまで肉薄されてしまっては、ミディアにはもう成すすべがない。

 せめてヴェルドレッドの足手まといにはなりたくないが、それも難しいだろう。


 何か少しでも出来ることは。

 そう思ってヴェルドレッドの陰から顔をのぞかせたミディアは、そこで初めて獣と向き合った。


 ひゅっと大きく息を飲む。

 心臓が鷲掴みにされたかのような衝撃に、ミディアはその場に凍り付いた。


 「あ、……、ぁあ、そ、そんな、……あなた、は、……」


 その名を口にしようとして、ヴェルドレッドが手で遮った。


 ──彼は知っていた。

 どこかで気付いていたのだろう。


 鎧すら容易く引き裂く大きな爪と、体を食いちぎる鋭い牙。

 隆々とした筋肉に包まれた鋼のごとき体は、相反したしなやかさを持っている。

 全身を覆う銀毛はカロの赤月の光を受け、血塗られたように輝いていた。

 ゆらゆらと揺れる尾を、ミディアが見間違う筈はない。


 虎と人との獣人、いや、────純血種の虎人、ディアドラだ。


 生きていた。

 一瞬湧き上がった感情は、獣の白濁しきった瞳によって打ち砕かれる。

 毒のボルトを撃ち込まれても倒れぬ体。あたりに立ち込める腐敗臭。


 それらが指し示すことは。


 彼女は魔瘴により、蘇ることとなったのだ。

 そして今、腐りかけた体で、意思なくして力をふるっている。


 「どう、……してッ……!!!!」


 ミディアの悲鳴が響いた刹那、大虎が唸り声と共に爪を振り上げて襲いかかる。

 ヴェルドレッドは一歩も引かず、巨体の攻撃を盾で受け止めると、反動を利用して地を蹴った。

 懐へと飛び込むその動きは、重装とは思えぬ素早さで、矢の如く鋭く深く潜り込む。

 予想外の接近に、大虎は咄嗟に後方へ跳び退いた。

 だが、その隙をヴェルドレッドは見逃さない。


 盾を構えたまま、なおも前進。

 着地の瞬間を狙いすましたように突撃し、鋼鉄の盾で大虎の胸を強打した。

 重々しい衝突音が響き、獣の巨体がたたらを踏む。

 畳みかけるように振るわれた剣閃が、次なる一手を封じこめる。

 大虎はさらに距離を取るべく跳び退り、低く唸って威嚇した。


 一筋縄ではいかない――そう悟ったのだろう。


 そのわずかな合間に、騎士たちは陣形を立て直す。

 騎士団長ヴェルドレッドが猛獣相手に優勢を見せたことで、彼らの心に火が灯ったのだ。

 怯えていた若き騎士たちも歯を食いしばり、立ち上がる。盾を構え、再び獣を取り囲むように前進していく。


 唸っていた大虎も、さすがに不利を悟ったようだった。

 低く身を沈めたかと思えば、騎士たちの頭上を跳び越える。

 幾重にも構えられた槍がその身を穿たんと突き出されるが、獣はそれらをすり抜け、闇へと溶け込むように姿を消していった。

 しばしの間をおき、騎士たちの間から割れんばかりの喝采が湧き上がる。


 「やったぞ!!!! 獣が逃げていったぞッ!!!!」

 「我らがヴェルドレッド様が大虎を追い返したッ!!!!!!」

 「ヴェルドレッド様万歳ッ!!!!!!」


 騎士たちは勝鬨をあげ、この夜を生き抜いたことに歓喜する。

 喜び、涙し、互いをたたえあう騎士たちを、ミディアは呆然と見つめていた。

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ああ…生きていればと思いましたが…やっぱり…
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